短編 翠蘭の恋1
時は遡り、許靖たちが交州に避難してから数年が経った頃。
(
最近の翠蘭は少しおかしい。こうやってため息をつくことが多くなっただけでなく、突然ぼぉっとしたり、逆に頬を上気させるほど機嫌の良い時もある。
「翠蘭、もしかして体調でも悪い?」
凜風はこれまで何度も聞いた質問をあらためてした。
しかし、返ってきた答えはこれまでと変わらないものだった。
「えっ?いえ、別に悪いところはありませんわ。私は元気です」
そう言って笑う翠蘭の顔は確かに元気そうであり、実際に先ほどまで道場でもキレの良い動きを見せていた。少なくとも、身体的な健康面には異常がなさそうだ。
しかし、凜風から見るとやはりおかしい。
その変化は他の人間が気づくほどのものではないかもしれないが、凜風には分かる。いつも妹のことばかり見ているのだから。
二人は道場からの帰り道、少し回り道をしておしゃべりしながら帰宅していた。
最近は寒くなってきてあちこちに綺麗な紅葉が見え始めたので、それを眺めながらの帰路は楽しいものになるはずだった。
それなのに、先ほどのため息だ。
「なら、何か悩み事でもあるんじゃない?よかったら話してよ」
凜風の気遣いに、翠蘭は笑って首を横に振った。
「いえ、大丈夫ですわ。別に大した悩みでは……」
翠蘭の言葉が途中で止まったのは、凜風が翠蘭の着物の裾を摘んだからだ。
凜風としては翠蘭が話したくないことならば、無理に聞かない方がいいと思っている。しかし、聞きたかった。
大切な妹が苦しんでいるのなら助けたいし、何より妹のことで自分が知らないことがあるのが嫌だった。
翠蘭は凜風の顔を見つめ、少しだけ困ったように笑ってから話してくれた。
「あの……実は私、
それを聞いた凜風は、まずほっと胸をなでおろした。
(良かった。本当に大した悩みじゃない)
実際に悩んでいる本人には失礼かもしれないが、正直なところそう思った。
馬修は凜風が結婚した
普段は診療所の小間使いのような仕事をしており、雑務や患者の世話、薬の準備などをして給金を得ている。
馬修は兄である馬雄とずっと一緒に暮らしており、それは凜風が嫁いで来てからも変わらなかった。つまり、馬修と凜風は同居している。
そして翠蘭は凜風の所によく遊びに行くから、必然的に馬修ともよく顔を合わしていた。
「馬修さんと顔を合わせる度に、どんな態度で望めばいいか分からなくなってしまって……」
翠蘭はそう言って肩を落とした。
申し訳ないが、凜風は少し笑ってしまった。
「どんな態度って……私の義理の弟って態度で望めばいいんじゃない?」
「お姉様には弟でしょうけど、私にとっては兄か弟かはっきりしないんです。同じ日に産まれてしまいましたから」
翠蘭と馬修は産まれた年月日どころか、産まれた時間まで正午ぴったりで全く同じだった。だから兄か弟かは齢では決められない。
それが翠蘭の悩みなのだが、凜風にはそもそもの所で疑問がある。
「っていうか、兄とか弟とか決める必要なんてある?そんなに大切なことかな?」
「大切ですよ。長は幼を教え導かなくてはなりませんし、幼は長を支えなければなりません。人の世にはとても大切なことです」
翠蘭は儒学者である
しかし、言われた凜風は苦笑するしかなかった。
「私……いつも妹の翠蘭に教え導かれてる気がするけど。基本的にだらしないのは私の方で、翠蘭の方がしっかりしてるよね」
翠蘭は首を横に振って凜風の言葉を否定した。
「私はいつもお姉様から色々なことを学んでいますわ。それに、ちょっとだらしないお姉様もそれはそれで可愛いからいいんです」
「なにそれ」
それならもう何だっていいような気がするが、翠蘭にとって長幼の確定は大事らしい。確かに悩んでいる顔はしていた。
それに、馬修を前にした翠蘭の態度は凜風から見てもおかしかった。
礼儀作法のことで上から説教したと思ったら、今度は急に馬修のやる家事などをかいがいしく手伝い始める。
「でも、ちょっと納得したよ。それであんな風に態度が迷走してたんだ」
「迷走……そうですわね。確かにお姉さまのおっしゃる通り、迷走してますわ……」
翠蘭はため息をつきながら、色付き始めた紅葉を眺めた。
それはどこか寂寞とした色にも思えるし、舞い上がるほど鮮やかにも感じられる。
「家族が増えたことはとても嬉しいんです。でもお互いの関係がいまいち判然としないものですから、どう接したらいいか分からなくて……ここの所、気づけば馬修さんの事ばかり考えてますわ」
そう言って、またため息をつく。
凜風はそのため息に、妙な熱っぽさを感じたような気がした。
ため息だけでない。紅葉を見つめる翠蘭の目もどこか熱っぽく、そして紅葉ではない何かを見ているようにも思えた。
「翠蘭って……恋をしたことはある?」
凜風の質問に、翠蘭は笑った。突拍子もないことを聞かれたと思ったからだ。
「恋、ですか。いつかお父様が連れて来てくださる旦那様に恋できたら素敵だなって思いますわ」
そういう時代であったこともあり、翠蘭は自分で相手を選ばない結婚に関して大した疑問を抱いていなかった。
もちろん庶民は男女が恋に落ちて結婚することも多かったわけだが、翠蘭は高名な儒学者の娘だ。当然、父が
凜風はそんな妹の純な笑顔を、この上なく可愛らしいと思った。
しかしそれと同時に、どこか不憫にも感じるのだ。
「袁徽おじさんって、今日は家にいる?」
「え?ええ、お父様は家で書きものをされるとおっしゃっていました」
「そっか。今から翠蘭の家に行っていいかな?」
「構いませんけど、お兄様と馬修さんのお食事の用意はいいんですか?」
凜風は結婚して主婦になったのだから、当然そういった仕事がある。
「あー……そうなんだよね。でも、二人も大切な家族の方が優先順位が高いって分かってくれるからいいよ。適当に食べるって」
「……?よく分かりませんけど、それなら私も手伝いますから早くお食事を作って、それからうちに行きましょうか」
「いいの?助かるわ〜、やっぱり持つべきものは有能な妹ね」
凜風は翠蘭を抱きしめて、その頭を撫でた。翠蘭は嬉しそうにされるがままにしている。
こんなに可愛い妹が、恋をしているかもしれない。
(この子を泣かすような男がいたら、ぶっ飛ばしてやろう)
凜風は念のため、義理の弟をボコボコにするための手順を頭の中で組み立てておいた。
***************
(……なんだろう、最近寒くなってきたからかな?風邪を引かないようにしないと)
そう思い、襟元をきつく合わせる。仕事柄、風邪はもらいやすいのだ。
「馬修、あっちの患者さんには
「あ、はい。分かりました」
雇い主である医師、
馬修はもう何年も前から衛玄の診療所で働いている。
両親は早くに亡くなった。まだ親の恋しい時期だったので寂しくはあったが、よくできた兄が商家で働いてくれたため、食うに困ることはなかった。
ただ、兄の稼ぎも初めは多くはなかった。だから自分はそれを助けるために、幼い頃からこの診療所で雑用のようなことをして銭を稼いでいる。
馬修は俊敏で要領の良い子だったから、何をするにも仕事が速かった。その働きぶりは衛玄や他の従業員からも重宝され、今では馬修が休みの日には待ち時間が長くなるほどだ。
それに、もう何年もいるから診療所のことも患者のことも大抵は知っている。最近は患者の様子を見るだけで、なんの薬を用意すればいいか大体分かるようにまでなっていた。
(次の患者さんの薬、多分これだな)
そう思ったので、先ほど指示された薬を用意するついでに次の患者の分も出しておいた。こうやってまとめて仕事ができると効率は上がる。
馬修が待合に薬を持っていくと、咳をしている患者がいた。今日は風邪で来ているが、普段から定期的に受診している老人だ。
「はい、お待たせ。いつもの薬に追加で飲んでね。一緒に煮出していいから」
「おお、ありがとよ。それじゃ帰るとするか」
老人は礼を述べてから、立ち上がろうとした。
が、足腰が弱っているからすぐに立てない。
馬修は抱え上げるようにしてそれを手伝った。
「いつもすまんな。しかし前も言ったが、儂は自分でできることは自分でしたい。放っといてくれていいんだよ」
この老人は、そういう自立心の強い老人だった。馬修は今までに何度も同じようなことを言われている。
(でも、立ち上がるのに難儀してる患者さんに背を向けてよそへ行くのもな……かといって次の仕事も進めたいし……)
馬修はそういう思いで毎回手伝っていた。
立ち上がるまで見守っていると時間がかかるし、放っておいた結果として転倒されても困る。
それならさっさと抱え上げた方が早い、というのが俊敏な馬修の思考回路だった。
今回も、
「まぁまぁ……」
と、便利な言葉を口にしながら老人を手伝った。
そして立ち上がった老人が頭を下げてゆっくり歩き出した時、なぜか頭の中に一人の女性の声が響いてきた。
『人を、一人の人間として敬うのですわ』
それは、義姉の妹だという女性の声だった。
その人は兄が結婚してからしょっちゅう家に来るから、半ば家族のようになっている。
(翠蘭……そんなことを言ってたな)
翠蘭が馬修に礼儀作法の説教をしていた時、口にしていた言葉だった。
(礼儀作法なんて上っ面のもん、どうだっていいだろう)
馬修は正直そう思っていたので、そういう意味の文句を口にした。そして返ってきたのが『敬う』ということだった。
『礼は時として煩わしいものですし、生きていくのに必須のものでもありません。ですがその根底に相手を敬う気持ちがある限り、人の
翠蘭はそう言っていた。一字一句、間違いなくそう言っていた。
ここの所、馬修の頭にはなぜか翠蘭のことばかりが浮かんでくる。何度も同じ言葉が脳内で再生されたから、間違いないはずだ。
(敬う、か……俺は今、あの患者さんを一人の人間として敬ってたかな?)
やった事自体は悪いことではないはずだ。むしろ足の悪い患者が立ち上がるのを助けていたのだから、周りから見れば親切な行為に見えるだろう。
しかし、自分はあの患者の意思を無視して抱え上げた。それは相手を一人の人間として敬っていたとは言えないような気がする。
(敬う……敬う……)
馬修はその日、頭の中でその言葉を繰り返しながら仕事をした。
そして夕方、患者も途切れてそろそろ診療所を閉めるという段になってから、馬修は衛玄に声をかけた。
「あの、先生」
「なんだ?」
「足の悪い患者さんのために、待合に手頃な高さの台か棚でも置いたらどうかと思ったんですが」
「……それは立ったり座ったりするのの助けになるから、ということか」
「そうです。あと歩き始めが危ない人が多いですし、手すりとしてあってもいいかなって」
そう言う馬修の顔を、衛玄の深い色をした瞳がじっと見つめた。
「……腰でも痛めたか?それとも患者さんを支えるのがしんどくて、自分で立ってくれればと思ったか?」
問われた馬修は頬を引きつらせた。
この衛玄は基本的に患者思いの優しい医師だが、仕事のことになると厳しいところがある。怠けて楽しようとしたと思われてはかなわない。
馬修は手と首を横に振って否定した。要らぬ事を言って不興を買ってしまったと後悔した。
「いえ、そういうわけじゃ……」
「正直に言え。人が人の体重を支えるのはきついものだ」
「そうじゃなくて……今日来た患者さんで、自分のことは自分でやりたいってずっと言ってる人がいたんです。だからその人が納得できるようにしてあげたいと思って……で、でもやっぱり手伝ってあげた方が親切ですよね!」
馬修はごまかすように笑って前言を撤回した。
衛玄はそんな馬修のことを厳しい目で見つめ続けている。
その視線にさらされた馬修は、痛いとすら感じていた。
冷たい汗をかきそうになっていると、衛玄はくるりと背を向けた。そして無言で診療所の奥へと入って行く。
(やっちゃったかなぁ……)
馬修がまた後悔の念を強くしていると、衛玄は
「馬修、お前は字が読めるんだったな?」
「え?あ、はい。それなりには」
読み書きと計算はできた方がいい、というのが商家で働く兄の考えだった。
だから馬修は大した育ちでもないのに、そういうことは出来るように鍛えられていた。
「これを読め。暗唱できるくらい読むんだ」
「……え?これは?」
「医学書だ。私はお前が医者になれるよう、ここで教育しよう」
「え……え……えぇえ!?」
馬修は思わず声を裏返らせた。
自分はあくまで雑用で雇われている小僧のような存在であり、そんな高等な教育を受けさせてもらえるような立場ではない。
「もちろんお前にその気があれば、だが」
「な、なれるもんならなりたいですけど……でも、なんで急に?」
「以前から思ってはいたのだ。お前は物覚えも要領もいいし、仕事も速い。医者をやるのに申し分ない能力がある。ただ……」
衛玄はそこで言葉を切って、馬修へ手を伸ばした。そしてその肩に手を置いて先を続ける。
「……思いやりというのかな、それが足らなかったように思う」
馬修は置かれた手から、不思議な重さを感じたような気がした。
「思いやり……優しさが足りないということでしょうか?」
「思いやりと優しさは少し違う。お前には患者のために何かしたいという優しさはあった。しかし、仕事に追われていたからかもしれないが、患者の気持ちを尊重するということがなかった」
「尊重……」
「人を、一人の人間として敬うということだ」
その言葉を聞いて、目の前の医師と翠蘭の姿とが重なった。
自分と同い齢の女性が経験豊かな医師と重なるというのは、なんとも妙な気分だった。
「ついこの間、知り合いに同じことを言われて叱られました」
「良い知人だな。お前のことを考えてくれている。それで今日、あの患者を抱えて立たせた後に思うところがあったのか」
「み、見てらしたんですか……」
良い医師の条件かもしれないが、衛玄は目が良かった。見ていないようでも見ていることが多い。
「私には、お前が医者になった場合の姿が容易に想像できていた。腕は悪くないが、患者をただ
馬修にはなんとなく衛玄の言っていることが分かる気がした。
患者の中には病や傷が治っても、どこか不満そうな顔をしている人間もいる。そういう患者は衛玄が少し時間をかけて話すと、大抵は表情を明るくして帰ってくれるのだ。
本人の納得や満足はまた違うところにあるのかもしれないと馬修は感じていた。
「お前が今日提案してきたことは、患者を一人の人間として敬っていて初めて口にできることだ。お前がそんなふうに成長したのなら、私はお前を医者にしたいと思う」
「俺は、成長したんですか」
「ああ、成長した。叱ってくれたという知人のおかげだろう。感謝するのだな」
医師はそう言って、馬修の背中を強く叩いた。
叩かれた馬修は前につんのめりながら苦笑した。
(翠蘭に礼を言った方がいいのかな?でも……なんて言おう)
どうも翠蘭を前にすると、馬修は上手く言葉が出てこなかった。妙に舞い上がったり、ついぶっきらぼうな態度をとってしまったりする。
それに、翠蘭は翠蘭で馬修に対する態度がコロコロ変わるのだ。上から説教を垂れることもあれば、逆にこちらを立ててきたりもする。
その度に一喜一憂してしまう自分が嫌で、馬修は翠蘭のことを苦手にすら感じていた。
しかしそれでも会いたいと思うし、話したいと思うのだ。
(やっぱり……礼は言った方がいいよな)
それで一つ会話ができる、ということを無意識に思った馬修はそうすることに決めた。
そして礼の言葉を考えている時、診療所の玄関に駆け込んできた男がいた。
「衛玄先生、急患です!もうすぐ運ばれてきますからお願いします!」
その男はどうやら搬送に先立ち、走って知らせに来てくれたらしい。
衛玄は仕事柄こういう事態にも慣れているから、落ち着いた声で尋ねた。
「状態は分かるか?」
「顔を見たら卒中じゃないかって話でしたけど」
「症状や年齢は?」
「詳しい症状はちょっと……中年の男ですけど、なんでも高名な儒学者の先生らしいですよ」
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