短編 凛風の恋3
「どうしましょう……どうしたらいいのでしょう……」
翠蘭は道場の隅で鬱々とした声を漏らしていた。
そんな翠蘭を、芽衣と凜風の二人がニヤニヤと眺めている。
「いやぁ、若いってのはいいねぇ。そんなにドキドキしちゃうんだ」
「芽衣さんだってそんな齢じゃないでしょ」
「っていうか、どうしようもこうしようもないよね。別に何か対処しないといけない問題があるわけでもないし」
「それなのにこんなに思い悩んでるんだから、翠蘭はよっぽど本気なんだ」
「純情ってのは罪だねぇ……」
二人の話している通り、翠蘭の周りには何かしないといけないような事態は何もない。
袁徽の状態は日々回復しているし、後遺症もひどくはなさそうだ。まだ入院はしているが、もう世話らしい世話も必要なくなったので翠蘭も自宅に帰っている。
今日も普通に道場に顔を出していた。
が、鍛錬には身が入らない。気づけば先ほどのように、
「どうしましょう……」
という言葉ばかりを繰り返しているのだ。
その原因は馬修だった。
「そんなに馬修君のこと好きなの?」
と、芽衣に問われた翠蘭は湯でも湧かせそうなほど顔を赤くした。
己の恋心に気づいてしまった翠蘭は、普通なら積み重ねているべき耐性が無いためにひどく動揺してしまっている。
「自分でも、自分の感情がよく分からないことになってるんです……」
「妙に心が浮ついたり?」
「そうなんですけど、かと思えば一気に沈んだり……」
「なるほどなるほど……あっ、馬修君だ!」
と、芽衣は道場の入口を指さした。
「えっ!?」
翠蘭は素早くそちらを向いたが、馬修どころか誰もいない。
「あー、見間違いだった」
それを聞いた翠蘭ははっきりと肩を落とした。
その様子に、芽衣と凜風はケタケタと笑い声を上げる。
「……もう、お二人とも!人が悪いですわ!」
むくれた翠蘭の頭を、凜風はまだ笑いながら撫でてやった。
「ごめんごめん。でもさ、それならもう行動に出ちゃった方が楽になるんじゃない?」
「行動……と、言いますと?」
「だからさ、愛の告白をして結婚しちゃうのよ」
凜風の提案に翠蘭の顔はよりいっそう赤くなったが、その表情はすぐに曇った。
「で、ですが……先日も馬修さんは結婚はしないって……」
先日診療所で、翠蘭が馬修との結婚はありえないと言った直後の馬修の発言がそれだった。
『お、俺だって結婚なんかしないよ!ってか、今の俺には女にかまけてる暇なんてないね!一人前の医者になるまでは絶対に結婚はしない!勉強勉強!』
などと、啖呵を切るように言ってみせたのだ。
それ以来、翠蘭と顔を合わせてもつっけんどんな態度を続けている。それも翠蘭が懊悩している理由の一つだった。
「私、きっと馬修さんに嫌われていますわ……」
そう言う翠蘭に対し、芽衣は首を傾げた。
「そうかなぁ?なんか話だけ聞いてると、むしろ逆な気がするけど……」
と、凜風へと目を向ける。
凜風はちょっと困ったような、それでも愉快そうな笑みを返した。
「う〜ん……ホントはこれ言っていいかどうか分かんないんだけど……旦那の話じゃ、修君は翠蘭にベタ惚れらしいんだよね」
旦那、というのは凜風の夫であり馬修の兄である馬雄だ。
しかし、そう言われても翠蘭には信じられない。
「それはお兄様が気を遣っておっしゃっているだけでしょう。どう見ても好意のある態度ではありませんわ」
「いや、なんかそれがベタ惚れの証拠らしいよ?実は旦那も修君に翠蘭とのことを聞いてみたらしいんだけど、『うるせぇ兄貴は引っ込んでろ!』ってすごい剣幕で怒鳴られたんだって」
「ですから、それがどうして……」
「その過剰反応が何よりの証拠だって言ってたけど」
「……?意味が分かりませんわ。何なんですか……」
翠蘭はなんら理解できなかったが、芽衣はその話を聞いてうんうんとうなずいた。
「なんか男の子って、好きな子に対して素直に行動できないらしいよ。本心では仲良くしたいのに意地悪したり、話したいのに無視したり」
「……??何なんですか……男の子、本当に何なんですか……」
翠蘭はうんざりした声を上げた。
振り返ってみれば、最近の翠蘭はこんなことばかり考えている。
(男の子って、なんであんなに喉仏が大きいんでしょう……なんであんなに肩幅が広いんでしょう……なんであんなに腕の血管が出ているんしょう……)
馬修のことを思い浮かべる度に、そんなことを考えていた。今まで気にならなかった男女の体の違いがやたら気になる。
この上心の違いまで気にし始めてしまったら、頭が破裂してしまいそうだ。
「でもそんな風に両想いなら、もう話は早くない?」
芽衣の言うその分かりやすい結論を、凜風はため息で否定した。
「それがそうでもないらしくて……旦那が言うには修君ちょっと頑固なところがあるから、一人前の医者になるまで結婚しないとか言ってたのを貫きそうなんだって。本当はすぐにでも結婚したいはずなのに」
「何その誰も幸せにならない決意」
芽衣の言う通り、その結果として誰が幸せになるわけでもないように思える。
(一人前のお医者様になるにはどのくらいかかるのでしょうか……?十年、二十年と言われても違和感はありませんわ……)
その間に翠蘭の結婚適齢期は過ぎているのではないか。
そう思うと、翠蘭の心は絶望で暗く閉ざされた。
その表情に心を痛めた芽衣は、自分の胸を拳でドンと叩いた。
「よ〜し、この芽衣さんが一肌脱ごうじゃないか!そういうウダウダ男の攻略法を伝授してしんぜよう!」
そんなことを言い出した芽衣へ、凜風はうろんげな視線を送った。
なんとなく、嫌な予感がする。
「ええ?攻略法って……芽衣さんそんなこと知ってるの?」
「知ってるも何も、死んじゃった夫も一歩踏み出そうとしないウダウダ男だったんだから。私はある物の力を借りて、それを
「いや、跪かせたって……」
凜風は苦笑していたが、翠蘭は身を乗り出してその攻略法を聞きたがった。
「め、芽衣さんっ、教えて下さい!そのある物とは……!?」
芽衣は腕を組み、重々しくうなずきながらその秘伝を明かした。
「酒」
***************
「……うるさいなぁ」
馬修は眉をしかめて医学書の竹簡から目を上げた。
ため息をつくと、卓上の灯火が揺れる。その動きに合わせて部屋の壁に伸びた馬修の影も歪んだ。
「酒盛りはいいけど、もうちょっと静かにしてもらえないかね。こっちは頑張って勉強してるってのに、集中できやしない」
そうつぶやいて、またため息を漏らす。
もう夜も更けてはいるが、馬修は自室で医学書を読んでいた。ここの所、毎晩遅くまでそうしている。
医者になるための勉強は面白かった。
おそらく何の知識もないところから始めていれば苦痛も大きかっただろうが、馬修はすでに実践としての治療を知っている。
患者の状態と、そこから類推される処方薬。
その知識がすでにかなりあるから、医学書を読んで感じられることは実践と理論が紐付けられる感動ばかりだった。
『この分なら、本当に数年で医師として独り立ちできそうだ』
と、師の衛玄も太鼓判を押してくれた。それくらい馬修の知識と技術の上達は速かった。
だから医学書には普段からよく集中できるのだが、今はそれが難しかった。
家で芽衣と凜風、そして翠蘭が酒宴をしているのだ。その楽しそうな笑い声が響いてきて、気が散ってしまった。
「うるさいなぁ」
もう一度そうつぶやいたが、本当はうるさいから集中できないわけではない。
それは自分でも分かっていた。
(翠蘭の声が聞こえると、他のことが何も考えられなくなる……)
それが本音だった。しかし、そんなことは認められない。
翠蘭は自分と結婚することはありえないと言っていた。あまつさえ、軽く笑っていたのだ。
だから自分の本音を認めると、自分はひどく傷つくことになる。
ただ、それでも気づけば翠蘭の笑顔が脳裏によぎるのを、馬修は止められなかった。
(会いたい……会って、話したい……顔が見たい……そして出来ることなら、触れたい……)
とはいえ、別に最後以外はしょっちゅう叶うことではある。翠蘭はかなりの時間凜風と一緒にいるから、同居している自分とは顔を合わせることが多かった。
しかし、最近の馬修は翠蘭がうちに来ると挨拶もそこそこ自室に引っ込んだ。会いたいくせに、そばにいるとむしろ苦しいのだ。
願いは叶っているようで叶っていない。そして、今後も叶うことはない。
それを感じてしまうから苦しいのだろう。
「……勉強、勉強」
馬修は無理矢理に頭を切り替えて、医学書に目を落とした。頑張って文字を追い、脳をそれで埋めようとする。
しばらくそうしていると、女たちの声が急に聞こえなくなったことに気づいた。
(……ん?なんか静かになったな。そろそろお開きかな?)
もう結構いい時間だ。酒盛りを切り上げて寝るのだろう。
そう思っているところで、部屋の戸が叩かれた。
「あの……馬修さん?」
その声が耳に入ると、馬修の脳内から今読んだ医学書の内容は消え去ってしまった。
翠蘭の声だ。
「まだ起きてらっしゃいますか?」
馬修は本心では翠蘭に話しかけられて嬉しかったものの、わざとそっけない声色を作った。
「起きてるけど、なんか用?」
最近の翠蘭はこういう言い方をされると、シュンとなって肩を落としてしまう。
馬修はそれを知っているが、どうしてもこんな態度をやめられなかった。
(また傷つけてしまった……)
そのことに後悔していたのだが、意外にも今日の翠蘭の声からはそんな様子をうかがえなかった。
「入ってもよろしいですか?」
ごく普通の声でそう聞いてくる。
それで馬修はまた意地悪を言ってしまった。
「だから、なんの用?」
自分でもひどい言い方だと思うが、どうしようもない。
ただ、そんな言い方も今日の翠蘭は何ら気にした様子はなかった。むしろ馬修の言葉を無視して、
「入ってしまいますね」
と、許可も得ずに勝手に入ってきた。
馬修はそのことに驚いた。礼を重んじる翠蘭には考えられないことだ。
「な、何?俺いま勉強してるんだけど……」
また突き放すような言い方をする馬修へ、翠蘭はいつもと違う笑みを向けた。
それはどこか顔の筋肉が弛緩しており、付け入る隙を感じさせるような笑みだった。
(……だいぶ酔ってんな)
馬修は翠蘭の顔を見て、すぐにそれが分かった。
実際、馬修へと歩み寄ってくる翠蘭の足取りはひどくおぼつかないのもだった。見ていて怖くなるほどだ。
そして案の定、馬修の少し前で転倒しそうになった。
馬修は慌ててそれを支える。
「あっぶない!!……おい、気をつけろよ。ただこけるだけでも、状況次第では大怪我にだってなるんだぞ」
馬修は診療所で老人の転倒事故をよく見ている。だから、心の底から翠蘭を心配して叱った。
「ごめんなさい。本当に自分でも危ないと思いますから、そのまま支えていてくださいまし……」
と言いながら、馬修の胸に顔をうずめた。
その状況に、馬修の体と思考は固まってしまった。
翠蘭はしなだれるように馬修に抱きつき、その鼓動を聞くように胸に耳を密着させている。
想い人の柔らかな感触と甘い匂いに包まれて、馬修の心臓はこれまでの人生で一番速い拍動を繰り返した。
「ちょ……す、翠蘭?」
「好き」
そのあまりに短い二文字の言葉で、馬修の鼓動の速さはまた最高記録を更新した。
(き……聞き間違いだよな?)
そう思ったところで、翠蘭はもう一度繰り返した。
「好き」
突然の事態に、馬修の脳はまともな働きができなくなった。
何か甘ったるい霧にでも包まれたような感覚に陥り、うまく声が出せない。
しばらくしてかろうじて出た言葉は、その場を取り繕うための言葉だった。
「……な、何言ってるんだよ。ちょっと酔い過ぎなんじゃないか?」
その言葉を受けて、翠蘭はため息をついた。
それがまた妙に色っぽくて、馬修の脳は溶けたようになった。
「……お兄様が、馬修さんは私にベタ惚れなのだとおっしゃっていました。本心ではすぐにでも結婚したいはずだって。本当でしょうか?」
問われたウダウダ男の馬修は、この期に及んでもまだウダウダした。男として踏み出すべき一歩を踏み出さない。
翠蘭の質問に答えず、逆に翠蘭を責めた。
「す……翠蘭の方が、俺は兄か弟になる男だから結婚はありえないって言ったんじゃないか。だから……」
「兄か弟か、どれだけ悩んでも結論は出ませんでしたわ。だから夫になっていただけたらと思って」
翠蘭はそう言いながら、馬修の喉仏に手を触れた。
それを指先で
「……どうして、男の人はこんなに喉仏が大きいんでしょうね」
「さ……さぁ?」
「私、気になって気になって仕方ないんです。だからつい、握り潰して中を見たくなってしまいますわ」
翠蘭の指に少し力が入り、馬修は背筋になにか恐ろしいものが走るのを感じた。
生き物の本能として、強い危機感を覚える。
「ねぇ……馬修さん?私は勇気を出して自分の気持ちを伝えましたわ。馬修さんは応えてくださらないんですか?」
今までに経験したことのない危険を感じた馬修は即答した。
「あ、兄貴の言う通りベタ惚れです……すぐにでも結婚したいです……」
えも言われぬ恐怖のせいか、不思議と敬語で返事が出た。
その言葉を受けて、翠蘭は馬修を抱きしめる腕に力を込めた。
そのうなじに頬を押し付け、ひどく妖艶な笑みを浮かべる。
「嬉しい……そしてこれで、合意が得られたということですね」
そうつぶやいて馬修の体を軽く引き、それから押した。
「えい」
するとどんな力加減か、馬修の体はくるくると回って移動し、寝台の上にきれいに倒れた。
その馬修の腰に、翠蘭がまたがってくる。
「失礼いたします」
「ちょ……何するんだ」
馬修は上に乗った翠蘭を反射的に押しのけようとした。
が、軽く払われるだけで腕の力がきれいにいなされて、全く届かない。
しかも自分の方は肩を軽く押さえられているだけなのに、なぜか上半身を起こすことすら出来なかった。
翠蘭の武術はかなりのものだということを知ってはいたが、まるで勝てる気がしない。
「合意が得られたからには、その実践です」
「え?え?……じ、実践って?」
「子作りですわ」
あまりの展開の速さに、馬修は目を白黒させた。
「ええ!?いや、実際に結婚もしてないのにそれはマズい……ってか、お父さんの袁徽さんは儒学者だし、絶対怒るだろ?」
「いいえ、むしろこれは孝に基づく行為ですわ。お父様には脳卒中の再発という危険因子があり、しかし孫を抱くことを強く望んでおられます。ならば形式などにとらわれず、早くに子を成すことが親孝行というものでしょう」
それは理屈として成り立っているのかもしれないが、全てがあまりに突然のこと過ぎて馬修の脳みそが追いつかない。
だから兎にも角にも、否定の言葉を繰り返した。
「いや……いやいやいやいや」
それを聞いた翠蘭は笑った。それはもう、可笑しそうに笑った。
「ふふ……ふふふ……ふふふふ……」
「な、何がそんなに可笑しいんだよ?」
「だって、あんまりにも芽衣さんから聞いていた通りだったものですから。でも、大丈夫ですよ?私、ちゃんと聞いて分かっていますから」
「……?どういうこと?」
「芽衣さんが教えてくれたんです」
「だから、何を?」
「『嫌よ嫌よも好きのうち』って」
それは絶対に一般化してはいけない危険な教えだろう。
そう思った馬修は、即座に否定しようとした。
「いやいや、それは……」
と、そこまで言ってから急に口をつぐんだ。また『いや』を口にしてしまったことに気づいたからだ。
案の定、翠蘭は嬉しさで花が開いたような笑顔を見せた。
それから馬修の唇を人差し指で二度つつく。
「す・き」
馬修はもはや、全ての抵抗が無駄であることを悟った。
そして、明けて翌朝。
翠蘭と共に部屋を出た馬修は、廊下で凜風にばったり出くわすことになった。
一瞬気まずい空気が流れた後、義姉は義弟に冷ややかな声を浴びせかけた。
「結婚……するのよね?」
ほぼ殺気だけで構成されたその質問、というか脅迫に対し、馬修は、
「はい……」
と、か細い声で返事をすることしかできなかった。
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