短編 南無阿弥陀仏

時は遡り、許靖たちが交州に避難してしばらく経った頃。




 激しい雨音が、許靖の耳を覆う。


 密度の濃い雨粒の線が、許靖の目を覆う。


 耳も目も利かなくなると、まるで世界が閉ざされたかのような気分になった。


 そしてその閉ざされた世界の中で、許靖は息子のことを考えていた。


(交州の雨は本当に凄まじいな……まるで水の中にいるようだ)


 だから息子のこと思い出したのかもしれない。息子の命を奪った矢がその腹に刺さった時、自分は舟から突き落とされて水の中にいた。


キン……)


 心の中で息子の名を呼んでみる。


 当然返事などあるわけもなく、許靖の胸がしみるように痛んだだけだった。


 許靖のいる交州の治所、交趾こうし郡は現在のベトナム、ハノイ周辺に当たる。亜熱帯気候に属し、季節によってはスコールが降る。


 許靖はそのスコールに打たれながら、ゆっくりと道を歩いていた。


(それにしても、体が痛いほどの雨だな)


 そう思いながらも、雨宿りできる木陰を求めて走ったりはしない。消えない傷と後悔が、その痛みをむしろ望んでいた。


 息子が死んだ直後のように、抑うつがひどくて動けないような状態にはその後なっていない。


 ただ、だからといって傷が癒えるわけではないのだから、こんな風に雨に打たれたくなる気分の時もあった。


(私は今……泣いているのだろうか?)


 許靖にはそれが分からなかった。溺れそうなほどの水が顔を流れているから、涙など知覚できそうもない。


 しかしそう思った直後、幼い日の息子の姿を思い出してから、許靖ははっきりと涙を流した。


 涙はすぐに雨に紛れて希薄になったものの、その存在は鼻腔の灼けるような感覚でもって証明されている。


(しばらくこうしていよう……雨が止むまで、息子を思い出して泣いていよう……)


 そう心に決めて、意味もなく雨の道を歩いた。


 別に用事があるわけでもない。ただ暇に任せ、遠出の散策に出かけていただけだ。


 交州は中央から離れているせいもあり、この乱世でも比較的治安が良い。だから街からだいぶ距離のある郊外までふらふらと歩いて来ていた。


 周囲にはすでに建物はなく、川沿いに道だけが続いている。雨のせいで、川の流れは荒れているようだった。


(欽……)


 許靖がまた息子の名を心の中でつぶやいた時、雨の勢いがさらに強くなった。


 それは本当に身の危険を感じるほどで、笠すら持たない許靖の視界はほぼ無くなった。


 そんな状況なのだから、許靖は足を止めるべきだった。


 しかしそれまで長いこと歩き続けていたせいもあって、惰性のようにさらに足を踏み出してしまった。


 川の方へと向かって。


「…………っ!!」


 許靖は足を滑らせ、川の斜面に尻もちをついた。そしてその尻もぬかるんだ地面に滑って、川へと下っていく。


 許靖は大きな音を立てて川に落ちたが、それでもスコールの音の方が大きかっただろう。それほど凄まじい雨だった。


 だからその雨で増水した川の水流は相当な激しさになっており、すぐに許靖の体の自由は奪われた。


 許靖は泳げないことはないが、別に得意というわけではない。しっかりと訓練をしたわけでもないので、これほど速い流れは経験がなかった。


「……ゴホッ!ゴホッ!ガハッ!」


 焦った許靖は水を気管に吸い込んでしまい、激しく咳き込んだ。


 しかしそうすると、さらに水を吸い込もうとしてしまう。悪循環で呼吸のできなくなった許靖は、恐慌状態に陥った。


(ここで死ぬのか……)


 半ばそう覚悟しながらも、反射的に手足をバタつかせる。


(欽……欽……)


 許靖はまるで黄泉の国で待つ息子を求めるかのように、心の中でその名を繰り返した。


 そして、その手が誰かの腕を掴んだ。


「ゴホッ……ガハッ……き……欽?」


 もしや息子に手が届いたのかもしれないと思いながら、掴んだ腕を引いた。


 しかし残念ながら、と言っていいものかどうか、許靖の掴んだ者が発した声は息子のものではなかった。


「落ち着け!!ここは深くはないぞ!!十分に足がつく!!」


 言われて許靖も我に返り、落ち着いて状況を確認する。


 掴んだ腕を頼りに体勢を整えると、確かに簡単に足はついた。というか、水深は意外なことに許靖の腰よりも低かった。


「ゴホッ……ゴホッ……す、すいません……ゴホッ……流れが速くて焦ってしまって……」


「この雨では仕方ない。とりあえず岸へ上がるぞ」


 許靖を救ってくれた人間は手を引いて、岸へと上がるのを手伝ってくれた。


 雨足がまだ強くて顔はよく見えなかったが、どうやら壮年の男のようだった。


「怪我はないか?」


「大丈夫です。ありがとうございます」


「雨はじき止むだろうが、しばらく休んだ方がいい。うちの寺がすぐ近くだから、ついて来い」


 男は寺、と言った。


(どこかの宗教関係者か?)


 許靖はそんなことを推察しながら男の背中について行った。


 雨足は相変わらず危険なほど激しい。男の言う通り、どこか避難できる場所があればそこで休んでいた方が良さそうだ。


 しばらく男の後を行くと、雨の線の向こうに建物が見えてきた。許靖たちはそこに小走りに駆け込んだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 許靖はひどく息を切らしていた。別に疲れるような距離を走ったわけではないのだが、豪雨の中を移動するというのは思った以上に体力を使う。


 切れる息の合間に、男の背中へあらためて礼を言った。


「はぁ……はぁ……た、助かりました……本当にありがとうございます」


 それに対して男が返答する前に、建物の奥から別の声が上がった。


「なんじゃ、歯抜け坊。また人を助けたのか?」


 奥から現れたのは、頭のきれいに禿げ上がった老人だった。ニコニコと柔らかく微笑みながら、男に手拭いを差し出した。


 どうやら『歯抜け坊』というのが許靖を助けてくれた男の呼称らしい。


 歯抜け坊は手拭いを受け取りながら、ぶっきらぼうな口調で状況を説明した。


「川で溺れかけていた。少し休ませる」


「そうか。しかしお前さんは本当に人助けが好きじゃなぁ」


「好き嫌いの問題か」


「好き嫌いの問題じゃよ。歯抜け坊はそれが好きだからやっとるだけじゃ。儂だったら嫌いだからやらんかな」


「あんた……昨日仏の教えだと言って、慈悲について説法してたじゃないか」


「だがこの者の目、どこか死にたがっとるようにも見える。死なせてやるのが慈悲かもしれんぞ?」


 老人はそう言いながら、許靖の目をまっすぐに見た。


 許靖はその視線に胸を貫かれたような気がして、思わず身をすくめた。ただの老人の視線が鋭利な鉾のように感じられる。


 歯抜け坊は軽くため息を吐いた。


「……今はあんたとの禅問答よりも、乾いた服だ。ここで脱いで上がるぞ。おい、許靖もそうしろ」


「あ、はい。ではそうさせてもらいます……」


 言われた許靖は服を脱ぎながら、ふと違和感に気がついた。


 歯抜け坊は今『許靖』と言った。しかし自分はこの男に出会ったばかりで、名乗ってはいない。


(なぜ、私の名を?)


 服を脱ぎかけたまま止まった許靖を、歯抜け坊が振り返った。


 その顔を見た許靖の心臓は、先ほど老人の視線に貫かれた時よりも強く拍動した。


「か、韓儀カンギ……?」


 それはいく分か齢を取っていたものの、間違いなく許靖が追い込んで破滅させた男、韓儀だった。



*************



「気づいていなかったか。俺はお前の声を聞いてすぐに気づいたぞ」


 韓儀カンギはそう言って笑った。


 笑うと歯が何本か無かったり、折れたりしているのが覗き見えた。だから寺では『歯抜け坊』と呼ばれているのだろう。


朱烈シュレツ殿が殴ってこうなったのだったな)


 許靖はその光景を思い出して身震いした。あれは痛そうだった。


 二人は乾いた服に着替え、建物の奥の間で向かい合って座っている。


 礼拝所なのだろうか、かなり広い部屋で、一段高くなった所にここの神らしき彫像が置いてあった。


 外ではまだ激しい雨音が続いている。ただのスコールならそれほど長い時間は続かないのだが、今日のは少し特殊なのかもしれない。


「いや……気づかなかったというか……」


 許靖は戸惑うような声を出した。色々な意味で、状況に頭がついていけていない。


 韓儀はその様子が可笑しいようだった。


「あの時手玉に取られたのは俺の方だったが……逆になったような気分だな。まぁ、お前の反応は当たり前のものだろう。死刑になった俺が生きているのが不思議か?」


 韓儀は数々の汚職や殺人などの罪で斬首の判決を受けている。


 そして実際にそれは執行され、市中に首が晒されたという話を許靖は聞いていた。


 が、目の前にいる韓儀は韓儀で間違いない。


「代わりの者が、死んだのですか」


 許靖はそう検討をつけた。首が市中に晒されたということは、そういうことだろう。


 韓儀は首肯した。


「そうだ。俺の親族が俺によく似た男を見つけてきた。そいつはかなり困窮していたらしくてな、家族に多額の銭を払うことを条件に身代わりを請け負ったらしい」


 そういうこともあるだろう、と許靖は思った。


 韓儀が死刑になったあの頃もすでに世は乱れていて、中央の役人も腐敗していた。


 よく似ている程度の男でも、いくつかの所に銭さえ握らせれば死罪人の差し替えは可能だったろう。


「俺は死ぬことは免れたものの、親族からは完全に見放されていた。『最後の情けだ。ありがたく思え』と言われて、この寺へと送られた」


 ここ交州は首都洛陽から遠く離れ、中央の人間からすれば半分異民族の地というような印象を持たれている。


 親族もそこに押し込んでさえおけば、身代わりがバレるのも避けられると思ったのだろう。


 韓儀は自嘲するように笑った。


「その時の俺は感謝をするどころか、怒り狂って随分と罵倒したがな。親族に対しても、身代わりになった男に対しても、ありがたいなどど欠片も思わなかった。まぁそうして……俺はここにいる」


 許靖は複雑な気持ちで韓儀の顔を眺めた。


 この男の人生が転落したのは間違いなく自分のせいであり、しかも今自分はその男に命を救われたのだ。


「……とりあえず、改めてお礼を言わせてください。韓儀殿のお陰で助かりました。感謝しています」


 頭を下げる許靖を、韓儀は不思議そうに見返した。


「感謝、か……お前は腹が立たないのか?俺は間違いなく死罪になるような罪を犯しながら、ここでのうのうと生きている」


「私は韓儀殿に何もされていません。あの時は知人を助けるためと、自分勝手な若い正義感でそうしてしまっただけのこと。むしろ、ただの一般人であった私が人を裁くようなことをしてしまったことに今でも悩みます」


「お前は……そういう男なのだな。俺はあの時の恨みが強過ぎて、何度も思い出しては歯ぎしりをした。だからお前の声にもすぐに気がついたぞ」


「申し訳ありませんでした」


「おい、普通に謝るな。半分は冗談だ。お前のことも街の噂で『許靖という名士が交州に避難してきたらしい』という話を聞いていたから、近くにいるのは知っていたのだ」


「ああ、そうでしたか」


「まぁ……恨んだことも本当だし、それで何度も歯ぎしりしたことも本当だかな」


 韓儀はそう言ってきたものの、許靖は目の前の男の恨みを怖いとは思わなかった。


 その瞳の奥の「天地」が、以前に見た韓儀のそれとはまるで違っていたからだ。


(昔の韓儀殿の「天地」は、天女に囲まれて寝そべっているだけのだらしない男だった。そして周囲の天女たちが男のためにあれこれと立ち働き、男は何の疑念もなくそれを受け入れていた。そんな自己中心的な「天地」だったのに……今はどうだ)


 その変化に、許靖は目を見張る思いがした。


(天女たちは誰もいなくなり、男は一人座して瞑想している。他には何もない。以前のように誰かに何かをさせるわけでもない、堕落を貪るでもない、瞑想している男だけの「天地」だ)


 少なくとも、人を害するような人間の「天地」には見えなかった。


「変わりましたね……」


 許靖はつぶやくようにそう言ってから、あの後の韓儀の半生を想像して同情の念を抱いた。


 韓儀は周囲の人間が自分のために働くのが当たり前だと思っている人間だった。


 幼い頃からそういう環境だったのだろう、その事に疑念すらないというある意味で憐れな男だった。


 それが突然突き放され、まるで異国のような地で一人生きなければならなくなった。もちろん寺の人間から助けられはしただろうが、それまでとの生活環境とは百八十度変わったはずだ。


(相当に辛い思いをしたのだろう……それがこの男を変えたのか)


 一方の韓儀は同情されているとは思わず、ごく普通に事実を言われただけだと思った。


月旦評げったんひょうの許靖がそう思うか」


「ええ、私にはそう思えます。私にも責任の一端があるとはいえ、色々あったのでしょう」


「そう言うお前こそ、色々あったのではないか?さっきうちの和尚おしょうが『死にたがっとるようにも見える』と言っていた。あのジジイは妙に勘が鋭いからな」


 許靖は突然傷に触れられたように感じ、思わずうつむいた。


「いえ……死にはしません。そう約束しましたから」


「約束したから死なない、というのは、本当は死にたいということではないか?」


 許靖は即答できなかった。


 もちろん一時期とは違い、しっかりと生きる意思はある。


 しかし簡単に振り切るには息子の死は重すぎたし、人間の感情に波があるのは仕方のないことだった。


「……息子が、私のために死にました。だから、そういう気分になることもあるのです」


「そうか……辛かったのだろうな。いや、今でも辛いのだろう」


「そう、ですね……辛いです。時間が傷を小さくしてくれる事はあると思いますが、傷が無くなることはないのでしょう」


「その傷と共に生きねばならんか」


「そうなのですが、それがなかなか辛い時もあります…………そうだ。この寺のまじないで、何かいいものでもないでしょうか?」


 許靖は冗談混じりに、笑いながらそう尋ねた。


 許靖は別に信心深くはないし、そもそもここの宗教が何かもよく知らない。部屋に据えられた彫像も、あまり見たことがない神のものだった。


 韓儀も許靖がその程度の気持ちで言ったことは分かりつつも、長年寺で寝起きした者として答えてやった。


「そうだな……では、南無阿弥陀仏と唱えてみろ」


「なむあみ……?」


「南無阿弥陀仏、だ。ここは仏教という宗教の寺で、阿弥陀仏はその神だと思えばいい」


「ああ、仏教……」


 許靖はその宗教団体の名に聞き覚えがあった。洛陽の郊外にも仏教の寺があったのだ。


「確か、白馬寺の」


「そうだ、よく知っているな」


 白馬寺は中国最古の仏教寺院といわれており、後漢の明帝が建立したという記録が残っている。ということは、この頃にはすでに百年以上の歴史があった。


 しかしこの時代の主な宗教といえば、多くは太平道や五斗米道などの道教に繋がるものだ。仏教は広く知られた一般的なものとは言い難い。


 三国志では唯一、笮融サクユウという群雄が仏教を信仰して保護したものの、それが非常に珍しい存在として歴史に名を残しているくらいだ。


 そしてそんな目立たない宗教だからこそ、韓儀はその伝手でこの寺へと送られて来たのだった。


「仏教の経典は基本的にサンスクリット語(古代インド・アーリア語)で書かれているから、それを学んだ俺は僧をしながら翻訳で多少の銭を稼いでいる。交州は南蛮貿易が盛んで、そんな需要もたまにあるのだ」


「なるほど」


「話が逸れたな。南無阿弥陀仏、だ」


「唱えればいいのですか?」


「そうだ。できれば十回唱えろ」


「南無……阿弥陀仏……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………え?」


「ん?終わりだぞ?」


「ええっ?」


 許靖はさすがに驚いた。


 様々な宗教で色々な儀式が行われているのは見たことがあるが、これほど簡便なものは初めてだった。


「お、終わり……ですか……」


「そうだ。念仏と言って、阿弥陀仏の名を唱えてその救いにすがるのだ。阿弥陀仏は、救いを求めて称名しょうみょうするものを必ず極楽浄土に導くという誓願を立てておられる」


「すがって、名を唱えるだけでいいのですか?」


「そうだ。善人も悪人も関係ない。全て等しく救われる。むしろ悪人の方が変な努力をせず、ただひたすらにすがるから良いなどという話もあるほどだからな。どうだ?俺のような人間向きだろう?」


 韓儀は唇の端を吊り上げて笑った。


 許靖は驚きつつも、その教えの明快さには好感を持った。


「私のようにあまり信心深くなくて、宗教に手間と時間と銭とをかけたくない人間にも向いていますね」


「そうだな。日々を生きるのに忙しい人間には良い教えだ」


「ですが、この念仏では死んだ息子も救えるのでしょうか?」


「まずは自分が救われるために念仏を唱え、それが心の中で思い定まれば次に他人のために唱えると良い……なんてことをあの和尚は説法していたな」


「まず自分が救われてから、他人のために……それは優しい教えですね」


「そうだな」


「ただやる事があまりに単純すぎて、少し不安になってしまいますが」


 韓儀は許靖の言うことにうなずいた。確かにこれだけで終わりと言われても、逆に不安になる人間は多いだろう。


「お前のように頭の良さそうな人間や、努力して報われるのが正しいと思うような真面目な人間はそうだろうな。では、禅問答でもしてみるか?」


「禅問答?」


「質問とそれへの回答を繰り返し、世界の真理を見出していくぎょうだ」


「真理を……?」


 許靖は首を傾げた。


「それはまた……先ほどの念仏とは全く違ったものですね。それも同じ仏教の教えなのですか?」


 今しがた韓儀が言っていた念仏は、ただひたすらに救いを求めて阿弥陀仏にすがれというものだった。


 しかしそれから一転、今度は議論を重ねて真理を見い出せという。


「確かに念仏とはかなり違うが、真理の追求は仏教の特に重要な部分だ。というか、そもそも仏教の目指すところは『真理の正しい理解によって悟りを開く』ということで、その過程が幾通りもあるだけだな」


「それは……もはや宗教というか……」


「そう、哲学だな」


 韓儀は許靖の思ったところを明敏に理解し、そう答えた。


 仏教の宗教としての特殊性は、特にこういった所にあるだろう。神秘性だけでなく、強い哲学性を帯びている。


 ただそうなると、一見さんの許靖には敷居が高いように感じられてしまった。


「今日初めて仏教に触れる私にとって、問答は少し難しいと思うのですが……」


「そう難しく考えることはないのだが……なら座禅でも組んでみるか」


「座禅?」


「要は、座って瞑想するだけだ」


「ああ、それなら出来そうです」


「念仏と同じく、やるのは簡単だ。瞑想の中で様々気づくことがあるし、心を一度白紙化できるのは精神衛生上とても良い。仏教などとは関係なく、定期的にやるといいぞ」


「なるほど……どのように座るのです」


「座り方もいくつかあるが、とりあえずこうしてみろ。キツければただの胡座あぐらでいい」


 許靖は韓儀を真似て座った。普段から道場で柔軟をしているため、許靖にとっては特に辛いと思うような座り方ではなかった。


 それからふと瞑想中のことを想像して、不安が募ってしまった。


「……目は、閉じなければいけないでしょうか?」


 韓儀は敏感に許靖の不安を感じ取り、理解した。


「目を閉じれば、息子の顔が浮かびそうか」


「はい……」


「目は半眼でやや先の床へ向けろ。それから無理をして息子のことを考えないようにする必要はない。自然と思考を無にすることが出来るのならそれもいいが、まずは息子のことを考えてしまう自分を受け入れろ」


「まずは、受け入れる」


「そうだ」


 許靖は言われた通り、半眼になった。そして体の力を抜き、ゆっくりと呼吸する。


 心が落ち着くと、否が応にも息子のことが思い起こされてきた。


 まだ赤子の頃の愛らしい泣き顔、喋りはじめのたどたどしい言葉、どんどん出来ることが多くなってきて成長が嬉しかったこと、そして自我が芽生え、一人の立派な人間に成ってくれたこと。


 幸せそうな息子の笑顔が脳裏によぎると、半眼の目から涙が流れ出てきた。不思議なことに、息子の笑顔が幸せそうであればあるほど、許靖の胸は切なく締め付けられた。


 許靖は言われた通り、息子のことを思うのを無理に止めようとはしなかった。涙を流しながら、それを受け入れようとした。


 一体どれくらいそうしていたのだろうか。どうやら、かなりの長い時間だったようだ。


 気づけば許靖の涙は止まっており、さらに頬に作られた涙の筋は乾きかけていた。


(欽は、死んだのだ……私はその世界で生きていかなくてはならない)


 許靖はそれを認めていた。


 辛い事実であることには変わりなかったが、それを受け入れるかどうかで自分の世界が随分と違うことがよく分かった。


(辛い……しかし生きていこう。花琳にもそう約束した)


 許靖の思考は自然と息子の死から離れ、そう思った。


 それからは心が空になり、ただただ座禅の時間が流れていった。


 許靖の意識が瞑想から戻されたのは、韓儀のつぶやきが耳に入って来たからだ。


「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」


 韓儀は手を合わせ、一心不乱に念仏を唱えていた。


 許靖はその顔を見て目を丸くした。


 韓儀は泣いていた。


 先ほど自分がそうしていたように、いや、自分が流していたよりも激しく涙を流しているようだった。


「……韓儀殿?」


 許靖は状況が理解できず、小さく声をかけた。


 韓儀は涙と一緒に念仏を飲み込んだ。そして震える声で答えた。


「……お前の泣く顔を見て……大切な者を失うということが、どれだけ辛いことかを改めて理解させられた……俺が殺した連中にも、家族がいただろう……友人がいただろう……俺は、それを……」


 許靖は韓儀へかけるべき言葉を思いつけなかった。


 韓儀のやったことは確かにあまりにも非道いことだ。思いつく限りの汚職をなし、それを捜査していた善良な兵たちを惨殺している。しかも兵たちは殺された後、顔まで潰されていた。


 実際、大切な部下を殺された朱烈は精神を崩壊させかねないほどの苦しみを受けていた。それを思うと、許靖は何と声をかければいいのか分からなかった。


 韓儀は自分の両手のひらを見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「俺は……ここ交州に送られて、初めて水仕事が冷たいものだということを知った」


「水仕事……」


「それだけではない……飯炊きが煙いものだということを、初めて知った……水汲みが重いものだと、初めて知った……掃除で腰が痛くなることを、初めて知った……」


「…………」


「もちろん、自分のために誰かがそれをやっていることは知っていた……しかし、苦労とは自分と全く別の世界にあることで……他人が何かで苦しむということが、よく理解できていなかったのだ……」


 許靖には、韓儀の言うことが何となく理解できた。


(ここに来て初めて自分が苦しみを知り、それが他人の苦しみの理解に繋ったというわけか)


 おそらくは、韓儀の中でそういうことがあったのだろう。


(そういえば韓儀殿の元々の「天地」では、天女たちが喜んで男の世話をしていた。他人の苦労や苦しみは微塵も見て取れなかったな)


 あの極めて自己中心的だった男は、要は他人の苦しみというものが己の認識の中に存在しなかったのだ。


 果たして韓儀は許靖の推察した通りのことを告白をした。


「おかしなことを言うと思うかもしれないが……俺はここに来て、初めて他人が苦しむのだということを理解できたのだ……しかしそれを理解できてしまうと……俺が苦しめた人間たちのことが……俺の犯した罪の数々が……」


 あまりにも重い、罪の意識。


 それが突然、韓儀を襲ったのだろう。


 韓儀の瞳の奥の「天地」を見ると、瞑想する男が泣きながら首を前に傾けていた。


 許靖はそれを見て、斬首されるために首を差し出しているのだと感じた。


「……俺を救ってくれたのは、み仏の教えだ。特に悪人すら救われるという阿弥陀仏の本願に、俺はすがった。それが無ければ生きてこられなかったと思うし、今でも助けられている。しかし……」


 韓儀は一度言葉を切り、大きく息を吸った。そしてそれを吐き出すのをためらうように一拍溜めてから、己の本心を吐き出した。


「しかし俺は、どうしたらゆるされるのだろうか?いや、果たして赦される道があるのか?たとえ阿弥陀仏の本願で極楽浄土に往生できるとしても、この罪を抱えていなければならないのなら俺は……辛い」


 辛い。


 その短い一言は、今の韓儀という男のほとんどを構成しているのではないだろうか。


 許靖がそう錯覚してしまうほどに、その言葉には韓儀の苦しみがこもっていた。


 許靖は少し沈黙してから、静かに口を開いた。


「……先ほども同じようなことを言いましたが、私はあなたから何の害も受けていません。だから韓儀殿が赦されるかどうかについて、何も言う権利がありません」


「そう……だな」


「しかし、韓儀殿は私を助けてくれました。それに和尚はあなたのことを『人助けが好き』だと言っていました。今の韓儀殿は、過去の罪に見合うことをしようとしているのではありませんか?」


 韓儀は自嘲した。


「それも結局は己のためなのだ。人を助けている時だけは心が少し軽くなる。心のどこかで、善行を積めば罪が赦されるかもしれないと期待しているからだろう」


「いつか善行が悪行を上回る時が来るかもしれません」


「だが善行と悪行は受けた人間が違うから、やはり別で考えなければならないだろう。しかも俺は死んだことになっており、それが救いになっている被害者もいるだろうから、今さら被害者に何かしてやることも出来ない。死んだ人間には、当然何もしてやれんしな……」


 許靖には韓儀の絶望が分かる気がした。


 許靖も息子の死に関して少なからぬ責任を感じている。しかし息子自身のためにしてやれることは、もう何もないのだ。


(罪というものは、少なくとも消えるものではない)


 韓儀にもそれは分かっているはずだ。だから『赦される』ことを望んでいる。


 ただ、それはとても難しいことなのだった。


((結局のところ、罪は抱えていくしかないのだろう……))


 韓儀と許靖は同時にそう思った。


 そして韓儀は手を合わせ、また念仏を唱え始めた。


「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」


 許靖もそれに応じるように、念仏を唱えた。


「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」


 唱和しながら、許靖は己の心に小さな変化を覚えていた。


(……確かに念仏を唱えて仏にすがると、心が少し軽くなるな)


 そう感じつつ、ふと思いつくことがあった。


「……韓儀殿、先ほど念仏の説明の時に『まずは自分が救われるために念仏を唱え、それが心の中で思い定まれば次に他人のために唱えると良い』と言っていましたね」


「ああ、念仏の教えらしい教えだと思うが」


「ですが、韓儀殿は人助けをしている時に心が軽くなるのですよね?ならば、むしろ他人が救われることを願いながら念仏を唱える方が、自分の救いにもなるのでは?」


 韓儀は許靖の言葉を聞いて、少し目を大きくした。


 それから合掌し直して、再度念仏を唱え始める。


「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」


「どうです?」


「……確かに、いつもより少し心が軽くなる気がするな」


「良かった」


 そう言って許靖が笑った時、部屋に陽の光が差してきた。


 気づけば雨は上がっており、雲の合間から気持ちの良い晴れ間が覗いている。


 許靖は足を崩して立ち上がった。


「私はそろそろ帰ります。家族が心配するので」


「そうか。服はそのまま貸しておいてやるから、暇な時に返しに来い」


「助かります」


「では、行くか」


 そう言って、韓儀も土間へ出て草鞋を履き始めた。自分もそのまま出かけるつもりのようだ。


「どこへ行くのです?」


「川のそばに家を構えている老夫婦がいてな。今日の雨は特にひどかったから、様子を見に行く」


 許靖は後で知ったのだが、『歯抜け坊』と言えばこの辺りでは有名な世話焼き僧侶だという話だった。


 その世話焼きのまばらな歯が、雨上がりの陽光に照らされて白く輝いていた。


 和尚は韓儀のことを『人助けが好き』だと言っていたが、許靖にもこれが己のためだけに人助けをする男の顔には見えなかった。


「韓儀殿、ありがとうございました。あまり信心深くはない私でも、少し楽になった気がします」


「信心などよりも、楽になることの方が大切だ」


「僧がそんなことを言っていいのですか?」


「俺は、宗教は生活に寄り添うものだと思っている。だから、それでいい」


 それから韓儀は、まるで挨拶のように念仏を唱えた。


 そして許靖もそれに応じる。


「南無阿弥陀仏……」


「南無阿弥陀仏……」


「南無阿弥陀仏……」

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