短編 ナマズ釣り2

(……本当に暗いわね)


 初めに出会った兵が言っていた通り、扉をくぐるとその先は急に光源が少なくなっていた。


 とういか、ほぼ明かりはない。新月の夜なので、うっすらと物の輪郭が分かる程度だった。


 扉の外は、半分屋外だ。東屋あずまやのような屋根はあるが、下は地べたになっている。


 というのも、地面を深く掘った底に囚人が収容されているからだ。


 牢というものの形はいくつかあるが、この時代にはこんな空井戸のようなものを牢にすることがあった。当然のことながら、自分では這い上がれない深さになっている。


(それじゃ、ナマズ釣りを始めましょうか……って言っても、どこにいるか分からないわね)


 穴はいくつかあるようだったが、張占チョウセンの収容された穴がどれかなど当然分かろうはずもない。


 暗いながら目を凝らして見ると、穴は大きなものと小さなものがあるようだと分かった。


 おそらく大きなものにはたくさんの囚人が入れられ、小さなものに少数が入れられているのだろう。


(一応は重大犯罪の囚人になるし……やっぱり小さい穴じゃないかしら?)


 春鈴シュンレイがそう検討をつけて一つの穴を覗き込んだ時、その奥から小さなつぶやきが漏れてきた。


「寒い……」


 それはほんの小さな声だったが、春鈴の耳にははっきり聞こえた。


 紛れもない、張占の声だ。


(やった!今日の私は釣り運に恵まれてるわね。爆釣ばくちょうの予感)


 あまりに順調だと気持ち悪いが、春鈴の頭は基本楽天的かつ肯定的にできている。そうでなければこんな無茶はしていないだろう。


「ナマ……じゃない。張占さん?」


 春鈴は他の穴に聞こえないよう、できるだけ抑えた声を落とした。深く掘ってあるし、穴に顔を突っ込んで話せば他へは聞こえなさそうだった。


「……しゅ、春鈴さんですか?」


 張占は張占で、春鈴の声だとすぐに判別できたらしい。恋する若者の成しうる技かもしれない。


 そして、この男も春鈴に負けず劣らず肯定的、というか、おめでたくできていた。


「も、もしかして死ぬ前に会いに来てくれたんですか?」


 片思いとはいえ、これもやはり恋する若者の発想だろう。


(わざわざ会うためだけに、牢獄に忍び入るわけないじゃない)


 春鈴はそう思ったものの口には出さず、手短に要件を伝えた。


「助けに来たんですよ。この穴の中には張占さん以外に誰かいます?」


「ええっ!?いや、私一人ですけど……」


「よかった、じゃあ脱獄させてあげます。今から縄を下ろしますから、それに捕まってください」


 春鈴は持って来ていた縄をスルスルと下ろした。かなりの長さが手元から離れたところで少し軽くなる。底に着いたのだろう。


「よし、あとはこの縄を柱に……」


「待ってください。私はここを出ません」


 張占は春鈴の予想だにしなかったことを言い始めた。


 しかし、ここから逃げなければ張占は斬首されるのだ。


「なんで?このままだと死んじゃいますよ」


「なんでって……春鈴さんに逃がしてもらったら、今度は春鈴さんが死刑になるじゃないですか」


 張占はごく当たり前のことのように、子供に諭すようにそう言った。


 普通なら自分の命と天秤にかけて、逡巡するところだろう。しかし若者の恋心は結論を得るのにそのような行程を必要としなかった。


「春鈴さんが今ここにいることだけでも重罪のはずです。すぐに帰ってください」


「いや……でも、さっきも言ったけど、張占さんこのままじゃ死ぬことに……」


「それがなんですか!死刑囚を脱獄させたら、当然その人も死刑になりますよ!私のせいで春鈴さんが死ぬことになるんです!私にさらに罪を重ねさせるんですか!?」


 春鈴は張占の言い様に少しムッとした。


 自分は助けに来ているのに、なぜ叱られているのだ。


「罪を重ねるって……別に張占さんは何も悪いことはしてないじゃないですか」


「しかし私の父の罪は明らかです。ならば子である私も罪を問われて仕方ありません」


「そんなのおかしいですよ。罪人の子供だってことが、どうして罪になるんですか」


「私はその父に養われていたわけですから」


「そんなこと言われたって子供は親を選べないのに……どうしようもない事を罪だと言われるのは変です」


「しかし悪いことをした男の財で良い暮らしをしている家族がいたら、多くの人は腹を立てます」


「何も悪いことをしてなくても、多くの人に腹を立てられたら罪になるんですか?」


「そうです。人が人を裁く以上、多くの人に腹を立てられる人が罪人ということになります」


「…………」


 春鈴はやはり納得できなかった。


 世の中の正しさが一通りでないことくらい分かっている。しかし、誰かの罪がその近しい人にまで及ぶというのは絶対におかしい。


「だから春鈴さんは、もうここから離れてください。来てくれたのは本当に嬉し……」


「張占さん」


 春鈴は張占の言葉を遮って声を出した。


「お願いを、聞いてもらえますか?」


「……お願い?なんでしょうか」


「今からこの縄に私の気持ちを込めたおまじないをしますから、言う通りにしてください。最後のお願いです」


 想い人の口にする『気持ちを込めた』という言葉を聞き、張占の胸は否が応にも高鳴った。


「は、はい。分かりました」


 一も二もなく、そう返事をした。


 それを受けた春鈴は一度スルスルと縄を上げ、それからその先に結び目を作ってからまた下ろした。


「縄の先に輪が作ってあるんですけど、分かりますか?」


 張占は暗闇の中、手探りで縄を掴むとその輪を確認した。


「えーと……あ、はい。これですね」


「それに腕を通してください」


「通しました」


 張占がそう答えるのと同時に、春鈴は縄を強く引いた。


 それによって輪は縮まり、張占の手首が強く締めつけられる。


「え?えっと……春鈴さん?これは?」


 春鈴はその張占の質問には答えず、自分のことを話した。


「私、今日ここへは気晴らしのナマズ釣りに来たんです」


「ナマズ釣り?」


「そうです。でもせっかく釣りに来ても、全然釣れなくてボウズだと気晴らしにならないじゃないですか」


「はぁ……そうですね」


「ここには川に突き落とす弟もいないし」


「え?突き落とす?」


「いや、それはいいんですけど。でもまぁ、やっぱり一匹は釣果が欲しいんですよ」


「はぁ……」


「だから、釣り上げさせてください」


 春鈴はそれだけ言い残し、屋根の柱に縄を回した。そしてその柱に足をかけ、縄を思い切り引っ張る。


 穴に下りていた縄は引き上げられ、張占は手首で吊られる格好になった。


「い、痛い痛い痛い!!ちょ、ちょっと待って!!手首が!!手首が千切れる!!」


「大の男がうるさいわね。しっかり縄を掴みなさいよ。鍛えてなくても、ぶら下がるくらいできるでしょ」


 春鈴は面倒くさそうにそう言いながら縄を引き続ける。


 張占は苦痛の呻き声を上げ続けているが、まるで力を抑えようとはしなかった。


 そのおかげもあり、張占の呻き声は少しずつ地上に近づいてくる。そしてついに、その手が地面へとかかった。


「し、死ぬかと思った……」


 張占はそうつぶやきながら地面に転がった。


「いや、むしろ死ぬところを助けてあげたんでしょ」


 別に恩を着せるつもりはなかったが、文句を言われる筋合いもないはずだ。


(これで後は、無事ここから出られれば……)


 春鈴がそう思いながら張占を起こそうとした時、首筋がチリチリと焦げるような感覚を覚えた。


 反射的に、背後に向かって腕を上げる。


 その腕に強烈な拳がぶつかってきた。

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