短編 凛風の恋

時は遡り、許靖たちが交州に避難してから数年が経った頃。



(お姉様……またため息をついてる)


 翠蘭スイラン凜風リンプウの横顔に、心配の念を抱いた。


 最近の凜風は少しおかしい。こうやってため息をつくことが多くなっただけでなく、突然ぼぉっとしたり、逆に頬を上気させるほど機嫌の良い時もある。


「お姉様、もしかして体調が悪いのですか?」


 翠蘭はこれまで何度も聞いた質問をあらためてした。


 しかし、返ってきた答えはこれまでと変わらないものだった。


「えっ?いや、別に悪いところはないわよ。元気元気」


 そう言って笑う凜風の顔は確かに元気そうであり、実際に先ほどまで道場でもキレの良い動きを見せていた。少なくとも、身体的な健康面には異常がなさそうだ。


 しかし、翠蘭から見るとやはりおかしい。


 その変化は他の人間が気づくほどのものではないかもしれないが、翠蘭には分かる。いつも姉のことばかり見ているのだから。


 二人は道場からの帰り道、少し回り道をしておしゃべりしながら帰宅していた。


 最近は暖かくなってあちこちに綺麗な花が咲き始めたので、それを眺めながらの帰路は楽しいものになるはずだった。


 それなのに、先ほどのため息だ。


「なら、何か悩み事でもあるのではありませんか?よかったら話してください」


 翠蘭の気遣いに、凜風は笑って首を横に振った。


「ううん、大丈夫だよ。別に悩みとかじゃな……」


 凜風の言葉が途中で止まったのは、翠蘭が凜風の着物の裾を摘んだからだ。


 翠蘭としては凜風が話したくないことならば、無理に聞かない方がいいと思っている。しかし、聞きたかった。


 大切な姉が苦しんでいるのなら助けたいし、何より姉のことで自分が知らないことがあるのが嫌だった。


 凜風は翠蘭の顔を見つめ、少しだけ困ったように笑ってから話してくれた。


「あのね……実は私、好きな人ができちゃったみたいなんだ」


 翠蘭はその言葉を聞いて、論理の辻褄が合わないような不思議な感覚を覚えた。


(好きな人、というのは私以外にでしょうか?)


 翠蘭の思考はまずそんなところから始まり、それから『当たり前だ』という真っ当な結論を得た。


 別に凜風の周りには自分しかいないわけではないのだから、他に好きな人ができてもおかしくはない。


「別に隠そうとしてたわけじゃないんだよ?でも、何かほら……恥ずかしくって」


 頬を赤く染めてうつむく凜風を、翠蘭はこの世のものではないと思えるほどに可愛いと思った。


 が、それと同時に自分の中にドス黒い感情が渦巻くのを感じる。この素晴らしい表情は、自分のことを想って出たものではないのだ。


「あの……その好きな人というのは、殿方ですか?」


 翠蘭は念のためそれを聞いた。もしかしたら、人の好いお婆さんとかかもしれない。


 しかし、この流れでそれはやはりありえなかった。


「もちろんそうだよ。食料品を扱うお店の番頭さんなんだけどね、この間その人に……」


 凜風はその男との出会いを、それは嬉しそうに話してくれた。明るい陽がさしたような、そんな顔をしている。


 しかしその表情が明るければ明るいほど、翠蘭の胸には黒い暗雲が立ち込めるのだった。



***************



 凜風がその男、馬雄バユウと出会ったのは一月ほど前のことだった。


 その日、凜風は一人で市の露店を眺めていた。


 別に大きな目的もなくブラブラしていただけなのだが、壺売りの店の前を歩いている時に、子供たちが駆けてきた。鬼ごっこか何かをして遊んでいたらしい。


 子供たちはじゃれながら、前も見ずに走ってくる。危ないと思って避けた拍子に、凛風は店の壺にぶつかってしまった。


 壺は地面に落ち、大きな音を立てて割れた。


(やっちゃった……)


 凜風が悪いかと言われれば微妙なところではあるが、少なくとも過失がないわけではない。仕方なく弁償しようとした。


 が、持ち合わせが少しだけ足りなかった。


 さらに悪いことに、その店の店主は癇癪持ちだった。なんと、足りない銭の分だけ殴らせろと言ってきたのだ。


「家まで取りに帰ってくるから、ちょっと待っててよ」


 凜風はそう言ったが、店主はそのまま逃げるかもしれない、信用できないと言って、拳を握りしめた。


 そして、その拳を振りかぶってくる。


(簡単によけられるな)


 この頃の凜風はすでに道場でも指折りの猛者になっている。大した危機感も感じず、軽い気持ちで拳を眺めていた。


 が、凜風がよける前に間に割って入った者がいた。


 それが馬雄だ。


 馬雄は代わりに殴られてから、


「私はこの娘と面識があるから、不足分を立て替えておこう」


そう言って、銭を払ってくれた。


 が、凛風は馬雄の顔に全く見覚えがない。


 にも関わらず、馬雄は名乗りもせずに早足で去って行った。


 凛風がそれを追いかけて尋ねると、やはり本当は初対面だと言う。


「お金を出してくれたのはありがたいけど、なんで知らない女をわざわざ助けてくれたの?しかも殴られてまで……それに、立て替えると言われたのにそのまま逃げられたら、私は返せなくて困るよ」


 馬雄はなぜか頬を赤らめて沈黙した。そしてまた無言で去ろうとする。


 納得のいかない凛風は馬雄に付きまとい、何度も同じ質問をした。何にせよ、きちんと素性を聞いておかなくては返すものが返せない。


 馬雄はついに根負けして、正直な胸の内を話した。


「……私はあなたをひと目見て、美しい女性だと思った。だから助けてしまった。だが、それはふしだらな事だった気がする。だから恥ずかしくなって逃げたのだ」


 耳まで真っ赤にした馬雄の台詞に、今度は凛風が赤くなった。


 それから凛風は馬雄が番頭を勤める店に顔を出すようになり、いつしか恋仲になったのだった。



***************



(『ひと目見て、美しい女性だと思った』……って、そんな台詞、悪い殿方が女性をかどわかすために使う方便に決まってるじゃないですか!)


 凛風は食卓に並んだ芋の煮物を睨みつけながら歯ぎしりをした。


 自分の姉は純情過ぎる。それが魅力的でもあるのだが、こうやって悪い男に騙されるのは見ていられない。


 食事中になぜか殺気を放つ翠蘭に、使用人の老婆が心配そうな声をかけた。


「お嬢様、芋の煮物がどうかなさいました?」


「……え?いえ、何でもありません。美味しいお芋です」


 翠蘭は慌てて芋を頬張ったが、またすぐに苛立ちが湧いてくる。不必要なほどの強さで芋をかみ潰した。


「やっぱりご様子がおかしいようですが……」


 老婆がまた心配してくれた。


 この老婆は翠蘭と父の袁徽エンキが交州に避難してから雇った使用人だ。


 翠蘭も家事はそつなくこなせるよう教育はされているが、基本的には老婆が家事の多くをしてくれている。


 今日は袁徽が出張でいないため、二人で食事を摂っていた。


 以前の袁徽なら儒学者らしく礼儀や順序にうるさかったので、使用人が同じ食卓を囲むことなど許さなかった。


 が、今は随分と丸くなっている。生活効率が悪いというだけで、こういうことも認めてくれるようになっていた。


「そうだ」


 心配を顔に浮かべる老婆を見て、翠蘭にはひらめくものがあった。


「川向うの橋のそばに、食料品のお店と仕出しのお店が一緒になっている所がありますよね?分かりますか?」


 翠蘭の質問に老婆はうなずいた。


「ええ、存じ上げております。というか、そのお芋も今日そのお店で買ったものですので」


「そ、そうですか……では、そのお店の番頭の方で馬雄様という方をご存知です?」


 そう問われた老婆は、意味ありげに笑った。


「知っておりますとも。お嬢様もそういう方が気になるお年頃なのですねぇ」


「え?」


「いえね、馬雄さんといえば眉目秀麗で有名な番頭さんですから。そりゃお嬢様も適齢期の女性なのですから、気になるのも仕方ありませんよね」


 この際老婆の勘違いはどうでもいいと思ったが、大切な姉がそういう男に騙されているかもしれないと思うと気が気ではなかった。


「顔は分かりましたが、人となりはどのような方なのです?」


「性格、ということしょうか?とても真面目な方だとはうかがっていますが」


「……そうですか。真面目というと、女性関係も真面目なのでしょうか?」


「あぁ……そういえばその手の話もよく耳にします。馬雄さんは見目良い方なので、やはり多くの女性を泣かせてきたという話でしたよ」


「…………!!」


 やはり、案の定だ。


 顔が良いのをいいことに、美貌と口先八寸で純朴な女性を食い物にしているに違いない。


(お姉様……)


 翠蘭は姉の無垢な笑顔を思い浮かべ、胸が引き裂かれそうな気持ちになった。


 それと同時に、まだ見ぬ馬雄という男への強い憎悪が湧き上がってくる。


 そしてその感情は煙のように翠蘭の心を満たし、正常な視界を奪ってしまうのだった。



***************



「……あの、許靖様。ちょっとよろしいでしょうか?」


 翠蘭は道場の片隅で、ちょうど腹筋を終えた許靖に話しかけた。


 今は組手の稽古の待ち時間だ。


 凛風は芽衣と手合わせを行っており、許靖はもともと組手の稽古は行わない。だから良い機会だと思って声をかけたのだ。


「なんだい?」


 許靖は息を整えながら聞き返した。


「実は許靖様に人物鑑定をお願いしたい方がいるのですが……」


「珍しいね。翠蘭がそういったことを頼んできたのは初めてだ。もしかして凛風絡みかな?」


 いきなりそれを言い当てられた翠蘭は、思わずたじろいだ。武術では避けなければならない動揺だ。


(やっぱりこの方は、普通ではない)


 翠蘭はあらためてそれを感じた。頭の回転が凄いということもあるし、人を見る目が常人とはまるで違う。


 人物鑑定の大家だという話はよく聞いていたが、それにしても尋常ではない感性を持ち合わせているように思えた。


「は、はい。実はお姉様がある殿方と良い仲になりそうでして……」


「あぁ、なるほど。二人とも、もういつ結婚してもおかしくない齢になったからね」


 結婚。


 翠蘭はその単語を聞いて、自分の中の何かが焦がされるような思いがした。


 姉が悪い男に騙されるということだけではない。姉がどこか自分の手の届かない遠くに取られて行ってしまうような気がしたのだ。


「それで、相手はどこの誰なんだ?」


「橋のそばにある食料品店で番頭をされている、馬雄様という方ですわ」


 許靖はその名を聞き、虚空に視線を漂わせた。


 それから顎に手を当て、今度は床をじっと見ながら何かを考えているようだった。


 翠蘭は何だろうと思いながらも、許靖の次の言葉を待った。


 やがて許靖の思索はしっかりとした結論に達したらしく、翠蘭の方を向いて口を開いた。


「翠蘭の希望通り人物鑑定はするが、わざわざ本人に合う必要はないな。私は馬雄という青年に会ったことがある」


「えっ?そうなのですか?」


「ああ。あの食料品店は仕出しも請け負っているだろう?年始の祝いなど、道場で食事会をする時にはいつもあそこに頼んでいるんだ。だから何度も顔を合わせているし、こちらの希望を伝えるために話もしている」


 言われてみれば、確かに年に何度かある食事会ではいつも同じ店の仕出しをいただいている。どこの店かなど特に気にしたこともなかったが、まさか馬雄の店のものだったとは。


 料理はいつも美味しかったはずだが、そう思うと何だか悪いものだったような気がしてくるから不思議だ。


「そうですか……では、馬雄様の人となりはどのような?」


 きっと許靖ならあの悪い男を酷評してくれる。そうすれば、きっと姉も目を覚ましてくれるはずだ。


 翠蘭はそれを強く期待していたのだが、許靖の表情は意外にも晴れやかなものだった。


「とても真っ直ぐで、真面目な青年だと思う。彼なら凛風の相手として安心だ」


「…………え?」


 予想外の回答に、翠蘭は許靖の言っていることがすぐに理解できなかった。


 少しずつ理解できてくると、どうやら許靖は凛風を止めてくれなさそうだということが分かった。


 許靖は人物評を続ける。


「彼は言ってみれば、真っ直ぐ伸びたコナラの木だ。幹どころか枝葉まで真っ直ぐで、商人としては少々心配になるほどだな。ただまぁ、時間をかけて彼の本質さえ知ってもらえれば、顧客からも取引相手からも信頼してもらえるから悪くないことだろう」


「…………」


「それと結婚相手としてだが、この点でも良い男だと言える。彼のコナラにはちょうど良い具合のウロがあって、小動物などが棲むのにちょうど良いと思っていたんだ。考えてもみればミツバチもよくコナラの虚に営巣するし、凛風が家庭を築く相手として最適に思えるよ」


 許靖は翠蘭を安心させようと思い、鷹揚に微笑んでみせた。


 しかしそれは翠蘭の希望とは真逆をいくもので、むしろ迷惑にしか感じられない。


 翠蘭はこの人物鑑定家の考えを何とか変えたくて、強い口調でその欠点を訴えた。


「で、ですが!私のうかがった噂では、馬雄様は大変な女泣かせだというお話で……」


「ははは、その話なら私も聞いたことがあるな。何でも、彼は空弾みな気持ちで女性と恋仲になるのが嫌なんだそうだ。本気で結婚したいと思える相手としか付き合いたくないらしい。だが、あの美貌だろう?言い寄る女性は多く、しかも必ず断られる。結果、多くの女性を泣かせてきたという話だ」


 許靖の話は別に難しい話でもなかったはずだが、翠蘭には理解できなかった。理解しようとしなかった。理解したいと思わなかった。


 それを理解して、認めてしまうと、大切な姉が自分からずっと遠くへ離れていってしまう。


 許靖は馬雄の「天地」を思い起こすことに集中するあまり、こういった翠蘭の気持ちには全く気がつかなかった。


「凛風にも私からあの青年を勧めておこう。まぁ、こういうことは結果が出るまでどうなるかは分からないが、少なくとも悪い出会いでは……」


「おやめください!!」


 常にはない翠蘭の大きな声に、許靖は目を丸くした。


 この娘のこれほど大きな声を聞いたのは、何年か前に父親の袁徽に対して反抗した時以来のような気がする。


「…………え?」


「いいから、とにかく、絶対におやめください!絶対、絶対にお姉様にはこの話をしないでください!絶対です!」


「いや……しかし……」


「話をしないと約束してください!!」


 許靖は『花神の御者』などという、縁結びの神様のような二つ名を持っている。そんな人間に背中を押されたのでは、凛風は今まで以上にあの男にのめり込んでいくだろう。


 予想だにしなかった翠蘭の強い反応に、許靖は思わず首を縦に振った。


「わ、分かった」


 翠蘭はその返事にとりあえずは満足し、話はここまでだとばかりにクルリと背を向けた。


 しかしそこから三歩だけ歩いたところでまた振り返り、


「絶対ですよ!!」


そう念押ししてから歩みを再開した。


 許靖はその背中を呆然と見送りながら、なぜ瑞々しかったナデシコの花があれほどまでに焦げているのかを考えていた。



***************



(私しか、もうお姉様を守れる人がいない)


 翠蘭は強い使命感を持ちながら、少し離れた道を歩く男の背中を睨みつけた。


 その男とは、もちろん件の馬雄だ。


 期待していた許靖の人物鑑定が当てにならない以上、自分であの男の悪いところを探さなければならない。


 だから店が見えるところで待ち伏せし、馬雄が外回りの仕事に出たのを尾けていたのだった。


 外回りではまず既存の顧客や取引相手のところへ顔を出して御用聞きをしたり、世間話をしたりして関係を保つ。そして新たな顧客開拓のために飛び込みであちこちの施設を訪問し、食料品や仕出しの仕事がないかを尋ねて回っていた。


 馬雄はその見目の良さと真面目さで、どこへ行っても歓迎されているようだった。多くの人から好かれていることがよく分かるし、しばらく見ているだけでも『きっと善人なのだろう』と思えるような男だった。


 ただし、それは正常な判断力を持った人間が見た場合だけで、初めから悪人だと決めつけている翠蘭にとっては『上手く人を騙している男』にしか見えなかった。


(私がお姉様を守る……だから、この方の悪い所を探さなくては)


 真っ当に考えたらすでに通らなくなっているその理屈を、追い詰められた翠蘭の思考は否定しなかった。


 この男の前では自分の知らない姉がいるのかもしれない。そう思うと、身が焦がされるような気持ちになった。


 認められない。認めるわけにはいかない。


 そう思えば思うほど、馬雄の背中がやたらと憎々しいものに思えてきた。


 そもそもたった一月ほどの付き合いで、この男は姉の何を知っているつもりなのだろう?姉がどれだけ魅力的な女性なのか、そのひと欠片だって分かっていないはずだ。


 姉が小骨の多い魚が苦手なことを知っているだろうか?その小骨を取ってあげると喜ぶことを知っているのだろうか?


 姉がかなり寝相が悪いことを知っているだろうか?よく布団をはね、それを直してあげると寝ぼけながらお礼を言ってくれることを知っているのだろうか?


(何にも知らないくせに……私がお姉様のことを一番分かっているのに……)


 翠蘭の心に暗い炎が燃え上がり、自らの心をも焦がしていく。それは怨念となって視線にも乗り、夕日に照らされた馬雄の背中にも降りかかった。


 その怨念が伝わったからでもないだろうが、道を行く馬雄にちょっとした不幸が起こった。


 飲み屋のそばを通った時、酔っ払いの集団に絡まれたのだ。


 三人の男たちが店の前に出された卓に付いて飲んでいる。


「おい、兄ちゃん。キレイな顔してんな。俺らに酌してくれよ」


「本当は女の方がいいんだけどな。まぁお前で勘弁してやるよ」


「お、こいつ知ってるぞ。仕出し屋の番頭だ。ちょっとツマミでも持って来いや。もちろんタダでな」


 翠蘭は強い興味を持ってそれを見た。どんな反応をするのか知りたいと思ったのだ。


 馬雄は足を止めないまま曖昧な笑いを浮かべ、軽く頭を下げた。


「いや皆さん、ご機嫌がよろしいですね。今日は飲むには良い夕焼けだ」


 そんなことを言い、ペコペコしながらその場を離れようとする。


 翠蘭は心の中でその様子をあざ笑った。


(何て情けない態度。そんな事ではお姉様は守れませんわね)


 自分であれば、この酔っぱらいたちが総がかりでかかって来てもまとめて始末できる。だが馬雄には身を低くしてやり過ごすことしかできないのだ。


 そんな暗い心地よさを感じていたせいか、翠蘭は身を隠すのを忘れてしまった。そして酔っぱらいの一人が翠蘭に目をつけた。


「おい、美人の姉ちゃんがいるじゃないか。お前が酌してくれよ」


 その言葉を受け、馬雄を含めた全員の目がこちらを向いた。


 翠蘭は舌打ちしたいような気持ちでその酔っぱらいを睨んだ。


 この男のせいで尾行がバレてしまったし、そもそも馬雄のせいでずっと苛ついていたのだ。


「……なんだこの娘。俺たちに文句でもあるのか」


 酔っぱらいの一人が立ち上がり、翠蘭の方へと歩いてくる。


 翠蘭はそれを眺めながら、その男を組み伏せるための幾通りもの手段を頭の中に思い浮かべた。


 本当に実行するかどうかはさておき、翠蘭の今の心境はこの酔っぱらいを少々痛めつけたいと思うほどのものだった。


 が、それを実行する前に、翠蘭と酔っぱらいの間に立った者がいる。


 馬雄だ。


「まぁまぁ。若い娘がビックリしただけですよ。落ち着きましょう」


 そう言って両手を軽く上げ、酔っぱらいを制止した。


 翠蘭はそれを見て、また馬雄をあざ笑いたい気持ちになった。


(そうやってまた女性を助けた上で、また『美しい女性だと思った』とか言うつもりなのでしょうか?お姉様の時と同じように)


 もしそうしてくれれば、こちらの思う壺だ。それを凛風に伝えれば、さすがに目を覚ましてくれるだろう。


 だから翠蘭はその場を動かず、成り行きを見守ることにした。


 酔っぱらいの男は翠蘭を睨みつけていた眼を馬雄に向け、凄んでみせた。


 そして酒乱の気でもあるのか、すぐに拳を作った。


「俺はこの姉ちゃんと話してるんだよ!てめぇはすっこんでろ!」


 そう叫びながら、馬雄を殴りつけた。


 翠蘭はそれを見て驚いたものの、軽い優越感を覚えた。


(やっぱり、この方にはお姉様を守る力はありませんわね。ただの酔っぱらいの拳すら捌けないなんて)


 もろに殴られた馬雄はふらついたものの、その場を退きはしなかった。翠蘭と酔っぱらいとの間に立ち続け、首だけ後ろを振り向いて叫ぶ。


「君、早くここから逃げなさい!私が止めておくから!」


 それを聞いた酔っぱらいは激昂した。殴った一人だけでなく、残りの二人も立ち上がった。


「なんだとコラ、正義の味方のつもりか!?」


「お前一人で俺らを止めるのかよ!いいぜ、やってみろよ!」


「何秒もつか、賭けにしようぜ!」


 そう言って三人は馬雄に詰め寄り、寄ってかかって殴り始めた。


 翠蘭はこの状況を見て、馬雄がすぐ降参すると思った。


 武術の心得のない男が酔漢三人にどつき回されているのだ。普通ならすぐに謝るか、逃げ出すだろう。


 しかし、その反応は全く意外なものだった。馬雄はあくまで翠蘭との間に立ち、両手を広げて、


「早く……早く逃げなさい!!」


そう叫び続けたのだ。


 翠蘭は身じろぎもせず、その様子を眺め続けた。が、どれだけ待っても馬雄は自分を守ろうとすることをやめようとはしない。


 誰がどう見ても、女性を口説くためにやるような頑張りではなかった。どんなに心が曇っている人間でも、そのくらいは分かっただろう。


 そして元々が人よりも数段優しくできている翠蘭だ。しばらくすると、さすがに限界が来た。


「……失礼いたします」


 翠蘭は地面を滑るような足取りで一人の男との距離を詰めた。そしてその腕を取り、後ろ手に関節を極める。


「な、なんだ……?いたたたた!!」


「このまま大人しく飲食を続けられるなら、この程度で済まして差し上げますわ。ですがまだ暴れるというのなら、少々痛い目に遭っていただきます」


「なんだとこのアマ!!ぶっ殺す……」


 と、男の言葉の途中で、ゴッ、と低い音が鳴った。男の肩関節が外れたのだ。


 苦悶の声を上げてその場にうずくまる男へ、翠蘭のしとやかな声が降ってきた。


「ご安心下さい。外科へ行けばきちんとはめていただけますわ」


 その様子に残り二人の酔っぱらいは驚いたものの、すぐに二人して殴りかかってきた。


 翠蘭は水が流れるような動作で一人の拳を横から撫でた。


 するとその腕は妖術でもかかったかのように向きを変え、もう一人の鼻面に突き刺さった。食らった男は鼻血を吹き出しながらその場に倒れる。


 仲間を殴ってしまった男は驚愕の瞳で仰向けになった友人を見た。そしてその隙に翠蘭は一歩踏み込み、芽衣仕込みの金的を食らわせてやった。


「…………!!」


 声にならない声を上げ、最後の一人も地面にうずくまる。


 迷惑な酔っぱらいたちは、ほんの短時間の間に三人とも動けなくなった。


 信じがたい光景に、馬雄は目を白黒させて物も言えないでいる。


 そんな馬雄へ、翠蘭はたおやかな動作で一礼した。そして背を向けて歩き始める。


 こうなると、もはや認めるしかない。許靖の人物眼の正しさを。姉の思いの正しさを。


 認めるしか、なくなってしまったのだ。


(……悔しい)


 袋叩きに遭っていた男を救った翠蘭は、その男に対してひどく劣等感を抱いていた。



***************



「翠蘭、紹介するね。この人が私の結婚相手、馬雄さんだよ」


 大好きな姉からそう紹介を受け、翠蘭は馬雄へと複雑な視線を向けた。


 その視線はいまだに処理し切れない複雑な感情がそのまま乗ったものであり、一言では表現し切れないものだった。


 しかしその視線を向けられた馬雄の方はというと、こちらはごく単純な分かりやすい視線を返してきた。驚きの視線だ。


「君が翠蘭だったのか……さっき遠目に見て、まさかとは思ったが」


 驚くのも当たり前だろう。つい先日暴れる酔漢を圧倒的な力でねじ伏せた、やけにしとやかな娘が目の前にいるのだ。


 翠蘭は今日、凛風に『結婚相手を紹介するから会って欲しい』と頼まれて自宅へと来ている。父の趙奉チョウホウは仕事で不在だ。


 というか、父への紹介の前に翠蘭に紹介したいと言われたのだ。


 翠蘭は順序にうるさい儒学者の娘なのでさすがにそれはどうかと言ったのだが、凛風はごく軽い調子で笑った。


「父さんは別に何とでも言いくるめられるんだからいいの。でも翠蘭があの人のことを気に入ってくれなかったら、本当に困るからさ」


 その言葉はとても嬉しいものだったのだが、やはりずっとそばにいた姉が取られてしまうのだと思うと寂しかった。


 しかし、結婚は姉にとってとても幸せなものなはずだ。


 だから歯を食いしばり、無理に祝福の言葉を口にして今日ここにいる。


「あれ?二人はもう知り合いなの?」


 馬雄の言葉を聞いた凛風は、首を傾げてそう尋ねてきた。


 馬雄は苦笑して答える。


「知り合いというか、この間話したとても強い女性が彼女だよ。私が助けようとして、逆に助けられた」


「えっ!?あれ翠蘭だったの!?なんだ、良かった……」


 凛風はホッと胸をなでおろした様子でそう言った。


 その言葉の意味が分からず、翠蘭は聞き返した。


「良かった、というのはどういうことでしょうか?」


「あ、いや……そのね……」


 答えづらそうな凛風に代わり、馬雄が可笑しそうに教えてくれた。


「実はね、凛風は私が他の女性を助けようとしたという話を聞いて、ひどく焼きもちを妬いてたんだ。だからその相手が見ず知らずの女性でなくて君だったから、安心したということだろう」


 なるほど、と翠蘭は納得した。


 それと同時に、自分以外に焼きもちを妬く姉に、今度は自分が焼きもちを妬いた。


 凛風は頬を少し赤くし、膨れてみせた。


「ちょっと。私は焼きもちなんて妬いてないわよ」


「いや、妬いてただろう?だってあんなに不機嫌だったじゃないか」


「妬いてません」


「しかし」


「妬・い・て・な・い」


「……じゃあ、そういう事でいいよ。でも焼きもちでもいいじゃないか。そのお陰で私たちはこうやって早くに結婚を決められたんだから」


 翠蘭はこのやり取りを聞き、自分が二人の結婚を早めてしまったのだということを知った。


 つまるところ、焼きもちを妬いて機嫌が悪くなった凛風をなだめるためか、もしくは自分の愛を証明するために馬雄が凛風に求婚を申し出たということだろう。


 喧嘩が原因で結婚が決まるというのは、ままある話だ。


(要らぬことをしてしまいましたわ)


 翠蘭はそう思ったが、それよりも二人のやり取りを見て胸が締め付けられるような思いがした。


 馬雄と話す時の翠蘭が、自分には見せない顔をしているのだ。


 女の顔とでも言うのだろうか。馬雄に対しては強いことを言ってもどこか甘ったるく、その視線も妙に熱っぽい。


(私の知らないお姉様がいる……)


 それはとても寂しい事であり、切ない事でもあった。だからその事実に、翠蘭の心はまた塞ぎかけた。


(でも、お姉様の幸せは私の幸せでもあります)


 それもまた、事実ではあるのだ。


 だから、翠蘭は笑うことにした。笑顔で祝福を受けた方がきっと姉も嬉しいだろうと、そう思ったのだ。


 それはただ手放しで幸せな笑顔ではなく、どこか寂寞せきばくと諦めとが入り混じった笑顔ではあった。しかし、それでも姉思いの翠蘭はちゃんと笑うことができたのだ。


 そんな翠蘭に対し、馬雄は爽やかで明るい笑顔を向けた。


「君が凛風の大切な妹だということはよく聞いているよ。僕も兄として、翠蘭のことを大切にしたいと思う」


「…………え?兄?」


 翠蘭は初め、馬雄の言っていることがよく理解できなかった。


 が、論理としては単純だ。馬雄はそれを説明してくれた。


「兄だよ。凛風が君のお姉さんで、私はその凛風と結婚する。なら私は君の兄ということになるだろう?」


 その発想は今まで無かった。


 凛風に夫ができるということは自分に兄ができるということで、引いては自分の家族が増えるということなのだ。


(私の……お兄様……)


 翠蘭の心は急に大空へと舞い上がった。


 翠蘭は早くに母を亡くし、厳しい父に育てられたせいで家族への愛情に餓えているところがある。


 今の父は以前よりもだいぶ近しい存在になってはいるものの、それでも家族への憧れはすでに人格の芯の部分にまで浸透していた。


(ということは、もしお二人に子供が生まれたら、私の甥か姪に……どどど、どうしましょう?芽衣さんの春鈴シュンレイちゃんと許游キョユウ君だけでもあんなに可愛いのに、お姉様の子供なんか生まれたら私……)


 それを想像して、翠蘭の心はいっそう暖かくなった。そうなれば、家族がまた増えるのだ。


 こうなると、凛風と馬雄にはむしろ仲良しくてもらわなければならない。


「よ、よろしくお願いいたします!お兄様!!」


 翠蘭の急な大声に、凛風も馬雄も驚いた。しかし、すぐに笑ってくれた。


「お兄様、か……そりゃそうだ。私はお姉様って呼ばれてるんだから、兄はお兄様だよね」


「嬉しいよ。私には弟はいるが、そんな丁寧な呼ばれ方をされたことはないからね。いつもぶっきらぼうに兄貴、兄貴、だ」


 翠蘭はその時初めて聞かされた事実に、ひどく食いついた。


 前のめりになって尋ねる。


「お、弟がいらっしゃるんですか?」


「ああ、一人いるよ。うちは二人兄弟だからね。だから私だけでなく、弟も新しい家族になるから仲良くしてやって欲しい」


 翠蘭はさらにもう一人家族が増えるということで、もはや天にも昇る気持ちになった。


「私より年上ですか?年下ですか?」


「え?えーっと……私の、二つ年下だから……」


 凛風がそれを聞いて答えてくれた。


「じゃあ、翠蘭と同い年だね」


 翠蘭はそれを聞いてもなお問い続けた。


「お誕生日はいつでしょうか?」


「誕生日?あいつは……いつだったかな?夏生まれではあるんだが」


 凛風は夫になる男の適当な記憶に少しあきれた。


「弟さんの誕生日でしょ?それくらい覚えておきなさいよ」


「いや、男兄弟なんてそんなものだよ」


「でもさぁ……」


 翠蘭は二人のそんな会話を話半分に聞きながら、自分も夏生まれであることで懊悩を深めていた。


(私の弟になるのでしょうか……?お兄様になるのでしょうか……?やっぱり弟はいないから欲しいですわね……ああ、でもお兄様二人も捨てがたいですわ……)


 しかし後で知ったその誕生日は、生まれた月日どころか時間までもが翠蘭と全く同じだった。


 翠蘭はこれを弟とすべきか兄とすべきかで随分と悩み、悩み過ぎた挙げ句、ついには結婚してしまうのだった。


 ただ、それはまた別の話になる。

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