短編 翠蘭の恋2

 袁徽エンキは板に乗せられ、自分の体に起こった不思議について考えていた。


 板に横たわっていると、別に体調の不良を感じることはない。どこも痛くないし、熱などもないはずだ。


 しかし立って歩こうとすると、途端におかしくなる。右の手足が痺れ、上手く動けない。


 それで街中を歩いている時に、急に倒れてしまったのだ。


(墨を買いに行こうとしていただけなのだが……)


 書き物をしていたのに、墨が切れてしまった。だから買いに出かけたのだ。


 しかし市の近くまで来た時、急に足がもつれて転倒した。なぜこけたのか分からず、すぐに立とうとしたが立てなかった。


 通りがかった通行人がそんな自分を助けてくれようと近付いて来て、目を丸くした。


「おいおい、大丈夫か?……あ、あんたこれ、脳卒中だよ!!」


 通行人は袁徽の顔を見るなり、慌ててそう叫んだ。


(違う、脳卒中ではない。私の知り合いが実際に脳卒中になったが、頭が割れるような痛みだったと言っていた。しかし私はどこも痛くない)


 袁徽はそう言って否定しようとしたが、言葉が出てこない。なぜか分からないが、喋れなくなっていた。


 その通行人の大声で人が何人も集まって来て、気づけば板に乗せられていた。近くの診療所まで運んでくれるらしい。


衛玄エイゲン先生のところに連れて行くぞ!」


 そんなことを言っていた。


(脳卒中ではないだろうが、助かるのは助かる。確かに体がおかしい)


 そんなことを考えながらしばらく板に揺られていると、診療所に到着した。


 奥から医師らしき男が出て来た。この男が衛玄なのだろう。


 衛玄は袁徽の顔をひと目見て断言した。


「脳卒中だな」


(違う)


 と、袁徽は言おうとしたが、やはり言葉が出てこない。


 だから痺れのない左腕で頭を指し、手を振った。頭痛はない、と言いたかったのだ。


 その意図はきちんと衛玄に伝わったようだ。


「頭痛がないのだな。しかし、脳卒中には頭痛があるものとないものがある。脳の血管が破れた場合には頭痛がするが、脳の血管が詰まった場合は頭痛はない」


 なんだそれは、と袁徽は思った。


(ならば脳卒中という疾患は単一のものではなく、血管が破れる場合と詰まる場合の両方を指すのか。紛らわしい)


 痛みによる苦痛がないので、ついそんなどうでもいい事を考えてしまった。


 袁徽の理解した通り、脳卒中という病名は脳出血と脳梗塞の両方を指す。同じ脳血管系の疾患とはいえ、起こっていることはかなり違うから確かに紛らわしい。


 衛玄は続けて質問してきた。


「言葉が出ないのだな?痺れは?」


 袁徽は左手で右腕と右足を指した。


「物が二重に見えるとか、見えにくいとかはないか?それと、めまいは?」


 そういったことは感じないので、手を横に振って否定する。


「なるほど。しかし、それらが無くても他の症状から間違いなく脳卒中だ。何よりその顔を見ればすぐに分かる」


 言われて袁徽は自分の顔を触った。そういえば、ずっと顔の半分が動きづらい感じがするのだ。


「脳卒中を起こすと体の片側の筋肉が動きづらくなることが多い。顔は半分だけ表情を作れなくなるから、周りから見た時に分かりやすいのだ」


 袁徽は医師の説明で、通行人が自分のことをすぐに脳卒中だと断定した理由が分かった。おそらく、今までに脳卒中を起こした人間の顔を見たことがある者だったのだろう。


 おかげで早くに運んで来てもらえたのだ。その点は運が良かった。


「あらかじめ卒中だと聞いていたから、薬はすでに用意させ始めている。見たところ考えていた処方で良さそうだ。あとは安静にして、水分をしっかり摂るように。数日はこの診療所に泊まった方がいい」


 袁徽は診療所の奥の部屋に通されて、寝台に寝かされた。衛玄は横になった袁徽の体をあちこち調べていく。


 しばらくすると、一人の青年が椀に薬湯を入れて持って来た。


「薬をお持ち……え、袁徽さん?」


 見ると、袁徽にとって見覚えのある顔がそこにいた。馬修バシュウだ。


 衛玄が二人の様子を見て意外そうな声を上げた。


「なんだ、馬修の知り合いか」


「はい、兄の結婚祝いの席でちょっと……」


 馬修と袁徽はそこで一度会っている。


 ただ、どういう関係かと問われれば、なんとも答えるのが難しい。


 凜風リンプウ翠蘭スイランは血縁の姉妹ではないから、さらにその父の袁徽となると何と言っていいものやら。


「とりあえず、薬を飲んでもらいますね」


 馬修は横になった袁徽が薬を飲めるように、背中に布を重ねたものを入れて少しだけ起こした。しかし、完全には起こさない。


「体を起こすと、血液の圧が下がって詰まった部分の血流がもっと悪くなることがあります。飲みづらいかもしれませんけど、このくらいで頑張って飲んでください」


 そう言って、椀を袁徽の口につけてやる。


「脳卒中の場合、飲み込みが悪くなっていることもあります。むせないようにゆっくり飲んで。難しそうならとろみをつけますから」


 袁徽は馬修に言われた通り、ゆっくり飲んだ。


「……よし、嚥下は大丈夫そうですね。水分もしっかり摂りましょう」


 それを見ていた衛玄は、馬修の一連の対応に満足していた。


 数年の診療所勤務で、脳梗塞患者に対する対応をすでに覚えている。


(これなら数年しっかり教えれば、医者として独り立ちできそうだ)


 教える前からそこまで思った。


 実際、馬修は普段から自分と患者の会話を聞くだけで大体の処方を予測できているようだ。早くから薬の準備をし始めている。


 それができるなら、あとは理論などを体系的に教えていくだけになる。


「馬修。この患者さんはお前の知り合いということだし、今日は診療所に泊まって世話をしてあげなさい。何かあったらすぐに私を呼んでいいから」


「分かりました。袁徽さん、よろしくお願いします」


 と、頭を下げた馬修に向かって袁徽は初めてまともな声が出せた。


「娘……」


 多少ろれつは回っていなかったものの、言葉が紡げた。


 衛玄がそれを聞いて顔を綻ばせる。


「おお、喋れたな。血の巡りが良くなったか、血の栓がどこかに飛んでくれたか。何にせよ、これならすぐ重篤なことにはならないだろう」


(ということは、やはり重篤なことになる可能性も無いわけではないのだな……)


 袁徽の頭は多少の詰まりを抱えながらも、むしろそちらの事実をしっかりと理解した。


 そしてだからこそ、娘に会わなければならないと思った。


「娘を……」


 もう一度言ったその言葉で、馬修は袁徽の意図をしっかりと理解した。


「翠蘭を呼んでくればいいんですね?多分ですけど自宅か俺んちか、もしくは道場でしょう。人に頼んで呼びに行かせますから、待っててください」


 馬修は診療所の従業員にそれを頼んだ。


 それから改めて袁徽に向かう。


「色々なことが心配になると思いますけど、今できることは安静にしておくことと、ちゃんと薬を飲むこと、それと水分をしっかり摂ることです」


 現代であれば血栓を溶かす薬や物理的に除去する処置などがあるが、この時代にできることは多くはない。詰まった部分の血流が回復することを期待し、補助的な治療を行うだけだ。


 ちなみに現代でも発症から時間が経てば経つほど、行える治療の選択肢は急激に少なくなってしまう。脳梗塞と思しき症状があれば、とにかく早急に受診することを強くおすすめする。


 幸いなことに先ほど衛玄が言った通り、袁徽の血流は良くなっているらしい。言葉が徐々に出てくるようになった。


「私は……これから、どうなる?」


 その質問に、馬修は衛玄を振り返った。医師が説明するべき内容だと思ったからだ。


 しかし衛玄は何も言わずに馬修をじっと見つめ、それからうなずいた。


(……俺が話せってことか。もう医者になるための教育は始まってるってことだな)


 馬修はそう理解し、寝台のそばにしゃがんだ。


 今までにも、脳梗塞患者への説明は何度も聞いている。だから、言うべきこと自体は知っているつもりだった。足らなければ衛玄が補足してくれるだろう。


(でも、情報をそのまま伝えればいいってもんでもないんだよな)


 その事も分かっている。というか、つい今日よく理解したというべきか。


(人を、一人の人間として敬う)


 翠蘭と衛玄から説かれたことを心の中で繰り返してから、馬修は口を開いた。


「袁徽さん。まず初めに知っておいて欲しいんですが、脳卒中の経過は人によってまちまちで、どうなるかは蓋を開けてみるまで分かりません。だからこれから話すことで過度に不安がったり、こうなると決めつけたりする必要はありません」


 袁徽はまばたきをして了解の旨を示した。


 馬修は説明を続ける。


「脳卒中は治癒後も後遺症が残ることがあります。今は右半身に痺れがあって言葉もうまく出なくなっていますが、それが残る可能性があります。ただしこれは回復していくこともありますし、訓練によってその回復は促進できます。訓練は早く始めたほうが効果的なので、安静にする期間が過ぎればすぐに始めましょう」


 後遺症のことを伝えないわけにはいかない。しかし過度に不安がらせないようにするため、回復のための訓練についても続けて説明した。


 衛玄はその辺りの気遣いに満足したので、小さくうなずいていた。


「それと、脳の血管の詰まりは再発しやすい病気です。発症後の二十日程度は特に注意が必要なので、それくらいはここに入院していただければと思います。その後も何年か経って再発することもありますから、薬や生活習慣への注意はずっと続けていただきます。それはまた今後おいおいお話ししましょう」


 脳梗塞の再発率はその種類やデータにもよるが、十年で半分程度とも言われている。


 長い付き合いが必要になる疾患だから、患者にもその辺りの病識を持ってもらわないと再発を招いてしまう。


 ここまで聞いた袁徽は、ポツリと漏らすようにつぶやいた。


「次に再発したら、死ぬこともあるわけだな?」


 その言葉は先ほどよりもさらに明瞭にはなっていたものの、問われたことはなんとも答えるのが難しい。


 馬修は言葉を詰まらせそうになりながらも、すぐに口を開いた。沈黙で患者を不安がらせるわけにはいかない。


「そうならないように、出来ることを一緒に頑張っていきましょう」


 馬修の後ろに立つ衛玄は、その言葉に大きくうなずいた。そしてそこで初めて口を開く。


「治療というものは、医者だけでも患者だけでも完成させられるものではない。我々は出来うる限りの治療をするから、あなたも協力して欲しい」


 袁徽はその言葉に微笑んだ。


「この診療所に運ばれてきて良かった」


 その言葉は、すでに普通に喋っているのとあまり変わらないほどだった。微笑みの表情も左右でさして違わない。


 馬修はほっと息を吐いた。これならそれほど翠蘭を悲しませることはないかもしれない。


「袁徽さん、だいぶ良くなってきてるみたいですね。手足の痺れはどうですか?」


「まだ痺れるが、倒れた時よりもかなり良いように思う。これなら立って歩けそうだが……」


「ああ、まだ起き上がらないで。脳の血流を維持するために、少なくとも一日は寝台の上で安静にしてもらいます。排泄もここで済ましてもらいますから」


 それを聞いて、袁徽は眉をひそめた。


「何?かわやもか……どうにかならないだろうか?」


「こればっかりは仕方ないと諦めて下さい。俺はそういう事にも慣れていますから、気にしないで」


「むう……」


 そうやって今後の話をしていると、診療所の入口からバタバタとした物音が聞こえてきた。


 知らせを受けた翠蘭と凜風がやってきたのだった。


「お父様!!」


 翠蘭は寝台のそばに倒れ込むようにして駆け寄った。かなり走ったのだろう、だいぶ息が切れている。


「だ、大丈夫ですか!?」


 目に涙を溜めた翠蘭の頭を、袁徽は痺れが残る方の手で撫でた。そして安心させようと、優しく微笑む。


「大丈夫だ。心配させたな」


「でも、卒中で倒れたと聞いて……」


「幸い、すぐに命に関わるようなことはない。多少の後遺症は残るかもしれないが」


「そんな、後遺症って……それに、すぐにって……」


 袁徽の言葉に困惑する翠蘭へ、馬修が声をかけた。


「俺の方から今の状態と今後のことを説明しよう。ちょうど袁徽さんにもその話をしたところなんだ」


「馬修さん」


 翠蘭はその時初めて馬修がいることに気づいたようだった。


 馬修は床几を出して、まだ息の整わない翠蘭と凜風を座らせた。


 先ほど袁徽に伝えたことを再度話す。そして、最後に一言付け足した。


「今後の再発と後遺症について確実なことは言えないけど、今の袁徽さんの状態は悪くないと思うよ」


 と、言ってから本物の医者である衛玄を振り返る。


 衛玄も大きくうなずいて肯定してくれた。


 翠蘭は衛玄と馬修に頭を下げ、それから自分の希望を伝えた。


「もし可能なら、今晩は私もここで寝泊まりさせてください。お父様のお世話をいたします」


 それを聞いた袁徽は眉根を寄せて困った顔になった。


「いや、それは不要だ。今日は馬修君が泊まってくれるらしいから、お前は帰りなさい」


「いいえ。こんな状態のお父様を置いては帰れませんわ」


「世話の手は足りている」


「お世話の手はいくつあっても邪魔にはなりません。お願いします」


「しかし……」


「お父様に何かあったらと思うと不安なんです。お願いします」


 翠蘭の目からは強い意志がうかがえた。どうしても帰らないつもりのようだ。


 しかし袁徽は袁徽でどうしても帰って欲しいように見える。


 そして馬修には、その理由の見当がついていた。


(排泄の世話だな)


 袁徽は娘にそれをやって欲しくないのだ。馬修がやっているのを見られるのも嫌だろう。


 だから拒絶しているのだった。


(正直、慣れない素人にやってもらうくらいなら自分たちでやった方が間違いがなくていい)


 慣れない看護は、時として転倒などの事故にも繋がりうる。だから馬修はそう思ったし、以前の馬修ならはっきりその事を伝えて『帰ってくれ』と言ったかもしれない。


(でも、二人の気持ちを尊重するのが大切なんだよな……それが多分『敬う』ってことだ)


 そう考えた馬修は一つ提案をした。


「じゃあ翠蘭には診療所の別室に泊まってもらって、手が足りなくなったら手伝ってもらうのはどうかな?ただし、手が足りてるうちは慣れてる俺に任せて欲しい。その方が危険も小さいから、呼ばれるまでは別室にいてくれ」


 その提案に、翠蘭も袁徽も納得してうなずいた。


「分かりました、よろしくお願いします」


「すまないな、頼む」


 二人が受け入れてくれたことで馬修も安心した。


「それでは、私は入院のための衣服を取りに帰って参りますわ」


 話がまとまったところで翠蘭が立ち上がった。


 が、袁徽が手を上げてそれを止めた。


「ああ、ちょっと待ちなさい」


「何でしょう?」


「もしかしたら近いうちに再発して死ぬかもしれないから、その前提で一つ話をしておきたい」


 その言葉に、翠蘭は目を吊り上げて怒った。


「やめてください、縁起でもない」


「そんな顔をするな。それに、そうでなくともそろそろしようと思っていた話なのだ。いいから聞きなさい」


 翠蘭は不吉な感じがして聞きたくなかったが、袁徽が話し始めたのは意外にもめでたい毛色の話だった。


「お前の結婚に関する話だ」


「……結婚?」


 その単語を聞いて、翠蘭ではなく馬修の心臓が大きく跳ねた。


 なぜか鼓動が速くなり、その一方で体温は下がっていく気がする。


(翠蘭の結婚相手って、絶対俺じゃないよな)


 などと、当たり前のことを考えた。


 それはそうだろう。袁徽が連れてくる婿が馬修である理由など一つもない。


「お父様……私の結婚相手の方を、もう決めていらしたのですか?」


(誰だそれは)


 と、馬修は耳を大きくするような気持ちでその答えを待った。


 しかし、袁徽の回答は意外なものだった。


「いや、決めていない。というか、今後も決める気はない」


 その言葉に、翠蘭は首を傾げた。


「それは……私は結婚できない、ということですか?」


 問われた袁徽は笑った。


 その表情は言葉同様、ほぼ普段通りのきれいな笑顔に戻っていた。


「どうしてそうなるのだ。私は決める気がないと言っただけだ。お前の結婚相手は、お前が決めなさい」


「…………え?」


 翠蘭は不思議そうな声を上げた。しかし袁徽にとっては、それこそが不思議だった。


「何を驚いている?男女が恋に落ちて結婚するのは普通のことだろう。お前も年頃だし好きな男の一人もいるだろうから、そういう男と早く結婚しなさいと言いたかったのだ」


 そこで今まで黙っていた凜風が初めて声を上げた。


「袁徽おじさんって……そういうの大丈夫な人だったんだ」


「……?どういう意味だ?」


「いや……自分の連れてきた男じゃないと絶対ダメ、恋愛結婚なんて絶対ダメ、みたいな感じかと思ってたから」


「何を言っている。私と妻は恋愛結婚だ」


「ええっ!?そうなの!?意外!!」


 遠慮のない凜風の言葉に、袁徽は苦笑した。


「……私はな、周りが勧めてくれた結婚を否定するつもりはない。というか、その方が上手くいく場合が多いことを私は知っている。しかし、互いに好き合って結ばれる結婚も幸せだ。私はそれでとても幸せだったから、翠蘭にもそうして欲しいと思っている」


 翠蘭は幼い日の記憶にある父と母の姿を思い浮かべた。


 確かにあの頃の二人はいつも幸せそうに寄り添っていた気がする。


 しかし、翠蘭は困惑していた。


「ですが私……今まで自分の結婚相手はお父様が選ぶものとばかり思っていましたから……今さら好きな人と言われても、困ってしまいます」


「なに?そうなのか……父は娘の恋愛事情に口を出すべきではないと思い、今まであえてこういう話はしてこなかったのだが……」


 袁徽はずっとそういう思いでいた。もちろん、可愛い娘が他の男に取られるようで嫌だったという気持ちもないではないが。


 しかし、その結果として翠蘭は己の恋愛感情をずっと捉えきれずに十数年を過ごしてきた。それでいざ好きな男を、と言われても困ってしまうのだった。


 凜風はそんな妹を見て、にんまりと笑った。


 それから馬修の後ろに回り、その肩に手を置く。


「じゃあ翠蘭、修君なんてどうかな?」


「えええっ!?」


 馬修は思わず頓狂な声を上げた。


 義姉の突然の発言に、耳まで真っ赤になってしまう。


「な……なんで急に俺……?」


「いやぁ、お姉さんは前から二人がお似合いだなって思ってたわけですよ。この際、くっついちゃったらいいんじゃない?」


 そこで、この話題では部外者だった衛玄までもが話に入ってきた。


「それはいい。馬修は今日から医者見習いになったからな。将来の医者だと思えば、結婚相手として悪くはないだろう」


 その吉報に、今度は凜風が驚いた。


 診療所の雑用が医者見習いとは、あまりに大きな出世だ。


「えっ!?修君そうなの?」


「う、うん。一応……」


「袁徽おじさん、お医者さんだって!相手にとって不足はないよ!」


 袁徽は凜風の言葉にまた苦笑した。


「確かに医者見習いなら娘の今後の生活も安心だが……それよりも、別の点で馬修君はいいと思うな」


「別の点?」


「彼は、人を敬うということが分かっているように感じる。ここに運ばれてからの言葉や対応を見て、そう思えた」


 袁徽は礼を重んじる儒教の学者だ。だから人が相手のことを尊重しているかという点に関して敏感だった。


「私や翠蘭のことを気遣い、尊重してくれているのがよく分かった。礼儀作法などは全然だが、彼は本質的に人を一人の人間として敬うことができる青年だ」


 褒められた馬修は、先ほどとは別の理由でまた赤面した。


「お、俺はそんな立派な人間じゃありません。ついこの間翠蘭にそういう説教されて、それでたまたま今日それを実践しようとしてただけで……」


「なに?翠蘭の言葉でか。娘は娘で、いつの間にか立派になっているものなのだな……」


 袁徽はしみじみとつぶやいた。


 娘が立派に生きていけるなら、自分はもういつ死んでもいいと思った。


(しかし、すぐには死ねん)


 袁徽はそう思う理由を話した。


「もし私が死んだら、翠蘭は喪に服すことになる。そうなると三年も婚期が遅れてしまうことになる。それは親としても申し訳ないから、翠蘭には早目に結婚してもらえればと思ったのだ」


 この頃の中国では父母が死んだ場合、三年間の喪に服すのが一般的だ。その期間は祝い事は避けられるし、官職なども解かれることが多かった。


 袁徽はそれを気にしてこんな話を始めたのだった。


「まぁ正直、生きている間に孫を抱きたいという気持ちももちろんあるが」


 その場の人間は、袁徽の思いをよく理解した。


 そして翠蘭に目を向ける。特に馬修の目は無意識に必死になっていた。


 しかし、当の翠蘭は軽く笑っただけだった。


「私……今まで恋についてあまり考えてこなかったので、やっぱりよく分かりません。ですが、少なくとも馬修さんと結婚することはありませんわ」


 馬修はそれを聞いて、頭をつちで殴られたような思いがした。


 一方の翠蘭は、相変わらず邪気のない笑みを浮かべている。


「だって、馬修さんは私の兄か弟かになる人ですから。兄でも弟でも、家族とは結婚できないでしょう?」



***************



 その後、翠蘭と凜風は入院のための衣服などを取りにいったん家へ帰った。


 夕陽はすでに沈みかけており、辺りは暗くなってきている。長く伸びていた影も薄くなっていた。


 その道中で、凜風は翠蘭に尋ねた。


「ねぇ翠蘭。本当に修君と結婚するのはナシなの?」


 翠蘭は先ほどと同じように、軽く笑って答えた。


「ええ、ありえませんわ。兄でも弟でも、家族と結婚することはできませんから」


「そりゃ兄か弟ならそうだけどさ……」


 凜風はつぶやくようにそう言ってから、山の端に少し頭を出した夕陽に目をやった。


 それは燃えるような橙色で、心の底にまで滲みてくるような色をしていた。


(……この夕陽って、昼間に浮かんでる太陽と同じものなんだよね。なんでこんなに違うんだろ?)


 ふと、そんなことが気になった。


 色に関して科学的なことを言えば、夕陽は差し込む角度が浅く、その結果として通過する大気の距離が長いため、青い光が散乱して橙色に見えるのだ。


 ただ、凜風は当然そんなことは考えない。その時その時の人の気持ち次第で印象が変わるのだと思った。


(ちょっと気持ちを切り替えれば見えてくる景色もあると思うんだよね……)


 凜風は夕陽に目を向けたまま翠蘭に話した。


「あのさぁ……翠蘭が修君を兄か弟に決めたいのって、多分家族が増えると嬉しいからだよね?そこで立ち位置が決まったら、はっきりした家族だと思えるから」


 問われた翠蘭は一度自分の心に問い直し、それから答えた。


「ええ……多分、そういうことだと思いますわ」


「だよね。でもさ、家族を増やす方法ってもう二つあるんだよ」


「二つ?」


「そうだよ。一つは大切な誰かと結婚すること。もう一つは、その誰かと子供を作ること」


「…………」


 翠蘭は急に足を止めた。


 そして斜め先の地面へと視線を落とし、じっと何かを考えている。


「……翠蘭?」


 凜風に声をかけられても、翠蘭はしばらく動かなかった。


 その頰が、次第に美しい紅色へと染まっていく。


 沈みかけている夕陽には、すでに頬を染めるほどの明るさはない。


 自分の胸に手を当てた翠蘭は、そこに産まれて初めて恋心というものを見つけていた。

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