短編 ナマズ釣り3

 重い一撃によって春鈴シュンレイは飛ばされ、あやうく張占チョウセンの入っていた穴に落ちそうになった。


(見つかった!!もう倒すしかない!!)


 春鈴はそのことを覚悟した。


 元々張占を脱獄させるつもりはあったが、兵を怪我させるつもりなどないのだ。というか、さすがの春鈴もそれは良くないことのような気がしている。


 しかし、もはやそんな悠長なことを言っていられない。


(兵はまだ一人ね……)


 相変わらずの暗さではあったが、その程度のことはなんとか分かった。自分の目の前には大柄な兵が一人おり、それ以外には気配もなさそうだ。


(仲間を呼ばれる前に倒す!!)


 そう心に決めた春鈴は、相手の兵に向かって跳ねた。


 雷鳴のような踏み込みで敵との距離を詰め、雷光でも発しそうな突きを繰り出す。


 暗がりでもあり、春鈴の攻撃は並の兵では知覚すら出来なかっただろう。


 が、その兵は片腕を上げただけでそれを受けてみせた。


(……強い!!)


 春鈴は相手の強さを認めると、横に移動した。これだけの実力を持った相手なら、すぐに反撃が来ると思ったのだ。


 そして、実際それは来た。春鈴の動いた方へと。


「ぐっ……!」


 相手の中段蹴りを脇腹に受けた春鈴は低い声を出した。


 ただしモロには当たっておらず、半分腕で防御している。もし明るくて視界が利いたなら完全に防げていただろうが、物の輪郭がぼんやり分かる程度ではこれが限界だった。


 しかしその環境下で、相手の兵は正確に春鈴のことを攻撃してきた。暗闇での戦いを苦にしていないようにも感じられる。


 春鈴はバネのように跳ねて、とりあえず距離を取った。


 しかしその兵はすぐに追撃してくる。太く長い腕を大きく横に振って、頭を攻撃してきた。


 ただ、それほど鋭い攻撃ではない。春鈴はそれをかがんでかわした。


 が、腕が髪をかすめる瞬間には、自分で自分の失策に気がついた。


 相手の片足が、下がった自分の頭を蹴り上げようと迫ってきたからだ。


(くそっ、こんな陽動を見抜けないなんて!)


 心の中で悪態をつきながら両腕を交差させて蹴りを受ける。相当に重い蹴りで、春鈴の足は地から離れて浮いた。


(やっぱり戦い慣れてる人だ!夜の戦いが上手い!)


 春鈴はあらためてそう思った。


 先ほどの腕の横なぎは不自然なほどに大振りで、もし明るければ陽動だとすぐに気づいただろう。しかし暗さのせいで動きがしっかり把握できず、相手の思う通りに動いてしまった。


 その相手はというと、おそらく暗がりだからこそわざと大きく腕を振ったのだろう。明るい所なら簡単に見破られてしまう動きが、暗いからこそ絶妙な罠になったのだ。


(きっと夜襲とか、兵としての経験が深いんだ。だからこんな戦い方ができる)


 武術に関して天賦の才を持った春鈴は、反射的にそう理解した。


 しかしそう理解できたところで彼我の経験値は変わらない。深い経験は、時に天才をも凌駕するのだ。


 一瞬浮いた春鈴が地に降りる前に、その二の腕が掴まれた。そして力任せに投げられる。


(……地面が見えなくて受け身が取れない!!)


 春鈴は極端に暗い環境で投げられるとどういう事になるのか、初めて経験していた。


 投げ自体は本当に力任せの大したものではなかったのだが、それとは関係なく地面というものは固くて強い。受け身が取れないというのは、致命的になりうることだった。


 春鈴は体を丸めて回転させ、被害を最小限に抑えた。体のあちこちに痛みを感じながら土の上を転がる。


 しかしその痛みに苦しんでいる暇はない。


(次が来る!)


 追い打ちの攻撃が上から来るだろう。


 そう思った春鈴だったが、意外にも相手は少し離れたところで身を低くしていた。そしてその状態から腕を振る。


 腕が届く距離ではなかったのだが、すぐに相手の意図は理解できた。


(こ、ここで見潰し!?)


 敵は砂を握り、それを投げつけてきたのだ。顔に砂が当たってから初めて気がついた。


 ただでさえ強く制約された視界がほぼ完全に閉じられてしまった。


玄人くろうとだ……)


 春鈴は相手のことをそう感じていた。ただ強いとか、そういう事ではない。戦いの玄人なのだ。


 その玄人が、ほぼ視界を失って態勢を崩している自分へと迫ってくる。


 春鈴はその気配を感じながら、少々早い敗北感を感じていた。


 蹴られるのだろうか、殴られるのだろうか。それともまた投げられるのかもしれない。


 それを覚悟して身を固くしたが、その攻撃が来て苦痛の声を上げたのは自分ではなかった。


「がはぁっ!!」


 そんな声を上げたのは、張占だった。


 春鈴の前に立ちはだかり、代わりに体を蹴られたのだ。


「ちょ、張占さん!?」


 春鈴は視界がほぼ無いなりに、張占の気配から兵の位置をだいたい掴んだ。そしてそこへ立ち上がりざまの蹴りを放つ。


 それは兵に当たりはしなかったものの、警戒させて下がらせることはできた。蹴りが正確に自分に飛んできたので、目潰しが効いていないと思ったのかもしれない。


 距離を取り一息ついた春鈴は、涙を流して砂を洗い流そうとした。数度まばたきを繰り返すと、視界はなんとか回復してきた。


 片手で目を拭いながら、片手を張占の肩に置く。


「大丈夫ですか!?なんで出てきたんです!?」


 今のはたまたま助かったが、春鈴からすれば張占を守りながら戦う方が難しい。それに下手に素人が乱入してくるとやりづらくなるというのが慣れた者の感覚だ。


 しかし、張占としては他意なく取った行動だ。思ったままを答えた。


「な、なんでって……私はあなたを守りたいと思って」


 その言葉を聞いた春鈴は、思わず赤面した。頬が紅潮し、耳まで熱くなってくるのを感じる。


 この弱い男に言われた言葉で、なぜ自分の顔が熱くなっているのか分からなかった。しかしその生理反応を止められない。


 春鈴はなぜか恥ずかしい気持ちになり、それから自分をごまかすために張占の背に触れた。


「そ、そんなこと言うんなら、もっと役に立ってみせなさいよ!!」


 そう言って張占の背中を強く押し、敵兵の方へ突き出した。


「え!?あ、あぁあ……」


 張占は突然のことに戸惑った。


 敵に突っ込んで倒せということだろうか。しかし、自分には人を物理的に倒すための方法など分からない。


 だが、今は男としてやらねばならない時だろう。そう思った張占は、両腕をぐるぐる回しながら相手へ駆けていった。


「わあぁああ!!」


 この妙な男をどうしたらいいか、玄人の兵も戸惑ったらしい。一瞬動きを停止させた。


 そしてその一瞬に合わせ、張占の耳元を通って小石が飛んだ。春鈴の放った指弾だ。


 先ほどの目潰しで、意外にも暗い所でそういう攻撃が有効であることを知った。だからすぐに応用したのだ。


 しかも張占をおとりに使い、その影から撃った。


 本当は目に当たれば一番だったのだが、小石は眉間辺りに当たったらしい。ただ、それでも相手は一時的に視界を完全に閉じたはずだ。


 それを見越した春鈴はすでに駆け始めており、張占の背中に迫っている。敵との直線上にいる張占をよけずに、その肩に手をかけた。


「踏ん張りなさい」


 短くそう言って跳び、張占の肩に足を乗せた。


 そしてそれを蹴り、さらにもう一段高く跳んだ。


 その直後に相手は視界を回復したが、自分の想定していた所に春鈴がいない。


 この経験豊かな兵でも、この高さに跳んだ敵から攻撃されたことはなかった。


「はぁっ!!」


 春鈴は体重を乗せた、渾身の踵落としを放った。


 兵は不意を突かれながらも、かろうじて反応して片腕を上げた。しかし春鈴の勢いを消せはしない。


 踵は脳天に落とされ、兵は意識を朦朧とさせながら後ろに倒れた。


(まだだ!!)


 春鈴はすぐに追撃しようとした。かなりの有効打になったことは間違いないが、それでもこの兵はまだ戦えると判断した。


 しかし春鈴が次の一撃を放つ前に、横から強い衝撃を受けた。誰かが飛びついてきたのだ。


(不覚!もう一人いた!)


 戦っている間に他の兵が来ていたのだろう。


 春鈴は即座にその相手を倒すための方法をいく通りも頭に思い浮かべたが、それを実行する前に聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。


「姉さん待って!」


 許游キョユウの声だった。


「游!?なんで止めるのよ!」


 春鈴は突然乱入してきた弟を責めながらも、心の中でどこか安心していた。


 生まれてからずっと一緒の弟がいるということが、春鈴にとって一種の精神安定剤になったのだ。


 それに何より、この弟は感覚が妙に鋭い。視界の利かない夜間の戦いでも十分な戦闘が可能と思われた。


 が、弟の方は戦う気がなく、その代わりに重大なことを教えてくれた。


「厳じい様だって!」


「は?」


「だから姉さんが相手にしてるのは、厳顔ゲンガン様だって言ってるの!!」


「……はぁ!?」


 春鈴は思わず声を裏返してしまった。


 厳顔は祖父の許靖が太守を務めていた巴郡の将であり、春鈴とも面識がある。


 というか、同じ武術道場で鍛錬していたので、齢は祖父と孫ほどに違っているとはいえ同門の徒だ。


 その頃まだ幼かった春鈴と許游は厳顔によく懐き、第三の祖父のように思っていた。


 そして厳顔は厳顔で二人を孫のように思い、『厳じい様』と呼ばせてよく可愛がっていた。


「痛たたた……」


 その祖父は頭を振りながら起き上がってきた。


「ちょいと春鈴を懲らしめてやろうと思って仕掛けてみたが……その齢で何たる練り上げようだ。まさかの返り討ちにあったわい」


 厳顔はそう言ったものの、その足取りは思いの外しっかりしている。春鈴の感じていた通り、まだ余力はありそうだ。


 春鈴は血の繋がらない大好きな祖父に尋ねた。


「厳じい様……なんで?」


「なんで?それはこっちの台詞だ。春鈴こそなんでこんな所にいる?」


 春鈴は言葉に詰まった。


 返答に困ったものの、この状況にどこか懐かしい感覚が蘇る。


(そういえば小さい頃にもよくこんな事があったな……いたずらがバレて怒られた時に、『こんな悪いことをしました』って言えなくて黙っちゃうんだ)


 それは幼い自分にとって辛い沈黙の時間だったが、大きくなってからもそれは変わらないようだった。


 そしてその沈黙は許游にとっても辛いものだったらしく、弟が助け舟を出して喋ってくれた。


「門番から逃げながら、厳じい様の成都の家が近いことを思い出したんだ。それで駆け込んで、事情を説明して……」


(余計なことを!!)


 春鈴は鋭い目つきで弟のことを睨んだものの、それをさらに厳顔から睨まれて視線を地面に移した。


 そんな春鈴へ向かって、厳顔は重々しく口を開く。


「……まぁここで話すのもなんだから、とりあえず管理棟の中に入るぞ。三人ともついて来い。本来なら当然囚人は駄目だが、今日は特別だ」


 そう言われて厳顔とともに建物へと戻って行った。


 錠のたくさん付いた扉をくぐると、そこには春鈴が昏倒させた兵が直立していた。厳顔たちに起こされたのだろう。


 その兵は厳顔を見て背筋を伸ばし直したが、その後ろの春鈴と張占を見て目を丸くした。


 それはそうだろう。通した記憶のない娘がいるし、死刑囚が獄から出ているのだ。


 厳顔はその兵の肩に手を置いた。


「規律違反は重々承知しているが、この娘は死刑囚と良い仲でな。最後に話をさせてやるだけだから、野暮な報告はするなよ。その代わりお前さんの居眠りも報告せんからな」


「は、はいっ」


 そう言って笑う厳顔に、兵は了解の返事を返すしかなかった。


 厳顔は管理棟の一室へ入り、灯火を点けた。そして三人と向き合う。


「春鈴。お前、自分が何をやったか分かっとるか?」


 厳顔は開口一番、そう問い正した。


 春鈴はうつむいて答える。


「……脱獄」


「そうだ。ならそれが発覚したら、お前自身がどんな判決を受けるか知っとるか?」


「……死刑」


「それが分かっていながら、なんでこんな無茶を……」


「だって!!……ナマ、じゃない、張占さんは何も悪いことしてないじゃない。それなのに死刑なんておかしいよ」


「だからといって、脱獄など……」


「じゃあ厳じい様は張占さんが死刑になるのは正しいと思う!?本人は何も悪いことをしてないのに、連帯責任なんて意味の分からない理屈で死なないといけないなんて変でしょ!?」


「…………」


 厳顔は血のつながらない可愛い孫娘の反論に押し黙った。それは本音として、春鈴の言葉を肯定しているようなものだった。


 そして当の張占はというと、目に涙を浮かべていた。


「……私なんかのために、本当にありがとうございます。ですが春鈴さんの身まで危うくするわけにはいきません。それに、やはり私は多くの人から憎まれている身……」


「だからそれ絶対におかしいって!悪いことしてなくても憎まれてるから罪なんて!」


「おかしくてもそういう世の中なんです。ですから、私は潔く死にます」


「おかしい!絶対おかしい!何もしてないのに死ぬなんて……」


「死にはせん」


 そう言って二人の言い合いを止めたのは厳顔だった。


 意外な言葉に三人の目がそちらを向く。


「これは本当は言ってはいけないことなんだが……もうここまで言ってしまったから仕方ないか。お前たち、絶対に他言するなよ?実は張占は死刑にならん。その母もだ」


 厳顔の告白に、張占は震える声で尋ねた。


「ど……どういうことでしょう?」


「公式には斬首ということになるが、それが実行される場所は人里離れた山奥だ。死体はそのまま野にさらされる予定だが、山奥であればすぐに獣が食べてもおかしくはなかろう」


 この時代、斬首の場合は三日間首を晒される決まりになっていることが多かった。しかし刑の執行や晒す場所は街中とは限らず、山野であることもあったという。


 山野はわざと獣に死体を食わせるという残虐な意味合いがあるのだろうが、よくよく考えると人目につかなければ刑を執行しなくてもバレはしない。


 執行人を信頼の置ける人間だけにするか、十分な金銭を握らせれば可能だろう。


劉璋リュウショウ様は以前に宿敵張魯チョウロの母を殺してから、連座での死刑がお嫌いになってな……見せしめの意味合いもあるからいったんは死刑をお命じになるが、後で私のように長く仕えている者にこっそり逃がすようお命じになるのだ」


 厳顔は先代劉焉リュウエンの時代から仕えている古株で、劉璋の代になってからもすでに二十年近く働いている。信頼を置いてもらえるのに十分な時間を共有していた。


「劉璋様から、巴郡へ帰る前に刑の執行責任者を務めるように申しつかっていた。だから張松チョウショウの妻子の処遇は、実際のところ益州外への追放ということになる予定だ」


 張占はその場にへなへなと崩れ落ちた。


 それはそうだろう。潔く死を受け入れるとは言っていたが、本当に死を受け入れるのはそんなに簡単なことではない。


「なんだ、私の骨折り損か」


 春鈴はごく軽い調子でそう言い、頭の後ろで指を組んだ。


 その様子を厳顔がギロリと睨む。


「お前……やっぱり自分のやった事が分かっとらんようだな……」


 大きな拳を握りしめ、目の前に出した。


 それを見た春鈴は素早く居住まいを正し、両手を顔を前で振った。


「い、いや……分かってる、分かってるよ?ちゃんと反省してるからさ……」


「いいや分かっとらん!お前がやったことは多くの人を不幸にしかねんことだ!許靖様にも迷惑がかかるし、お前が死刑になれば家族が皆悲しむだろう!それに、正しいと思ったことを全て実行しておっては人の世など生きていけん!そもそも正しいことなど人によって違うのだからな!それを毎度他人に押し付けてしまうのは、ただの社会不適合者だ!」


 厳顔の説教を食らった春鈴は、転がってくる大岩にぶつかられた気分がした。


「ご、ごめんなさい……」


 身をすくませて、素直に謝る。


 小さい頃もよくこんなことがあった。こうやって、厳顔は春鈴と許游がちゃんと育つようにしてくれるのだ。


「以後、気をつけるように」


 厳顔はそう言って、岩のような拳骨を春鈴の頭に落とした。


 もちろん春鈴にとってかわせる拳骨ではあったが、あまりに愛を感じるのでかわしてはいけない気持ちになるのだ。


 それにさして痛くはないし、怪我をするような拳骨ではない。ただ、不思議と体の奥に響き、自分が悪いことをしていたのだと自覚させられるのだった。


 それから厳顔は、ごく自然な流れで許游にも拳骨を落とした。


「ちょっ……今回の俺は何も悪くないじゃないか!!」


「連帯責任だ」


 頭を押さえる許游へ、厳顔は無慈悲にそう言い渡した。


「そんな……」


「というかな、お前もこのじゃじゃ馬娘を止めんか。弟だろう」


「いや、無理だって。もう仕方ないでしょ。厳じい様も知ってるよね?」


「まぁ……お前の言うことも分かるがな……しかし無理とか仕方ないとか言っとるだけだと、大変なことになる時がある。今回はその分かりやすい例だ」


「それはまぁ……確かに……」


 そうやって今度は許游に説教を始めた厳顔の裾を、春鈴が摘んだ。


 珍しく体を縮こまらせて、上目遣いに聞いてくる。


「……靖じい様と花琳ばあ様に、言う?」


 春鈴にとって最も恐ろしいことはそれだった。この二人を特に尊敬しているからこそ、失望させたり怒らせたりするのは嫌なのだ。


 厳顔も春鈴を本当の孫のように可愛がっているから、こういう態度を取られると弱い。


「……今後、絶対にこんな無茶をしないと約束するなら黙っておこう」


「する!!約束します!!ありがとう、厳じい様!!」


 春鈴は急に表情を明るくし、厳顔に抱きついた。


 厳顔は頭を掻きながら嬉しそうに笑った。


「まったく……この娘にはかなわんな。しかしこんな子供のような春鈴も、もう立派に恋をする齢か……」


「え?恋?」


「だってお前、命をかけてでも好きな男を助けようとしたのだろう?」


 厳顔はそう言って張占へと視線を落とす。


 張占は顔を赤くしてうつむいた。


 二人がそう思うのは当然だろう。春鈴の取った行動は、普通に考えたらそういうことだ。


 張占は若者らしく嬉しい一方、どこか恥ずかしい気持ちを感じていた。


 しかし、春鈴の次の言葉でその浮ついた気持ちは奈落の底に落とされることになる。


「私、張占さんのこと別に好きじゃないよ?男としての魅力も全然感じないし」


 春鈴があまりに当たり前のようにそう言うものだから、その場の全員がそれは春鈴の本音だと理解できてしまった。


 張占はまるで死んだナマズのような表情で固まり、厳顔と許游はそれに気の毒げな視線を送る。


「あ、でも……」


 春鈴は暗闇での戦いを思い出して、言葉を継ぎ足した。


「……さっきの張占さんは……ちょっとカッコよかったかも」


 つぶやくようにそう言った春鈴の頬は、海が夕陽で染まったような美しい朱色をしていた。


 その光景は張占の胸に深く刻み込まれ、心の奥底でこれからもずっと輝き続けることになる。


 本物の恋とは、誰にとってもそういうものだろう。


 ナマズは海にむことは出来なかったものの、その美しさで心を満たすことは出来たのだった。

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