短編 謝妃3

「孫権様は、お母様が恋しいようですよ」


 妃紗麻キーシャオは呉夫人に熱い茶を煎れながら、背中を向けたままでそう言った。


 呉夫人は呉夫人で、活けられた花に目を向けたまま応える。


「ええ?あの齢で?」


「はい、私が二人目の母になってくれたらいいようなことをおっしゃっていました」


「まぁまぁ……あの子にも困ったものね。あれでも天下の覇権を争うような立場にあるっていうのに」


 口ではそう言いながらも、呉夫人の声音はどこか嬉しそうだった。


 妃紗麻は卓に茶の入った椀を二つ置き、向かいに自分も座った。


 呉夫人はこうやって、妃紗麻と茶を飲むのが好きだった。


 妃紗麻の屋敷にふらりと現れては他愛のない話をして、ただ時を過ごすのだ。


 呉夫人は良妻賢母として有名な女性だった。実際、孫策と孫権という傑物を育て、時には政治向きのことについても助言をしている。


 しかし、妃紗麻の前ではあまりそういう話はしなかった。


 それよりも季節の色々なことや、茶や食べ物の話、孫策や孫権がまだほんの小さかった頃の失敗などを話しては満足そうにしていた。


「それで、あなたは何て答えたの?」


「私は呉夫人のように賢いお母様にはなれませんとお答えしました」


「権は『謝妃は賢い』と言ったでしょう?」


「……ふふふ」


 妃紗麻は呉夫人の顔を見つめながら、形の良い目を細めた。


「どうしたの?」


「いいえ、やっぱり私は賢くないなと思って。あんなに大好きな孫権様のことでも、呉夫人のようには分かりませんから」


 恥ずかしげもなくそんなことを言ってくる妃紗麻が、呉夫人には眩しかった。


 しかしそれは眩しくて目が痛くなるような光ではなく、心の芯から暖めてくれるような光なのだった。


「賢さとは関係ないわよ。母親なんて、そんなもの」 


「では、私も孫権様の母になりたいと思います」


「そうしてくれると嬉しいけど、あの子もさすがに母離れしないといけないかな?、とも思ったりするのよね」


「孫権様は、母離れが出来ていらっしゃいませんか」


「出来ていないというか、出来ないというか……それに母離れというか、家族離れかしら?あの子は結構なやんちゃ者だけど、それは兄の策や私がいたから出来ていたことなのよ。無茶をしても、どこか安心して居られる場所があったからで」


 そう言われた妃紗麻は急に黙りこくり、全ての動きを停止させた。


 ここではないどこかへと思考を飛ばし、フワフワとそこを漂っている。


 しばらくして、呉夫人が茶を一杯飲み切る頃になってからようやく帰ってきた。 


「なるほど」


「分かってもらえたかしら」


 妙な間ではあったが、呉夫人もすでに妃紗麻の扱いに慣れている。そして呉夫人はこんな妃紗麻との付き合いが楽しかった。


 妃紗麻は笑みを含んだ義母の椀を取り、二杯目を煎れるために立ち上がった。


 呉夫人はその背中へ声を投げた。


「あの子のこと、よろしくね」


 言われた妃紗麻は、普段あまりしないほどの素早い動作で呉夫人を振り返った。


「なんだか、遺言のように聞こえました」


 呉夫人は急にそんな事を言い出した妃紗麻に驚きながらも、妙に納得している自分がいることにも気がついた。


「……あなたは本当にすごいわね。そう思ってもらって構わないわよ。私はもう、長くはありませんから」


「そんな」


「自分で分かるのよ。それに、権も何となくそんな気がしてるんじゃないかしら。だからあなたにあんなことを言ったのよ」


「でも……よろしく頼まれても、私にはどうしていいか」


「別にどうしようとか考えなくてもいいわ。あなたは、あなたのしたい事をなさい。それがきっとあの子のためにもなる」


 そう言い遺して亡くなった義母の顔は、妃紗麻にとって生涯忘れられないものになった。



***************



 孫権は己の家に入ろうとしていたが、それが出来なかった。


 扉に内から錠前が下りているのだ。入ろうと思えば中の人間に開けてもらうか、蹴破るしかない。


 孫権は閉口して何度も扉を叩いた。


 が、中からは返事もない。


謝妃シャキ、謝妃、いい加減に機嫌を直してくれないか」


 しかしいくら声をかけても梨の礫で、先ほどからずっと一方的に孫権が喋っていた。


 中にいるのは分かっているのだ。先ほどからずっと、何度も咳をしているのが聞こえてくる。妃紗麻キーシャオの咳だった。


 孫権は次第に腹が立ってきた。


 なぜ自分の家なのに、自分が入れないのだ。


「おい、謝妃がその気なら私にも考えがあるぞ。もうここには来ない。永遠に謝妃には会わない。謝妃の方が私に会おうとしないのだからな」


 そう言うと、突然中から返事が帰ってきた。


 しかし、それは孫権が期待していた内容とは違っていた。


「ええ、それがよろしいかと思います。もう二度と、私には会わないでくださいませ」


 おや、と孫権は思った。


 普通ならより腹を立ててよさそうな返事だが、妃紗麻キーシャオの言葉に強い違和感を覚えた。


「謝妃……お前は本当に、私が徐琨ジョコンの娘をめとろうとしているから腹を立てているのか?」


 徐琨というのは、父である孫堅の代からの功臣だ。孫堅の部下の中では最も高い官位を受けた将軍で、孫策、孫権の代でも功績を残した。


 しかし、父孫堅の仇である黄祖コウソを攻めた時に流矢に当たって死んでしまった。


 孫権はその長年の功績に応えるため、というか、長年の功績には報いるということを内外に示すため、その娘を娶って一族の地位を保証しようとしていた。


 この時代、高貴な人間や裕福な人間は妻を何人も持つのが普通だ。むしろ跡取りを確保して家とその郎党を保護するために、それは推奨されるべきことでもあった。


 が、やはり人には嫉妬心というものがある。だから妃紗麻は機嫌を悪くして、孫権を締め出しているのだと思った。


(しかし、違うな)


 先ほどの一言で、孫権には疑念が湧いていた。ただの嫉妬心ではないように思えたのだ。


 相変わらず妃紗麻が何を考えているかはよく分からなかったが、それでも言動に違和感を感じる程度には理解できてきた。


 それくらい、妃紗麻を愛しているのだ。


「なぁ、謝妃よ。答えてくれ。私が新たに妻を持とうとするから機嫌を悪くしているというのは、嘘だな?」


「…………」


 妃紗麻はすぐに答えなかった。


 たっぷりと沈黙し、それでも孫権が答えを待つ様子であることを察すると、ようやく口を開いた。


「……私にも嫉妬心はありますし、それだけではありません。孫権様は徐琨様の娘を正妻にして、私に目下の妻として仕えるようお求めになりました。それは私にとって、耐え難いことです」


 孫権は確かにそれを求めた。


 というのも、血筋や一族の功績、力、内外への示しなどを考えれば、徐琨の娘の方が圧倒的に上になるからだ。


 ただ、そもそもで考えれば妃紗麻がそれに不満を持つのはおかしい。


 妃紗麻は確かに謝氏という豪族の娘ではあるが、逆に言えば、ただの一地方豪族の娘だ。父の謝煚シャケイが孫家に仕えていたわけでもない。


 孫権のように広大な地域を治める者の妻になって、ずっと一番上にいられる筋目の女ではそもそもないのだ。


 加えて、元々妃紗麻は次男坊である孫権のもとに喜んで嫁いできている。その立場が低くなるからと言って、今さら不満を言うのもおかしい。


 孫権はそれを指摘した上で、あらためて問うた。


「謝妃、やはり私にはお前が嘘をついているようにしか思えない」


 しかし、妃紗麻は孫権の言葉をきっぱりと否定した。


「いいえ。私は確かに孫権様から目下の妻として仕えるよう言われて、強い不満を感じました。それは本当です」


「それは本当、ということは、嫉妬心で私を締め出しているというのは嘘ということだな」


「あっ」


 妃紗麻は、いたずらがバレた子供のような声を出した。


 孫権はそれをこの上もなく愛おしく感じながら、妃紗麻が答えてくれそうなことから尋ねてみた。


「なぜ、目下の妻として仕えるのが嫌だと思った?私の知る謝妃は、そんな女ではない」


「……正直に申し上げますと、孫権様が新たに妻を持つことは不満ではありません。私との間には子もできておりませんし、孫家のためにも複数の妻を持つべきだと思います」


「なら、なぜ?」


「目下になって力を失うということは、孫権様を守る力を失うということです。少なくとも奥にあっては、孫権様を守りたいのです。私は水母くらげとして、孫権様の水に漂い、清濁をこの身に吸い込ませ、少しでもご負担を減らしたい……」


 そこまで言った妃紗麻は、急に咳き込み始めた。


 咳は、なかなか止まらない。


 孫権は咳が治まるのを待ってから話を再開した。


「謝妃の気持ちは嬉しい。お前は実際に、これまでも私のことを守ってくれていた。癒やしでいてくれていた。そしてそれはきっと、正妻でなくなってからもそうであろうと思う。だから……」


「もういいのです!!いいからもう、私には会いに来ないでください!!」


 突然の激しい言葉に孫権は驚いた。恐怖したと言ってもいい。


 虎を前にしてすら恐怖心を覚えない男が、聞いたこともない妻の大声を恐ろしいと思った。


「……謝妃?」


「とにかくもう会いに来ないで!!私はこれからも新しい妻の方に目下として仕えることはありません!!そんな私はあなたに愛想をつかされて、寵愛を失うのです!!それでいいじゃ……」


 妃紗麻の叫びはそこで途切れた。急に咳が出て、最後まで言えなかったのだ。


 今度の咳はかなり激しく、かなり長い時間止まらなかった。


 咳と咳の合間に、苦しげに息を吸う高い音がする。それが孫権の胸に一本の刃を刺した。


 孫権が医師を呼ぼうかと思った頃、ようやく咳は治まった。


 孫権は妃紗麻の高い呼吸音を聞きながら、先ほどとは別種の恐怖心を抱きつつ尋ねた。


「肺病か」


 肺病にも色々あるが、この時の孫権が言ったのは現代で言うところの結核だ。


 強い伝染性を持ち、抗生剤のないこの時代には致死的になりうる。


 妃紗麻は肯定も否定もせず、別のことを言った。


「私も孫権様のことが嫌いになりました。ですから、もう二度とここには……」


「謝妃!!」


 今度は孫権の方が大きな声を出した。


「頼むから、本当のことを言ってくれ!!たとえ肺病だったから、なんだ!!私は体が強い!!お前を抱いたとて、そんなものは伝染うつらん!!なんなら今から扉を蹴破ってお前を……」


「いけません!!」


 妃紗麻もまた大きな声を出した。それを続けさせないために、孫権はいったん口を閉じることにした。


 それで妃紗麻は声を抑えて先を続けることができた。


「……病気に絶対などということはありません。どうか、ご自重ください。それに孫権様に伝染らなくとも私と濃く接触すれば、それを知った他の者から避けられてしまいます。多くの人間をまとめなければならない孫権様が取っていい行動ではありません」


「しかし、そんなものは……」


「そういうものなのです。悲しいことですが。ですから、ご自重ください」


 孫権は悲しかった。だから、妃紗麻にすがるような声を出した。


「頼むから……頼むから本当のことを言ってくれないだろうか……そうだ!もし私が今後謝妃と濃い接触をしないと約束すれば、本当のことを言ってくれるか?」


「本当のこと?」


「ああ。会えずとも、文をたくさん書こう。それに、こうやって壁を隔てて話すのは別に構わないわけだ。私はお忍びでよく狩りにも出かけるし、その時にこっそり会いに来れば家臣たちにも広まらないだろう。それなら今後の濃い接触は避けると約束できる」


 妃紗麻は壁の向こうで首を傾げた。


 わざわざそんな約束をしてまで真実を説明させずとも、話の流れで自分が結核であることは伝わっているはずだ。


 ただ、説明だけで孫権への伝染を避けられるなら約束してもらわない理由はなかった。


「血痰が出てきて、医師から間違いなく肺病だと言われました。伝染るものだから、人との濃い接触を避けるように、と」


 孫権は大きくかぶりを振った。


「違う。そうではない」


「え?」


「私が言いたかったのは、謝妃が先ほど言った『孫権様のことが嫌いになりました』という、あの言葉だ。それについて、本当のことを教えてくれ」


 こんな状況だが、妃紗麻は思わず笑ってしまった。


 これまでの人生では、自分が他人の思いもよらぬことを言って笑わせてしまうことが多かった。しかし、どうやら今は逆の立場になっているらしい。


 こんな子供っぽいところのある孫権が、妃紗麻はたまらなく好きだった。


(……そうか、この人はこんなにも子供なんだ。だから私がやろうとしていた母離れは、無駄だった)


 妃紗麻はそれに気がついた。


 先ほどまで突き放していたのは、なにも伝染を避けるためだけではない。妃紗麻は孫権の母になったつもりで、自分でも無理をして母離れをさせようとしていたのだ。


 孫権は自分を失えば、群雄として立っていられる自信がないと言っていた。


 だから自分が死ぬ前に突き放し、母離れをさせて、一人で立たせなければと思っていたのだ。


(でも、こんなにも子供の人を母離れさせるのなんて無理だ。出来ないことをさせようとしても苦しむだけで、良いことなんて一つもない。それよりも呉夫人から言われた通り、私は私のしたい事をすればいい)


 妃紗麻は賢い呉夫人の顔を思い浮かべながら、自分は今そうすべきなのだと理解した。


(伝染を避けるために、もう触れることはできない。それならせめて、自分の気持ちを言葉にしてこの愛を伝えたい。それが心のどこかに残っていれば、こんなにも子供な孫権様が立っているための力になるはずだから……)


 だから妃紗麻は、自分の望む通りに、そして孫権の望む通りに、本当のことを言うことにした。


「本当のことを申し上げますと、私は今すぐにこの扉を開けて孫権様に抱きつきたいと思っています」


「謝妃……」


「本当はその匂いを思う存分嗅いで、一緒に湯浴みして、湯船でじゃれ合いたいと思っています」


「ああ……」


「本当はこれからもずっと、ずっと孫権様のお側にいて、たくさん、たくさん触れ合いたいと思っています」


 やりたいことを挙げれば切りはなかった。しかし、そのどれもがもはや叶わぬことなのだ。


 そう思うと、妃紗麻の瞳からは洪水のような涙があふれてきた。


「孫権様……お慕い……申し上げています……」


 最後の言葉は、涙に震えてはっきりと出なかった。


 しかし、孫権にはそれで十分だった。


 そして孫権の理性のせきを切るのにも十分だった。


 孫権は扉の前に立つと、それを思い切り蹴破った。


 その音に驚いて目を丸くする妃紗麻の前に、胸を張って堂々と立つ。


 孫権も泣いていたが、もはや涙を隠そうとはしなかった。矜持などが下らなくなるほどの愛おしさが、その胸の奥からあふれていたからだ。


 孫権は妃紗麻に手を伸ばし、切ないほどに熱い、最後の抱擁を交わした。


「嘘つき」


 妃紗麻も熱く抱き返しながら、そうつぶやいて愛しい人を責めた。

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