短編 劉禅1

時は遡り、許靖が劉備陣営に加えられてから数日が経った頃。



(私は……なぜここにいるのだろう?)


 劉禅リュウゼンは強い違和感を抱きながら、宴の席に鎮座していた。


 周囲では多くの人間が飲み食いしながら歓談している。その喧騒をどこか遠くに聞きつつ、劉禅はもう一度自問した。


(なぜ、私はここに)


 なぜも何も、実は理由ははっきりしている。


 この宴は益州えきしゅうを陥とした劉備の家臣と、新たに劉備陣営に加わった益州旧臣との交流のために開かれていた。新旧家臣団の顔見せと関係構築は、今後の組織運営を考えればかなり重要な行事と言えるだろう。


(そして、私はその組織の長たる劉備の息子だ)


 さらに言えば、劉禅は劉備の子供たちの中でも後継者と目されている。父からも直接その旨を伝えられていた。


 だからこういった宴にも顔を出して、家臣との繋がりを強固なものにすることも自分の役目なのだと分かっている。それは分かっているのだが。


(やはり大人の宴はつまらないな)


 この時の劉禅はまだ数えで八歳ほどだ。齢に似つかわしくないため息をつきながらそう思った。


 家臣たちからすると、こんな子供相手でもやはり将来的なことを考えれば無視してはおけない。入れ代わり立ち代わり大人たちが挨拶に来ては、他愛もない言葉をかけて去っていった。


 しかしそんな事をされても、この頃の子供にとってはつまらない事この上ない。


(……いや、違う。私が今感じている思いは、大人の宴がつまらないからじゃない)


 劉禅は幼いながらも、それを敏感に感じ取っていた。


 正直なところ、この場にはいたくないと思う。ただしそれは宴がつまらないからではなく、自分という存在がこの場に似つかわしくないと感じているからだ。


(ここにいる大人たちは皆、どこか光っているように思う)


 不思議とそれを感じるのだ。


 実際、この場にいるのは国を動かしていくほどの力と気概のある者たちだ。人として光を放っていると感じる劉禅の感性は、あながち間違いではない。


(そして、私にはその光がない)


 劉禅は子供ながらにそれを感じていた。


 自分はとにかく人間が小さくできているのだ。


 例えば他の子供たちが憧れるような衛青エイセイ霍去病カクキョヘイ(異民族撃退などで功のあった漢帝国の武将)といった英雄には欠片も惹かれない。孔子や孟子といった学問の偉人にも惹かれることはない。


 それよりも、例えば春の日の暖かさや、木漏れ日の美しさなどの方がよほど心惹かれる。さらに言えば、その中で自分の大切な人が笑っていてくれればそれ以上に嬉しいことなどなかった。


 子供らしくないといえば子供らしくないが、それがこの劉禅という少年だった。


(しかし父上の良き息子であるためには、光を放つ人間でないと)


 劉禅の父、劉備は間違いなくこの時代の英傑の一人だ。


 周囲の人間は誰もがそう言うし、劉禅自身もそう思う。父は多くの人を従え、そして慕われている。


 劉禅は父の期待に応えたい。だから光を放つ人間であらねばならなかった。


 が、その光はどうやら望んだからといって放てるものではないらしい。


 望んだところで劉禅はあくまで凡庸で、子供心にそれを感じているからこの場に居づらいのだった。


かわやへ……」


 劉禅は従者にポツリとつぶやき、それから立ち上がった。


 別に用を足したいとは思わなかったが、それを口実にこの場から離れたいと思った。眩しいばかりの光を放つ人間たちの中にいると、父の期待に応えられない自分がいたたまれなくなるのだ。


『凡庸で、光るものがない』


(父上も、あの諸葛亮ショカツリョウでさえそう言っていたのだから)


 劉禅はそれを思い出して、また暗い気持ちになった。


 まだ劉禅がもう少し小さかった頃、自分の前で二人がそう話していたのだ。


(『凡庸で、光るものがない』か……)


 大人たちは子供がまだ理解できないと思い、目の前でよくそんな話もしてしまう。しかし多くの場合、子供には分かってしまうものなのだ。


 単語が難しいとかそういうことは関係ない。子供の感性は時にそういった表層を凌駕して、言葉の本質を理解してしまう。


 劉禅は灯火に照らされた屋外の渡り廊下を歩いた。その先に厠がある。


 渡り廊下は美しい庭園の中を通っているが、今は夜中なので薄ぼんやりとしかその様子は見えない。


「許靖殿、劉禅様をご覧になりましたか?」


 ふと、そんな声が聞こえてきて劉禅は足を止めた。声は庭園の暗がりから聞こえてくる。


 目を凝らして見ると、どうやら池のそばの石に大人三人が座り込んで話をしているようだった。


(諸葛亮の声だ)


 劉禅にはそれがすぐに分かった。諸葛亮は劉備家臣の中でも、劉禅が特に大好きな人物だった。優しく、頭が良く、常に穏やかだ。


 劉禅は足を止めて耳を澄ました。自分の名前が出てきていたし、何を話しているのか気になった。


「はい、見ました」


 そう答えた声が、おそらく許靖という人物なのだろう。


 そして最後の一人の声の主も、劉禅にはすぐに分かった。


「それで、禅の瞳には何が見えた?」


 自分のことを『禅』と呼ぶその人の声は、聞き間違えようがない。尊敬する父、劉備の声だった。


 庭園の池のそばで、諸葛亮と許靖、そして劉備が自分の話をしているようだ。


道端みちばたに咲く、名も無き小さな花が見えました」


 許靖はそう答えた。


(花?何のことだろう?私の瞳はただ黒いだけで、花なんて咲いていないけど……)


 劉禅には意味が分からなかったが、首を傾げながらも耳を澄まし続けた。


 諸葛亮と劉備は許靖の回答を聞いて、しばらく黙っていた。息を呑んでいるようにも感じられた。


 少しして、諸葛亮が口を開いた。


「道端に咲く、名も無き小さな花……それは、どのように捉えればいいでしょうか?」


 その質問に許靖が答える前に、劉備が口を挟んだ。


「その前に、『名も無き花』などというものがあるだろうか?どんな花でも大抵は名前がついているものだ。本当は何かの花で、その花の性質がちゃんとあるのではないか?」


 許靖は暗がりの中で首を横に振った。


「いえ、『名も無き花』としか言いようがないのです。というのも、その花は目を離せばどんな形だったか、どんな色だったかという事をふと忘れてしまう花なのです」


「そんな花が……」


「実在はしないでしょう。ですが、るといえばります。私たちが道を歩いていて、自然に目に入っている花がそれです」


「……なるほど。確かに道端に小さな花が咲いていても、目には入るが記憶には残らないことが多いな。禅がそれだというのか?」


「はい」


 許靖のはっきりした肯定に、劉備と諸葛亮はまた黙った。


 許靖もそれ以上、自分からは何も言わなかった。二人の反応を見ているようでもある。


 やがて諸葛亮が冷静な声でしゃべり始めた。


「許靖殿の見る瞳の奥の「天地」には、その者の本質が映る。そういう不思議なことを、すでに私も信じています。ですがそうなると、劉禅様の本質は居ても居なくても変わらない、世界に何の影響も及ぼさない小さな存在、ということになりますね。それこそ凡庸も凡庸、どこにでもあるような、取るに足らないもの、ということになってしまいます」


 劉禅は諸葛亮の言葉を聞いて、足元の大地が急に大きく揺れたような気がした。しかし何とかその場に踏みとどまる。


 自分は道端に咲く、名も無き小さな花なのか。


 居ても居なくて世界は何も変わらない。凡庸で、どこにでもある。


 子供心に、それがどういう事なのかは分かった。そして、それが尊敬する父にとってどういう意味を持つのかも、子供心に理解できてしまったのだ。


 果たして劉備は、息子の最も恐れている言葉を口にした。


「禅め、ただの民の子として生まれてくれば良かったものを……」


 劉禅の足元の大地が再び大きく揺れた。


 今度は立っていられなかった。後ろにぐらりと体を傾けて、倒れそうになった。


 足を一歩下げて、それを耐える。そしてその勢いのまま、劉禅は振り返って渡り廊下を走り出した。


(逃げたい……父上の子であることから……)


 劉禅はそう思ったものの、やはり父のことは尊敬しているのだ。大好きなのだ。だから期待に答えたいのだ。


 健気な少年は目に涙を浮かべながらも役目を果たそうと、大人たちの宴の席へと戻っていった。



****************



(道端に咲く、名も無き小さな花)


 劉禅はそれを思い出しながら、道端に咲く花に目を向けた。


(自分はこれだ。こういう、ちっぽけな存在だ)


 歩みを止めず、後ろに流れていく花を横目に見続けた。そして、それは視界が切れるとともにいなくなる。


(ごめんなさい、父上……こんな取るに足らない人間で、ごめんなさい)


 劉禅はただ父のことを思った。


 自分が道端に咲く、小さな花であること自体は構わない。劉禅は他の人間と違って英雄などには憧れないから、そういった存在であること自体は気にならないのだ。


 ただ、父の期待には応えたいと思う。だから劉禅には自分の凡庸さが辛かった。


 劉禅は自分の前に続いている道を眺めた。


 ここは州で管理しているという公営の桃園だ。州の施設に隣接しており、警備の兵もいるから劉禅一人でも歩かせてもらえた。


 益州は比較的穏便に降伏・終戦が進められたとはいえ、それでも侵略戦争の直後ではある。そして劉禅は侵略してきた劉備の後継者だ。常に警護の兵がついていたので、こうやって一人になれるのは久しぶりだった。


 ただし、一人になったからといって気は全く晴れなかった。桃の木の合間にぽつりぽつりと咲く小さな花たちを見て、どれが自分だろうかと考えるとまた気が滅入ってしまう。


 暗い顔でうつむきながら桃園を散策していると、突然声をかけられた。


「君、なんでこんな所に子供がいるんだい?」


 視線を上げると、そこにはやけに綺麗な顔をした青年が立っていた。


 こちらに明るい笑顔を向けている。劉禅はその笑顔に太陽の幻影を見た。


 自分は花だからか、太陽の光を浴びると元気になる気がする。そして、この青年からもその太陽のような力を感じるのだった。


「ここは公営の桃園だけど、迷い込んでしまったのかな?だったら外まで案内するよ」


 青年は手を差し伸べながらそう申し出た。


 劉禅は案内してもらう必要などなかったはずなのだが、その青年の笑顔に思わず手を握ってしまった。


「ここには美味しい桃がたくさんなっているけど、勝手に取ったら怒られてしまうから気をつけてね」


「食べたらどうなりますか?」


「この腕を……ちょん切られてしまうかもしれないね!」


 青年は冗談めかして笑いながら、劉禅の脇をくすぐった。


 劉禅は高い声を出して身をよじった。そしてふと、自分が笑ったのは久しぶりであることに気がついた。


 青年はそんな劉禅の手を引きつつ、自己紹介をした。


「私の名は陳祗チンシという。君は?」


「劉禅と申します」


「りゅ……!?し、失礼いたしました。劉禅様とはつゆ知らず、ご無礼をしてしまいました」


 陳祗は慌てて手を離し、拝礼した。


 劉禅はまだ子供とはいえ、将来この地の支配者になる人間だ。対して陳祗は大叔父の付き添いでこの場に来ているだけの一般人だった。


 こうやってかしこまるのが本来の立場ではある。


 が、その態度は劉禅をひどくがっかりさせた。


(この太陽のような人には、明るく笑っていて欲しかったのに)


 今は特に劉禅が傷ついている時だからこそ、自分を陽の光で照らして欲しいと思った。


「そのようにかしこまらないで下さい。敬語だって、使わないで欲しいです」


「いえ、しかし……そいういうわけにも」


「お願いします……」


 そう頼む劉禅の語尾は、今にも消え入りそうだった。


(この子は今……とても傷ついている)


 陳祗には直感的にそれが分かった。


 陳祗には従妹が多い。だから幼い子供の心の機微に敏感だった。


(理由は分からないが、寄り添ってあげられる大人がいなければ)


 そう思った陳祗はまた表情を崩し、笑いかけてやった。


「では……こうやって二人だけの時には、私は君をただの友人だと思おう。他に人がいる時にそうしたら私は怒られてしまうから、二人っきりの時だけなら」


 劉禅は、再び見ることのできた陳祗の笑顔に心が暖かくなった。


「それで結構です。陳祗殿はここによくいらっしゃるのですか?」


「しばらくは五日おきに来る予定だよ。私の大叔父と劉備様、諸葛亮様がその間隔でお話することになっている」


「では、五日ごとにここに来れば会えますか?」


「会えるが……もし今後もこうやって会って話をするのなら、私からもお願いがある」


「なんでしょう?」


「劉禅も私へは敬語を使わないで欲しい。殿、も不要だ。だって二人きりで会う時の私たちは、ただの友人同士なのだからね」


 将来の寵臣になる美青年の言葉に劉禅は心をうわつかせ、思わず頬を紅くしてしまった。



****************



「今のは益州では有名な曲なの?」


 劉禅は笛を吹いてくれた陳祗チンシにそう尋ねた。


 二人は桃の木の下に座って、他愛もない話をしている。ここのところ、五日おきに欠かさずこういった時間を過ごしていた。


 そしてその座興として、今日の陳祗は笛を吹いてくれたのだった。以前には碁を打ったり絵を描いたりもしたが、笛を吹いてくれたのは初めてだ。


「そうだよ。益州の人なら誰でも知っている曲だろうね。故郷の曲って感じかな?」


「故郷の曲……」


「そうだよ。どう思った?」


「とてもいい曲だと思った。私は好きだな」


「なら、劉禅はこの益州がうんだと思うよ。相性が良いんだ」


「そうかな。私もいつか、この曲を故郷の曲だと思えるようになるかな」


「なるよ。絶対になる。一番の友人である私が言うんだから間違いない」


 陳祗の言葉に劉禅ははにかんだ。


 照れながらも、嬉しいと思った。


「早く『自分は益州の人間だ』と言えるようになりたいな」


「すぐになれるさ。というか、ここに暮らしている以上、すでに益州の民だと私は思うけどね」


 陳祗はそこまで言って、ふと自分の失言に気がついた。


「……いや、劉禅は将来的にはこの益州の主になるのだから、『民』という言い方は良くなかったかもしれないが」


 劉禅はその『民』という単語を受けて、急に表情を曇らせた。


 それに気づいた陳祗はハッとした。


 出会った時の劉禅が、ちょうどこんな暗い顔をしていたことを思い出したからだ。


「……どうしたんだ?もし話したくないなら話さなくてもいいが、よかったら聞くよ」


 劉禅はしばらく逡巡していたが、やがて小さく口を開いた。


「父上が……私の事を『ただの民の子として生まれてくれば良かった』と言っていたんだ……」


「劉備様が?それは……」


 陳祗はどう言ったものか悩んだ。


 本音としては自分の小さな友人を傷つけた男に腹が立ったものの、それを表明するには劉備は英雄過ぎた。しかも、今この地で最も力を持っている。


「それは……なぜ劉備様はそのような事をおっしゃったのだろう?劉禅がいたずらでもした時の癇癪か何かじゃないのか?」


「ううん、私の人物鑑定を聞いた時に出た言葉なんだ。私は『道端に咲く、名も無き小さな花』らしい。そんな、ちっぽけな存在なんだよ」


「何だ、その腹の立つ評は。一体どこのどいつがそんないい加減なことを言った?」


「許靖という方の評だよ。人に聞いたら『月旦評げったんひょうの許靖』と言えば、かなり評判の良い名士らしい」


「…………」


「その場に諸葛亮もいたんだけど、父上だけでなくあの諸葛亮までもが許靖殿の評を信じていた。そして私のことを『いてもいなくても変わらない』『取るに足らない』存在だと言っていた。諸葛亮殿がそう言うくらいなのだから、許靖殿の評はきっと正しいんだ」


「………………」


 陳祗は口の端を引つらせて黙ってしまった。頭を垂れて、髪の毛をむしるようにワシワシと掻く。


 それから大きく深いため息を吐き、勢いをつけて立ち上がった。


「劉禅、行こう」


 そう言って手を差し伸べる。


「え?どこへ?」


 劉禅は問いつつも、陳祗の手を取った。


「もちろん、その三人のところだよ。ちょうど今その三人が集まっているし、少なくとも大叔父様には文句が言える」



****************



「……そういうわけで、劉禅様はひどく傷ついていらっしゃいます。大叔父様には、大人の何気ない言葉で子供が傷つくのだということをよくご理解いただきたい」


 陳祗は許靖に向かって強い口調でそう言った。


 劉備と諸葛亮、許靖が話をしている部屋でだ。だから当然、劉備も諸葛亮もその場にいて話を聞いている。


 陳祗は許靖に向かって文句を言うことで、劉備や諸葛亮にも聞かせてやろうと思ったのだ。自分たちの気の利かなさが、いかに子供を傷つけたかを。


 当然、劉備も諸葛亮も許靖もそれに気づいている。だから三人揃って同じような苦笑しか浮かべられなかった。


「そもそも大人は子供のことを見くびり過ぎなのです。子供は大人が思っているよりも色々なことを考えていますし、その心もとても繊細で……」


「陳祗、陳祗。分かった。よく分かった。私たちが悪かった。本当に申し訳なかったから、まずはちょっと確認させてくれ」


 説教を続ける陳祗を制しつつ、許靖はその瞳を見た。


 陳祗の瞳の奥の「天地」は暖かい太陽だが、今日はいつにも増して熱が強いように感じられる。小さな友人を傷つけられて、本当に怒っているようだった。


(まぁ、これが陳祗の良いところだが)


 許靖はそう思いつつ、劉禅の方へ向き直った。


「劉禅様。お話から察するに、どうやら先日の宴の時、庭園で私たち三人が話し込んでいるのを聞かれたのですね?」


 劉禅は許靖の視線に不思議な力を感じながらうなずいた。


「はい。立ち聞きしてしまい、申し訳ありませんでした」


「いえ、むしろあんな所で不用心な会話をしていた我らが悪いのです。劉禅様も大きくなられてお酒を飲まれた際にはご注意下さい」


 ちょっと茶化しかけた許靖を陳祗が睨んだ。それで許靖は咳払いを一つしてから、また真面目な口調に戻った。


「……あの時、おそらく劉禅様は私たちの会話を最後まで聞かれなかったのではないでしょうか?」


「そう……ですね。情けない話ですが……耐えられず、走って逃げ出してしまいました」


 この言葉を聞いた三人は、さすがに悪いことをしたと思った。確かに陳祗の言う通り、子供の心をひどく傷つけたのだと分かった。


 だから許靖は早くこの少年を安心させてあげたいと思った。


「劉禅様が去られた後、諸葛亮殿はこう言っておられたのですよ。『そういう主の元でこそ、家臣は思い切り力を振るえます。私にとっては劉禅様こそが最上の君主であることを確信しました』、と」


「え?」


 劉禅は目を丸くして諸葛亮を見た。


 諸葛亮は静かにうなずいて口を開いた。


「嘘やお世辞ではありませよ。許靖殿の今言った言葉は、私があの時言った言葉と一字一句違いはありません。そして、それは私の本心です」


「で、でもそんな無能な君主じゃ……」


「凡庸と無能とは違います。凡庸とは普通なこと、無能とは何もできないことです。普通であっても、周囲の人間の力を借りることができれば多くの物事を成し遂げられます。劉禅様にはその才があるということです」


「才と言われても……一人じゃ何もできない人間のようにしか思えません」


「それはむしろ反対ですね。一人でできることなど、たかが知れています。周囲の人間を含めて成果をあげられる人間の方が、よほど力がありますよ」


 諸葛亮の言うことは、まだ幼い劉禅にとって完全に理解できることではなかった。しかし、この優秀な男が本気で自分の凡庸さを喜んでくれていることは分かった。


 それで劉禅は諸葛亮への思いを軽くしたが、その友人である陳祗はまだ不満が残っていた。


 ただし、それは諸葛亮に対してではなく許靖に対してだ。


「諸葛亮様のお気持ちは分かりましたが……大叔父様。大叔父様の口にされた人物鑑定の表現はいかがなものでしょう?言われた側の気持ちを考えると、少しどうかと」


 道端に咲く、名も無き小さな花。


 確かにそれは、普通なら言われた者にとって嬉しい評ではないだろう。


 しかし責められているはずの許靖には、陳祗の抗議を意に介した様子が全くなかった。


「何がいけない?」


「何がって、それは……」


 許靖は劉禅の方を向いて尋ねた。


「劉禅様は『道端に咲く、名も無き小さな花』であることがお嫌ですか?私の見る「天地」において、その花は幸せそうに咲いておりました。それこそ、見ている側まで幸せな気持ちになれるほどに。ご自身の気持ちのみでお答えください」


 陳祗にとっては意外なことに、劉禅は首を横に振った。


「私は『道端に咲く、名も無き小さな花』であることが嫌ではありません。むしろ、嬉しく思います」


「えっ?そうなのか?」


 陳祗は思わず敬語を使うのを忘れてしまった。それで劉禅も、二人で話していた時の様に返してしまった。


「うん、嫌じゃないよ。私はむしろ、そういう小さく、目立たず、慎ましく生きていることが好きだ。だから『道端に咲く、名も無き小さな花』が私だということ自体は嬉しかったんだ」


 子供らしくないことではあるが、今日まで劉禅と時を過ごしてきた陳祗にはそれが真実であるとすぐに理解できた。


 劉禅は古今の英雄の話や、心躍る南蛮冒険の話などは好まなかった。それよりも、今日のようにちょっと音楽を聞いたり、演奏をしたり、碁を打ったり、絵を描いたり、そういったことを喜んだ。


 それも、音楽や碁、絵描きはその技術を極めることには興味がなく、手慰み程度に楽しむのが良いようだった。そういったふうに嗜好も小さくできているのだ。


 劉禅は諸葛亮を見て、それから父親である劉備へと視線を移した。その顔は苦しそうに歪んでいる。


「英雄である劉備の子が、こんな小さな人間で本当に申し訳ありません。本当のことを言うと、私は人の世をより良くすることなど言われても全然ピンとこないのです……日々、小さな幸せを感じながら生きていられればそれで良い。私はあくまで小さくできていて、世の立派な士大夫たちとは真逆の人間です。こんな私が父上の息子であることが、情けなくて情けなくて……」


 劉禅の苦しみはそれだった。


 自分が自分であることにはまるで不満がない。しかし、自分が素晴らしい父の息子であることが辛いのだ。


 劉備は息子へ憐憫の目を向けた。しかし、それは息子の小ささを憐れんだわけではない。


「禅……私の方こそ、お前には本当に申し訳ないと思う。もしお前がただの民の子として生まれていれば、お前は慎ましい民の人生を謳歌できたはずだ。しかし、この劉備の子として生まれてしまった」


 劉備は小さく首を振りながら言葉を続けた。


「お前はもはや、ただの民としての幸せは望めない。そういう運命を父が与えてしまった。小さな花などを見て喜ぶお前を見るたびに、父は必ずその申し訳なさを思うのだ」


 この言葉を聞いた時、劉禅はあの日聞きそびれた父の言葉の先が分かった。


『禅め、ただの民の子として生まれてくれば良かったものを…………それならば、小さく幸せな人生を歩めていたはずなのに』


 おそらく、父はそんな事を言っていたのだろう。言っていなくても、父の意図はそういうことだ。


 息子の小ささを残念がって出た言葉ではなかった。むしろ、自分のことを想って口にしてくれた言葉だったのだ。


 劉禅の目から涙がこぼれた。


 しかし、自分は英雄劉備の息子なのだ。そう思い、すぐに涙を拭って歯を食いしばる。


 劉備はそんな息子に歩み寄り、抱きしめて顔を胸に埋めてやった。


 健気な少年は一瞬だけ耐えようとしたが、結局は声を上げて泣きじゃくった。

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