短編 謝妃2
「なんで兄の孫策じゃなくて、弟の孫権なんだよ」
謝倹は妹の
言っても仕方がないことだとは分かっている。しかし、それでも口にせずにはいられなかった。
「孫家の当主の嫁になるなら分かるがよ。弟ってのは納得できねぇ」
しかも、今日はその孫権の所へ妃紗麻を送り届けるために同行しているのだった。
自分が不満に思っていることの実行を手伝いさせられているのだから、愚痴の一つもこぼしたくなる。
「妃紗麻、いっそのこと嫌われちまえ」
妹は、揚州一の美人なのだ。きっともっと良い縁談がある。
謝倹は妹のためにそう思ったのだが、当の妃紗麻は感情の読めない表情で虚空に視線を漂わせているだけだった。
(相変わらず何を考えてんのか……)
別に兄の言うことを無視しているわけではないのだが、今のように半分悪態で返答を要しない言葉にはこんな反応だったりする。
かと思えば、普通の人間が考えもしない反応をすることもあり、ただぼぉっと他のことを考えていたりもする。
(もしかしたら、孫権もこういう女は嫌かもしれないしな)
謝倹は期待を込めてそう思った。
今日の顔見せで孫権が否と言えば、破断になるのだ。まだそういった段階だった。
妃紗麻のように何を考えているのか分からないというのは、ある意味で共に居るのが楽だ。少なくとも相手の悪意に気づくことがない。
ただ、女の考えていることも含めて管理したいというような男もいるだろう。
謝倹のようなサバサバした男にとってそれは悪趣味にも感じられるのだが、まだ見ぬ孫権がどのような人間かなど分かったものではなかった。
(まぁ勇猛な孫策に比べたら大人しい男だって話だし、意外と
謝倹はそんなことを思いながら待ち合わせ場所の屋敷へ着いたのだが、初対面の孫権に度肝を抜かれた。
孫権が、虎を背負って現れたからだ。
比喩表現ではない。孫権は本当に虎を背中に乗せていた。
「おぉ、もう来てしまったか。こんな姿で申し訳ない。すぐに片付けさせる」
孫権が体を傾けると、脱力した虎がドサリと地面に落ちた。虎は死んでいるようだった。
「行きがけに虎を見つけてな。私は狩りが大好きだから、つい追い詰めて仕留めてしまった」
孫権の狩り好きは史書にもよく書かれている。しかも虎のような猛獣を自分の手で仕留めることを好んだというのだから、青瓢箪とはほど遠い男だ。
謝倹をはじめ、妃紗麻側の付き人たちは突然の虎に唖然としていたが、孫権は子供のような屈託のない笑顔を輝かせていた。
「せっかく母上が用意してくれた衣装が獣臭くなってしまった。着替えて来るからもう少し……」
と、孫権がそこまで言ったところで、妃紗麻が進み出てきた。
他の人間たちと違ってただ一人表情を動かさず、ごく自然な動作で地に伏した虎へと歩み寄っていく。
そしてそのそばの孫権に挨拶もなく、しゃがんで虎の体を撫でた。
「暖かい……」
妃紗麻は、まるでそれがとても大切なことであるかのようにつぶやいた。
孫権は自分もしゃがんで、同じように虎を撫でた。そして自慢げな顔を妃紗麻に向ける。
「そうだろう、つい先ほど仕留めたばかりだからな。それに、死んだばかりの毛並みは時間が経ってからとは少し違う。どうだ、この野性味あふれる触り心地……」
と、そこで孫権の言葉は途切れた。
妃紗麻の瞳から、一筋の涙が流れていたからだ。
まるで花から朝露がこぼれるように、光を浴びた水の玉が小さくきらめいていた。
「……どうした?」
孫権の問いに、妃紗麻は虎を向いたまま答えた。
「この気高い生き物が、死んでしまったので」
孫権は困った顔になった。
この男は虎の爪すら恐れはしないが、女の涙はどうしていいか分からない。
だから弁明のようなことを言った。
「しかし、虎は家畜を襲う。人を襲うこともある。狩れるものなら、狩った方が良い生き物だ」
妃紗麻は首を縦に振った。その拍子に、また涙がこぼれた。
「ええ、あなたが虎を狩るのは良いことだと思います。近隣の者も喜びましょう。それに、この皮も敷物などになって有効活用されることでしょう。虎を狩れる人というのはそういらっしゃいませんし、あなたはこれからも虎を狩るべきだと思います」
「なら、なぜ泣く」
妃紗麻は、孫権の質問の意味が分からないというように、不思議そうな顔をした。
「だって、生き物が死ぬことは悲しいことでしょう?」
そう言いながら初めての孫権の顔を見て、はたと表情を変えた。
虎に向けていた顔はきれいに消え去り、代わりに美しい石でも見つけた子供のような顔をした。
「あなたの瞳は、変わった色をしていらっしゃいますね。なんだが青みがかっていて、綺麗……」
妃紗麻は虎を撫でていた手を孫権に伸ばし、その横顔に添えた。
孫権はその手に自分の手を添え、それから尋ねた。
「名は?」
縁談の顔見せに来た娘に対して、ひどい質問といえばひどい質問だ。
しかし孫権は相手の娘の名すら覚えていなかった。
妻を
なんにせよ失礼な質問ではあったが、妃紗麻は妃紗麻で、まるで当たり前の質問であるかのような顔をして答えた。
「謝氏より参りました、妃紗麻と申します」
「そうか。ならば、今日から私はお前のことを
言われた妃紗麻は、おそらくこの瞬間の地球上で最も美しいと思われる笑顔を見せてくれた。
***************
「おかえりなさいませ、あなた」
と、言うが早いか、
勢いよくそうして来たものだから、鍛えている孫権でも思わず一歩よろけてしまった。
「おいおい、びっくりするだろう」
孫権は抱き止めた妃紗麻をしっかり立たせようとして押したが、妃紗麻は孫権の胸に顔をうずめて離れようとしない。
その服に染み付いた匂いを思いっきり鼻腔に吸い込んで、満足そうに笑っている。
「なんだかくすぐったいぞ」
「だって、今日は狩りをされて来たのでしょう?」
「獣臭いだろう」
「ええ、とっても」
そう言いながら、妃紗麻は相変わらず服の匂いを嗅ぎ続けている。
(本当に、何なんだこの娘は)
孫権は苦笑しながらあらためてそう思った。
孫権が狩りから帰ってきた日には、必ず匂いを嗅ぎたがる。そして臭くはないかと聞くと、臭いと答えるのだ。
別に獣の匂いが好きというわけでもないし、相変わらず動物が死んでいれば、それが害獣であっても悲しむ。
しかし孫権が狩りの日にはこうなのだ。考えていることが、まるで分からなかった。
「とりあえず湯浴みをしてくる」
「はい。お背中をお流ししますね」
妃紗麻は抱きついたまま、引っ張るようにして浴場まで行った。
そして孫権の服を脱がせた後、当たり前のように自分も服をすべて脱ぐ。
背中を流すというよりも、自分も一緒に湯浴みするつもりなのだ。
「
「その方が楽しいでしょう?」
まるで子供が
しかし、たまに困ることもある。
人前でも全く悪気なくくっついたりするものだから、それについて小言を言ってくる家臣もいた。
「まぁ、二人っきりの時にはいいのだがな」
「何がです?」
「謝妃と私の距離だよ。人前でもこんな風にしていると、やはり注意してくる人間もいる」
「そうですか。でも皆こうなら、天下も泰平だと思いますけど」
孫権は苦笑しつつも、妃紗麻の感覚の鋭さに舌を巻く思いがした。
(確かに人が人の目を気にせず幸せを謳歌できるような世の中であれば、天下泰平間違いなしだな)
そういった真理に自然と気付かされることも、孫権が妃紗麻と居たいと思う理由の一つだった。
「不快な人もいらっしゃるのでしょうか?」
「そうだな。儒教で教える道徳観、貞操観というのはそういうものだ。まぁ単純なやっかみも多くあるだろうが」
「やっかみ……それは分かります」
「分かるか」
「ええ。孫権様のような素敵な瞳をした方とは、こんな風に近づきたいでしょうからね」
妃紗麻は孫権の顔を両手で挟んで、鼻が触れるほどに顔を近づけた。
瞳を覗き込むにしても、やられる側が恥ずかしくなるような仕方だった。
孫権は思わず顔を赤くし、そんな自分に動揺した。
「いや、やっかまれているのは私の方だよ」
「孫権様が?どうしてです?」
「もういい、背中を流してくれ」
孫権は顔色を悟られまいと後ろを向いたが、耳まで赤くなっていく自分を止められはしなかった。
しかし妃紗麻はそんなことは指摘せず、湯をかけながら別のことを口にした。
「孫権様はもうすっかり強大な群雄の一人でいらっしゃいますからね。やっかみは多いでしょう」
この時点で、孫権はこの乱世における群雄のうち五本の指に入るほどになっている。
曹操、
兄の孫策は、急死した。
まさに小覇王と呼ぶに相応しい速度で躍進した孫策だったが、その分だけ恨みも多く受けていた。結果として、そういう者たちに襲われて命を落としたのだ。
兄は死ぬ間際、弟を後継者として指名した。
『戦や天下の争いにおいて俺はお前よりも上だが、才人を上手く使い内を保つことについてはお前の方が上だ』
というようなことを言い
孫権はその遺命に従い、強大な勢力を率いて奮闘した。
ただ、それは孫権にとって辛いことだった。
「もう……やっかみとかどうとか、そういう段階ではないな。人の上に立つということは、多くのものを自分の器に
「器に容れていく……」
「そうだ。以前、私がまだ赤子の頃に、父が著名な人物鑑定家の所へ連れて行ったことがあったそうだ。その人から私の本質は『水』だと言われたらしい。水は清濁あわせ
「まあ、随分と非道いことをおっしゃる方ですね」
孫権は、妃紗麻が言ったことに驚いた。
これまでにもこの話は多くの人にしているのだが、そんな反応をされたのは初めてだった。
「……非道いこと、だと思うか」
「ええ、それはそうでしょう。いくら水が清濁容れられると言っても、濁を容れれば水は汚れます。また清を容れても、他人の高潔さが身の内にあるというのは、人が生きていくのにとても辛いことでしょう」
孫権はその言葉を聞き、急に目から涙があふれてきた。
これまでずっと抱えてきた辛さを、誰にも吐き出せない苦しさを、妃紗麻は自然に気づいてくれた。
しかし孫権という男の矜持は、その涙を妻に見せることを許さなかった。
前を向いたまま妃紗麻から湯桶を取り、頭から湯をかぶった。何度も何度もそうしてから、顔を強くこすった。
妃紗麻は別に何も言わずにそれを見ていたが、孫権が湯桶を置くとそれを取り返した。
そして孫権がそうしていたように、自分の頭に湯をかけた。そしてその次に、孫権の頭にも湯をかけた。
交互にそれを繰り返し、お互いびしょ濡れの湯気まみれになってから、孫権を後ろから抱きしめた。
肌と肌を擦り合わせ、背中に頬を押し付けながらつぶやいた。
「そういえば……私も著名な人物鑑定家の方から評をいただいたことがあります」
「ほう……何と言われた?」
「私の本質は、
「水母?それはまた、よく分からないものだな」
「そうなんです。私もそのくらいにしか思っていなかったんですが、水母で良かったかもしれません」
「なぜだ?」
「だって孫権様が水なら、水母はきっと相性が良いと思うんです。それに水母なら清も濁もありませんから、中に容れてても辛くはないでしょう?」
「ハハハ、確かにそうだな。それに水母は水の母とも書く。謝妃は、私の第二の母になってくれそうだ」
「それもいいですけど……私、呉夫人のような賢いお母様にはなれませんよ?」
孫権は、体に回された妃紗麻の手を握った。
「いいや、謝妃は賢いよ。まぁ、今でも何を考えているかはよく分からないがな」
孫権がそう言った時、妃紗麻が咳をした。
その咳はなかなか止まらず、孫権は妃紗麻の背中をさすってやった。それからその華奢な体を抱え上げ、湯船の中へと浸ける。
「体が冷えたのだろう」
「ごめんなさい、あまり強い体じゃなくて」
妃紗麻はよく風邪を引いていた。
今のように、なかなか咳が止まらなくなることが多いのだ。
「そんなことは謝ることではない。だが、無理はしないでくれよ。今謝妃を失ったら、私は群雄として立っていられる自信がない」
孫権はそう言ってしまってから、己の矜持のためにごまかしの言葉を必死に探した。
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