短編 ナマズ釣り1

時は遡り、劉璋リュウショウと劉備の戦が開始された直後のこと。



 春鈴シュンレイは寝台に転がって、天井を睨んでいた。


 別にそこに何かあるというわけでもない。何となく睨んでいるだけだった。


 仰向けのままで足を垂直に上げ、勢いをつけて下ろす。足のぶつかった寝台が揺れて、ホコリが舞った。


「うー……」


 春鈴は呻くような声を上げてから、同じように何度も足を上げ下げした。部屋にはドンドンと音が響き、さらにホコリが舞う。


「ちょっと姉さん。そういう足癖の悪いことは自分の部屋でやってくれよ」


 弟の許游キョユウが苦情を申し入れてきた。


 それはそうだろう。ここは許游の部屋で、ホコリまみれになるのは許游の居住空間なのだから。


 春鈴は弟の苦情を聞き入れ、足を止めた。


 しかし今度は両腕を上げて、バンバンと寝台を叩き始める。


「…………」


 許游は閉口した。


 何か機嫌が悪いようだが、なぜ自分がそのとばっちりを食わされなければならないのか。


「姉さん、ここ俺の部屋なんだからさ……」


 と、そこまで言ったところで許游の台詞は止まった。枕が飛んできて、顔面にぶつかったからだ。


「うっさいわね。たった二人しかいない姉弟なんだから、どっちの物とか細かいこと言わなくていいでしょ」


「……じゃあ姉さんが今してるみたいに、俺が勝手に姉さんの部屋に入って来て好き勝手やっても文句言わないのかよ?」


「なに言ってんのよ。そんなことしたらぶっ飛ばすわよ」


「…………」


 この姉は弟の部屋を、いや弟の物を全て自分の物だと思っている節がある。ただし、その逆は絶対に許さない。


 もはやその不条理を指摘しても何一つ改善されないことは分かりきっているので、許游はそれ以上何も言わなかった。


(やな感じ……)


 春鈴は鬱々として気分が晴れなかった。


 理由は分かっている。つい先日、祖父からあの話を聞いてしまったからだ。


(ナマズ髭さん、何も悪くないじゃない)


 ナマズ髭、というのは春鈴の見合い相手だった張占チョウセンという男のことだ。


 春鈴のつけたあだ名通りナマズによく似たこの青年は今、殺されるのを待つ状況にある。


 父である張松チョウショウの裏切りが発覚し、妻子ともども死刑を言い渡されたからだ。


 張松はここ益州を支配する劉璋リュウショウを騙し、州内へ劉備軍を招き入れた。


 益州は険しい山々に囲まれており、守るに強い土地だ。しかし中に入られてしまえばその天険も意味をなさない。


 張松のやったことは、劉璋の頸動脈に刃を当てたのと同じことだった。


(そりゃお父さんが死刑ってのは仕方ないかもしれないわよ。でもその子供だから死刑って、意味が分からない)


 まだ娘というような年頃の春鈴にとって、理解しがたいことだった。


 例えば自分の母が盗みでもしたら、自分も牢に入らないといけないということか。


(まぁお母さんはああ見えて寂しがり屋だから、一緒に入ってあげないこともないけど……でも『連帯責任』って言葉、嫌いだな)


 少々思考は脱線したものの、『連帯責任』という理屈に見えて何の理屈も通っていない単語が若い春鈴には納得できない。


 しかもそれが人の死すら絡むことになっているから、春鈴の心は否が応にも鬱々とした。


(ナマズ髭さん……)


 正直に言うと、春鈴は張占に異性としての魅力を欠片も感じていなかった。


 それはナマズのような容姿が理由ではない。春鈴は男から守ってもらいたいという願望を持っているのに、張占がまるで弱い男だからだ。


 だが張占の方は自分のことを好いてくれているようだった。それは娘にとって、どうでもいい類のことではない。


 そしてそういう人間が不条理に殺されるというのは、大変に気分の悪いものだった。


「……気晴らしがしたいわね」


 そうつぶやいた姉の顔を見て、許游は怯えた。


 まさか自分を殴らせろとは言わないだろうが、『殴られたほうがマシだった』と思える気晴らしに付き合わされたことは何度もある。


「な……何をするの?」


 恐る恐る尋ねた弟へ、姉は目も向けずに答えた。


「ナマズでも釣りに行こうかしら」



***************



「ちょ、ちょっと姉さん……!これは本気でヤバいって……!」


 許游は小声ながらも、力を込めて姉に警告した。


 というのも、今から姉がやろうとしている事は自分たちの命に関わることだからだ。


「そう思うんなら、上手くやりなさいよ」


 春鈴は弟の胸ぐらを掴んで顔を近づけ、凄んでみせた。


 ただし、それだけ近づいても互いの顔はよく見えなかった。今夜の月は新月で、灯火がなければ人の顔などとても判別できない。


 二人はその暗い夜に、とある場所へと向かう路地を歩いていた。


「脱獄なんて、簡単にできるわけないじゃないか!!」


 許游は絶望的な気持ちでそう言った。


 春鈴がやろうとしている事は、詰まるところそういう事だった。


 二人が少しずつ近づいている場所は犯罪者が収容される牢が集まった、いわば刑務所だ。


 おかしいとは思ったのだ。ちゃんと夜釣りの準備をしていた自分とは違い、姉はえらく軽装だった。仕方ないので許游は竿も二本持ってきていた。


 が、竿は不要だった。


「游、あんたそれ邪魔だからそこらへんの道端に置いておきなさい」


 にべもなくそう言う姉を、すでに許游は憎いとすら思わなくなっていた。ただ、脱獄の幇助ほうじょなどという犯罪に手を染めさせるわけにはいかない。


「俺は行かないからね!やるなら一人でやってくれ!」


 許游は足を止めた。梃子てこでも動かないつもりだった。


 自分が手伝わずに計画が狂えば姉も思いとどまるだろう。


 そう考えた許游だったが、意外にも姉の反応はあっさりとしたものだった。


「……あっそ」


 春鈴はそれだけ言い残し、一人で刑務所へと向かって行く。


(本当に行かないよな?)


 許游はまさかと思ったが、姉の足は止まらない。


 刑務所の前には篝火が焚かれ、この闇夜でも明るくなっている。門番の兵は二人立っていた。


 春鈴はその内の一人に普通に話しかけた。


(まさか……正面突破する気か!?)


 本当にまさかという選択肢だが、姉ならそのまさかをやりうるのだ。しかも厄介なことに、それをやれるだけの武力を持ち合わせている。


 許游は釣り道具を置いて走った。ここは姉を引っ張ってでも止めなければならないところだ。


 が、春鈴は弟が思っているよりも賢かった。許游が春鈴の腕を取ったところで、急に女の声を上げた。


「この人です!この人が私に乱暴してきて……!」


 そう言って体をくねらせながら許游のことを指さした。


「……え?いや、え?」


 許游は門番たちの厳しい視線を浴び、困惑の声を上げた。


 春鈴はそんな許游に腕を引かれたように見せながら、顔を近づけた。そして小声でささやく。


「できるだけ長く逃げてなさいよ」


 それだけ言い残して許游の腕を振り払った。


 そして、それと同時に反対の手で小石を二つ弾く。指弾という牽制用の技で、花琳の道場ではこういったことも教えていた。


 小石は二人の門番の額に当たった。彼らからすると、許游が腕を振って何かを投げてきたようにしか見えなかっただろう。


「この野郎!」


「大人しく捕まる気もねぇってわけだな!」


 怒った門番たちは許游へと一歩踏み出した。


「いや……」


 許游がそれを否定しようとした時、春鈴が許游を押した。


 絶妙な力加減で体の向きも変えられた許游は、ちょうど門番に背を向けて駆け出すような形になった。


 門番二人はそれを見て反射的に許游を追い始める。


 そして許游は許游で、反射的にそれから走って逃げてしまった。


「待てコラァ!」


「え?ええ?えええ!?」


 完全に春鈴が作り出した間だった。


 春鈴は武術において、拍子が間を作り出すことをよく知っている。それを応用して、思い描いた通りの展開を実現したのだ。


 春鈴は闇夜へ駆けていく許游と門番たちを横目に見ながら、素早く門をくぐった。


 警備の兵が門番だけということはないだろう。時間をあければ騒ぎを聞いた他の兵が駆けつけるはずだ。


(中は結構暗いな……)


 春鈴はまずそういう感想を持った。もっと明るくて、侵入者があればすぐ分かるようにしてあると思っていたのだ。


 実はこの建物、普段はこれほど暗いということはない。刑務所なのだから脱獄を予防するため、しっかり灯火を点けて明るくしている。


 しかしちょうど本日付けで、全ての官公庁に向けて、軍需物資を極力節約するよう指示が出されていた。


 薪や油もその一つであり、刑務所でも指示通り灯火を半分以下にしているのだった。


 当然のことながら、闇は侵入者に味方する。


 さらに春鈴にとって幸運なことに、ちょうど今夜から暗くなったので職員たちもその状況に慣れていなかった。


 春鈴は音もなく管理棟へと走り、誰にも見られないまま正面から堂々と侵入した。


 中に入ると真っ直ぐな廊下が続いており、行き当たりで左右に別れている。


 春鈴がその手前まで行った時、左手の方から話し声が聞こえてきた。


 それが耳に入った瞬間、素早く物陰に身を隠した。暗すぎてはっきりは分からないが、どうやら花瓶か何かを置く台があったようだ。ギリギリ春鈴が隠れられるくらいの大きさがあった。


 話し声と足音から、どうやら男二人が歩いてくるらしい。


「あの囚人、『今日はまた一段と暗うございますね』だとよ。あんな深い穴でも外の暗さが分かるんだな」


「囚人はずっと暗いところにいるからな。光に敏感になるんじゃないか?」


「なるほど。でも灯火が減って暗くなってるのが分かったら、脱獄しようって気になるやつが増えないかね?せめて囚人が入ってる穴の周りくらい明るくした方がいいと思うが」


「脱獄?あの深さの穴からか?むしろあの周りはいいだろうってのが上の判断らしいぞ」


「あー、まぁ脱獄はどっちにしろ無理か。だが、それにしても暗すぎだ。もう少し明るくしないと、こっちが穴に落っこちまう」


「確かにそりゃそうだ。危なくない程度には灯火を点けるよう頼もうぜ」


「そうしよう」


 二人の男はそんな事を話しながら、春鈴のそばを通り過ぎていった。


 玄関側へと曲がってくるようなら春鈴にも気づいただろうが、幸い廊下を左から右へと移動していっただけだった。


(……強行突破にならなくて良かった)


 春鈴は小さく安堵の息を吐いた。


 しばらくして、男たちが十分離れたところで再び動き始める。


 向かう先は男たちが来た左手側の廊下だ。会話の内容から、おそらく今しがた囚人のところへ行ってきたようだった。ということは、左の方が囚人のいる所に繋がっていると思われた。


 しばらく進んで廊下を曲がったところで、急に視界が明るくなった。


 廊下の左手側に部屋があったのだが、その部屋にはそれなりの灯火が点いていたからだ。


 どうやら刑務官たちの詰め所か、管理室か何かなのだと思われた。気配や話し声から、部屋の中には数人の刑務官がいるのが分かった。


 廊下を進むにはその部屋の前を通らなければならい。


(普通には通れないわね……)


 春鈴はそう判断した。入り口の戸は開いているし、部屋には窓もあった。物音を立てずに進めたとしても、この明るさでは気づかれてしまう可能性が高い。


(それにしても、きったない部屋ね)


 春鈴は暗がりから部屋を見てそう感想を持った。


 実際には汚いというほどではないのだが、書類や備品が卓の上に散乱していて確かに整頓はなされていない。


(あれかな)


 春鈴は部屋の一隅に目をつけた。そこには書類の山があったのだが、山は遠目にも斜めに傾いているのが分かる。


 懐から小石を取り出し、狙いを定めた。


 そして先ほど門番にしてやったのと同じように、指で弾いて飛ばす。


(よしっ)


 小石は見事に書類の山に当たり、春鈴の思惑通りその山は崩れた。


 バラバラになった書類を見た男たちが苛立ちの声を上げた。


「ああ、もう。誰だよ適当に置いたやつは」


「せっかく日付通り並べてたのに、ぐっちゃじゃねぇか」


「悪い悪い。置いたのは俺だけどさ、でもこの部屋散らかり過ぎなんだよ。置く場所がなくって」


「まぁ確かになぁ。ついでにちょっと整理するか」


 部屋の男たちは集まって書類を拾い始めた。


 その時には春鈴はもう部屋の前を走り去っている。音も立てずに、疾風のように動いた。


 春鈴の起こした気流に頬を撫でられた男が、顔をこすりながらつぶやいた。


「ん?……風か」


 無事に部屋の前を通り過ぎた春鈴はさらに二つ角を曲がった。


 するとその先には小さな扉と、その前の椅子に座る一人の兵がいた。


 扉には錠前がいくつもついており、兵の腰からは鍵の束が下がっている。


(この奥に囚人がいるのね)


 錠前の数と鍵の束を見た春鈴はそう検討をつけた。


 これだけ厳重に向こうからの侵入を防ごうとしているのだから、そう考えて間違いないだろう。


(でもここは……さすがに隠れては通れないわね)


 もし隠れて通ろうと思えば、兵の腰からこっそり鍵を奪った上で、気づかれないまま複数の錠を開けなければならない。妖術でも使えなければ無理だろう。


(どうしようかな……色仕掛け、とか?)


 春鈴は、昔母から聞いた父の救出話を思い出していた。どこまで本当かは分からないが、母は酒と色とを用いて敵地に潜入したらしい。


 しかし、自分は酒も色も知らない。


(まぁ苦手なことをするより、得意なことで何とかした方が良いわよね)


 武術においてもそうだ。いかにして自分に有利な状況を作り出すかが大切だった。


 春鈴はまた小石を取り出し、指で弾いた。今度の狙いは扉だ。


 あまり強くは撃たない。ちょうど扉が手で叩かれた程度の音が鳴った。


「……なんだ?」


 兵は椅子から立ち上がり、扉に向かって立った。それで春鈴へは背を向ける格好になる。


 そして次の瞬間、春鈴は一息にその兵の背後まで跳んだ。


 兵はその気配を感じ、後ろを向こうとした。


 が、その振り向く首の動きに合わせて春鈴の掌底が放たれ、あごに当たって強く脳が揺さぶられた。


 脳震盪を起こした兵は状況もよくわからないまま倒れかけたが、春鈴が後ろから抱きかかえるようにしてそれを支える。


 もちろんただ支えるだけではなく、しっかりと首を締めていた。


 すぐに落ちて意識を失った兵は、自分に何が起こったかすら分かっていなかっただろう。


「よいしょ……っと」


 春鈴は兵を元の椅子に座らせた。


 もし他の兵が来ても、ただ居眠りしているようにしか見えないだろう。本人もそう思うはずだ。


「鍵ちょっと多すぎない?どれがどれよ……」


 不平をつぶやきながら、片っ端から鍵を試して錠前を開けていく。


 そして最後の一つが開くと、静かに扉を開けてその奥へと体を滑りこませて行った。

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