第208話 国

 この時代に大きな声で言えることではなかったが、許靖は本心を話した。劉備の器を見越しての発言だ。


 実際、劉備の大器はこの危険思想を受け入れた。


「なるほどな。国など存在しない、と」


「はい。国とは現実には存在しない虚構の概念です。あるのは民の生活だけ。あえて言うならば、民の生活こそが国と言えるでしょう」


 劉備は許靖の発言を否定せず、むしろ肯定してうなずいた。


「確かに国とは人が作り出した概念に過ぎない。現実に存在しないと言われれば否定できないな」


「そうでしょう。民の生活こそが実体だという理解さえあれば、国のために民が犠牲になるという不可解な事態は減るはずです」


 許靖には国と民との間にある不条理が理解できなかった。


 国のためと言い、民が苦しみ傷つけられる。全くもって本末転倒だ。


「しかし、人の作り出した概念も捨てたものではないぞ。もし国という機構が機能しなければ、盗みも殺しも罰せられることがない。経済の管理が行われることもない。世は力だけが支配する地獄となるだろう」


「その点はおっしゃる通りで、私も法と統治機構は必要かと思います。人はもはや、動物のようには暮らせない」


 許靖もここに関しては同意だった。法と統治機構がなければ、劉備の言う通り地獄だろうと思う。


 許靖は国を否定するわけではなく、国という概念の立ち位置と優先順位に疑問があるのだ。


「そうだろう。そうである以上、国は無いなどというのは思考を停止させるだけだ」


「私が言いたいのは……」


「分かっている。最も大切なのは民の生活だ。国とその機構はそれを守るためにある。そこに関して異論は無いし、それを常に認識するためには国など無いという視点は非常に有用だ」


(そういえば劉備様は若い頃、高名な盧植ロショク門下の学生だったな)


 許靖はそれを思い出していた。


 学問に身の入らない不良学生だったと聞いたことがあるが、さすが盧植門下だけある。勉学は嫌いでも、理解力と議論は強かったのかもしれない。


(いや……この議論の明朗さはそういったものではない気がする。恐らくだが、劉備様が国というものについて長く考え続けてきた結果だな)


 許靖はそう思い直した。


 きっと劉備は許靖の想像もつかないほど深く思い悩んできたのだ。議論をする劉備の顔から、国に対する思いの強さが感じられた。


 劉備は髭を撫で、一拍置いてから議論を続けた。


「では法と統治機構は必要という認識で少し視点を変えよう。曹操の次代が新たな法と統治機構、つまり新たな帝国を建てるとして、その国は永遠に続くだろうか?」


「続かないでしょう。それもいつかは次の国を建てる者に潰されます」


 許靖は明確に断言できた。どのくらいの安定期間があるかは分からないが、腐った漢帝国の末期に高級官僚をしていた許靖にはそれがよく分かる。


 国は人が腐らせる。それは生きるために欲望を持った人のさがのようなものだ。


 ならば、曹家の帝国もいつかは腐るだろう。


「その時、何が起こると思う」


「今のような乱世……でしょうか。もしかしたら今ほど群雄が割拠することは少ないかもしれませんが、少なくとも戦になる可能性は非常に高いでしょう。よしんば平和裏に王朝が変わったとしても、その混乱と反発で民の生活はひどく悪影響を受けます」


「そうだ!民を最も苦しめるのはそこなのだ!」


 劉備は膝を叩いて語調を強くした。


「王朝が変わる時、ほとんどの場合多くの血が流れることになる。多くの民が苦しむことになる。王朝は変わらないことが望ましい。変わるべきではないのだ。そして変わりにくい王朝とは、なんだと思う?」


「それは……」


「長く続いた王朝だ」


 劉備は許靖に意見を言わせまいとしたわけではなく、勢いがあまり過ぎて言葉を遮ってしまった。


 しかし、それでも劉備の勢いは止まらない。


「歴史があれば、人はそれを尊重する。文化として心の奥底に定着するからだ。そうやって、時が帝を冒し難いものにしてくれる。漢帝国は四百年も続いたのだ。それをここで途切れさせてしまうことは、世界的な『損』だと私は思う」


 損、という単語はあまりに低俗な印象を受けるが、それも世界を単位とすれば無視できないものとなる。


 許靖もその点は否定はできなかった。


「確かにそうかもしれません。しかし、やはりそれを守るために戦が起きるのは……」


「では聞くが、さらにもう四百年後、いや千年後、二千年後までのことを考えた時、流れる血の量はどちらが多くなる?」


「それは……」


「漢帝国が二千年続くなら、その方が流れる血は少ないはずだ。私はそう思う」


「……」


 劉備の論は一見筋が通っているように思える。


 しかし、許靖は重大な前提が抜けていると感じた。許靖はそれを指摘した。


「劉備様。漢帝国が今滅亡を免れたとしても、二千年は続きません。いつか潰れるでしょう」


「なぜだ?」


「……はばかりあることですが、為政者に向かない方が帝になることもあるからです」


 許靖は軽い悲しみとともにそれを答えた。


 許靖が若かりし日に仕えた霊帝は、まさにそうだった。


 この帝は必ずしも悪党というわけではない。しかし佞臣ねいしんと銭に惑わされるという、為政者として非常に駄目なところの目立つ人物だった。


 国は人が腐らせる。そうさせてしまう作用が最も大きいのが、帝その人だ。


 許靖はこの議論はこれで終いだと思った。こればかりはどうしようもない真実だ。


 が、劉備はごく軽い調子で反論を返した。


「ならば、元より帝が政の実権を持たない国を建てればいい」


「……は?」


 劉備の意見があまりに異次元であったため、許靖は間の抜けた声を返してしまった。


「帝が……元より実権を持たない?いや、それはちょっと……」


 許靖はもしや冗談かもしれないと思ったが、劉備の顔は大真面目だった。


「なぜだ?何が悪い?私はすでに息子の劉禅リュウゼンと諸葛亮にそうするよう申し付けてあるぞ」


 劉備は重大なことをさらりと言ってのけた。


 この発言には何重にも問題が重ねられている。簡単に発言して良い内容のことではなかった。


「…………」


 許靖はどこから突っ込めばよいのか分からなくなり、口を半開きにさせたまま何も言えなくなった。


 劉備は少々口が滑ったことを後悔したが、許靖の困った様子を見て少し愉快な気分になった。それでこの真面目な臆病者に、もう何でも話してやろうと思った。


「許靖殿を信頼して言ってしまうが、曹操が簒奪さんだつを行ったなら、私はここ益州で帝に即位する。そうやって漢の国を存続させるのだ。そして私が死んだら息子の劉禅が跡を継ぐが、あれは凡庸だ。国家を管理することなどできない」


 許靖は劉禅とまだきちんと面会できていないものの、そういった噂は聞いていた。劉備や他の群雄のように、光るものを持ち合わせていないということだ。


 劉備は真剣な口調で言葉を続けた。


「だから劉禅は帝として、国がその国であるという象徴としてのみ存在し、まつりごとの実権は全て諸葛亮が持つように命じてある。本人たちも了承済みだし、折を見てそのような宣言を公的に出す予定だ。そして国家の初期からそうであれば、次代以降もそうすることが可能だろう。帝は象徴としてのみ存在し、出来る者が国家を管理していくのだ」


 許靖はすべてを告白されても、まだ何も言えなかった。


 事が重大すぎるし、自ら帝になる予定だなどとまともな神経で言えることではない。


 加えて帝は象徴としてのみ存在し、実権は為政者として能力のある他の者が持つという。


 許靖は頭の回転が良い方だったが、それでも混乱した。言っていることを理解するまでに随分と時間がかかった。


 劉備はそれをゆっくり待ってくれた。


 だんだんと理解できてくると、劉備の初めの質問が頭をよぎった。


(曹操殿が簒奪するかどうか、か……なるほど、それが要点になるな)


 帝に実権を持たせず周囲がそれを執行する、という形はまさに今の曹操の状態だ。


 曹操やその跡継ぎたちが簒奪しないのであれば、別に劉備が帝に即位する必要などない。


(しかし、劉備様も諸葛亮殿も簒奪すると踏んだ。だから赤壁では圧倒的不利な状況でも曹操殿と対決し、さらにはこの益州を穫って対抗できるようにした)


 そういうことだろう。


 そして自分はこの益州で帝に即位し、ごく初期から帝以外が実権を持つことを是とする新しい漢帝国を建設する。


 全ては四百年続いた漢を利用して持続可能な王朝を作るため、引いては超長期的な視点での民の苦しみを減らすため、ということになる。


(劉備様は……やはり器が大き過ぎる)


 許靖は打ちのめされたような気分になった。


 自分では絶対にこれほどの大きな視点は持てないし、元より帝に実権を持たせないなどという思い切った選択は考えつきもしない。


 ただ、ここで許靖は一つの素朴な疑問を持った。そしてそれを尋ねる。


「帝が実権を持たないのなら、帝は何をしていればいいのです?」


 劉備はその質問に、少し呆れたような顔をした。


「何を言う。先ほど許靖殿が言ったのだぞ。民こそが国の実体だと」


 そう言われても許靖にはピンとこない。どういうことか全く分からず、首を傾げた。


 劉備は答えを教え諭すようにではなく、気付かせるようにそれを口にした。


「民に寄り添うのだ。それこそが国の象徴となる帝の仕事であり、なすべきことだ」


 許靖は愕然とした。


 国の象徴として存在し、民に寄り添うことを業とする。その事に、目眩のような感覚を覚えた。


 許靖は劉備の国家観の大きさを思うと同時に、次代となる劉禅のことを思った。


「……実権を持たず、国の象徴として存在し、民に寄り添う。そのような重い責務を子孫に背負わせますか」


 劉備は許靖の発言にちょっと驚いたようだった。


 目を丸くして、それから逆に細めて微笑んだ。


「重い責務、か……許靖殿は優しいな。そして国というものをよく分かっている。私の思い描く国にとって、それがどれだけ大切なことか分かってくれるか」


「分かります。分かってしまいます。だから私は……あなたに仕えるしかなくなってしまう」


 許靖は刑場に向かう罪人のような気持ちでそれを言った。実際、同じようなものだったかもしれない。


「しかし……それでもやはり、私は戦を受け入れられません。それでもよろしいでしょうか」


「当たり前だ。国家に戦を止めようとする者がいなくてどうする。あんなもの、起こらない方がいいに決まっているのだ」


 劉備は許靖の肩を抱いた。


 その瞳の奥の「天地」でも、許靖は巨大な劉備によって抱きしめられていた。それはとても心地良いものだった。


(結局この長い腕の内に入れられれば、人は出てこられなくなるのだ……)


 溶けるような諦めとともに、そう結論づけるほかなかった。

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