第207話 国
「久しいな許靖殿!もう何十年ぶりになるかな!元気そうで嬉しいぞ!」
劉備は顔いっぱいに笑顔を浮かべ、許靖の二の腕を叩いた。
許靖はその笑顔に蕩けそうになる自分を感じていた。
許靖の処遇が決められた日の夕方、許靖はあらためて劉備に呼び出された。
通されたのは先ほどとは打って変わり、劉備以外には誰もいない小さな部屋だ。二人きりで腹を割り、ゆっくりと話したいという劉備の意向だった。
(これだ。この笑顔だ。そしてこの長い腕の内に入れられれば、人は出てこられなくなる)
許靖はあらためて劉備の恐ろしさを感じながら、瞳の奥の「天地」を見た。
そこには巨大な劉備がいる。相変わらず、ただそれだけの「天地」だ。
ただし、この「天地」は異様なほどに居心地が良い。劉備の腕にずっと抱かれていたくなる。
まさに『
「まぁ元気と言っても、私のせいで死にそうになったのだったな。悪かった」
まったく悪びれた様子もなくそう言い、子供のようにまた笑った。この笑顔には叶わないと許靖は思った。
「先ほどの茶番も許してくれ。私も大人数を管理せねばならないから、こういった面倒もあるのだ」
「気にはしておりませんよ。それより劉備様もお元気そうで何よりです。またお会いできて本当に嬉しい」
劉備は許靖の何気ない言葉に引っかかりを覚えた。
「劉備『様』か。ということは、私を新たな主と認めて仕えてくれるということだな?」
先ほどの会議では許靖の意向は確認されなかった。劉備は何よりもそれを確認したかったのだ。
しかし、許靖は首を横に振った。
この蕩けそうなほどの魅力がある劉備が主ならどれほど幸せだろうかと思いながら、それを拒絶した。
「劉備様はすでに益州の主です。ですから益州に住まう者として、敬意を払い『様』と言わせていただきました。ですが、私は官吏として勤めることはできません」
「なぜだ。私では仕えるのに不足があるか?劉璋殿のように温和な人間でなければ、仕える気にならないか?」
許靖はまた首を横に振った。
「あなたの瞳には、戦の影が見え隠れしています」
言われた劉備はピタリと動きを止め、それ以上問い詰めるのをやめた。
許靖は劉備の瞳の奥の「天地」に具体的な戦の姿を見たわけではない。しかし、抽象的とはいえ明らかな戦の影が感じられたのだ。それは許靖の直感のようなものだった。
「劉備様。今回の事で、戦は私にとって受け入れ難いものだと再認識できました。ですから、戦を是とするあなたには仕えられません」
劉備は視線を許靖から床へと落とし、何事かを考え始めた。
ゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、思考を深めているようだった。
許靖も劉備の思考がまとまるまで待った。それが断る者の礼だと考えた。
劉備はやがて口を開いた。
「曹操は……
簒奪とは、今の帝を廃して自らが新たな帝になることをいう。
今の帝は四百年以上続いている漢帝国の献帝だが、すでに実権を失って久しい。現状は曹操に保護されて、その権威だけ利用されている形だ。
劉備はその曹操が完全に帝を廃し、形式上も自分が帝になるだろうかと尋ねているのだった。
唐突な問いではあったが、話が飛んでいるとは許靖は思わなかった。むしろ劉備と戦というものを考えた時、それは核心であるように思えた。
「私の考えるところでは、曹操殿は簒奪はしないでしょう」
「……そうだろうか?」
劉備はその回答に懐疑的だったが、許靖はこの乱世の未来をそう予測していた。
(曹操殿の「天地」は多才な能力の中に子供らしさを残した『麒麟児』だ。帝になりたいというのは一見子供っぽい願望であるようにも思えるが、曹操殿の場合はもっと敏い。子供特有の固定観念の小ささで、実態のない権威よりも実利に重きを見出す。現状で帝の力を全て使えているのに、わざわざ世間の批判を受ける簒奪を行うことはないだろう)
許靖の分析はあらかたこの通りだったが、この後に『ただし』という補足の接続詞が入る。
「ただし、曹操殿の次代でそれは起こると考えられます。帝は廃され、曹家による新たな皇帝が即位するでしょう」
許靖の結論はそうだった。
曹操自身は帝になることを望まずとも、後継者やその周囲は違うだろう。
帝になりたい、主君を帝にしたいと思う方が人として普通の欲求だ。そうでなくとも、実権を持たない帝という現状に疑問を持たない方がおかしい。
しかし、それは劉備にとって受け入れられることではなかった。
「簒奪がなされるのであれば、結局のところ同じことだ。
昔、商という王朝が傘下の周に滅ぼされた。周の長は武王として新しい王朝を立て、亡き先代の長を初代の王、文王として祀った。
曹操の死後に簒奪が行われるならば、曹操は文王と同じように新しい国の皇帝として
だが、劉備にとってはどの代で行われるかなどどうでも良いことだった。漢帝国が終わりを告げること自体が受け入れられないのだ。
(劉備様は皇族の一人である
許靖は心の中でため息をつくようにそう思った。
真偽のほどはさておき、劉備にとって漢の皇室は他人ではない。その滅亡は受け入れ難いだろう。
だから曹操との戦いは避けることができない。それが劉備の瞳に戦の影が見え隠れしている理由だと許靖は考えていた。
(しかし……そんなもののために戦で苦しむ民の気持ちにもなって欲しいものだ)
許靖の本音はそれだった。
民にとって皇帝の血がどうとか、誰が上に立つかとかは些末なことで、極端な話どうでもいい。日々平穏に生活できることが第一なのだ。
「許靖殿、『国』とはなんだと思う?」
劉備はまた唐突な問いを起こした。
「国……ですか」
「そうだ。国だ。我らは戦う時、少なからず国を背負って戦っている。その国とは、一体なんだと思う?」
許靖の回答に迷いはなかった。自分の中で明確な答えがある。
「国などというものは、ありません」
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