第206話 茶番

 許靖が会議室へ入った時、一瞬だが劉備が笑った気がした。


 それは暖かな懐かしさを思わせるような、柔らかい表情だった。


(私のことを、良く思ってくれている……?)


 許靖は淡い期待とともにそう思った。


 諸葛亮の話からすると忘れられてはいないようだが、あの助言をしたのはもう何十年も前の話だ。それほど昔の面識を肯定的な記憶として捉えてくれているかなど、知れたものではない。


 しかも、あらためて劉備の顔をよく見ると全くの無表情だった。


 先ほどの笑顔は都合のよい錯覚だったのか。少なくとも今は旧知の者に向ける顔ではない。


(なるようにしか、ならない)


 許靖はまた心中でそうつぶやいた。


 許靖が指定された場に立つと、劉備のそばに立つ臣下が口を開いた。


「では蜀郡太守、許靖の処遇に関する議論を始めます。まずは許靖殿、あなたは太守としてこの度の戦への関与は明らかですが、何か申し開きをしておくべきことはありますか?」


「私は……」


「その汚い口を私の前で開くな!!」


 許靖の言葉は部屋を震わせるような大喝によって遮られた。


 それは劉備の発したものだった。


 眉を吊り上げ、火でも吐きそうな勢いで許靖を睨みつけている。


「許靖よ、この臆病者め。聞けば守るべき民と主君を見捨て、一人成都を脱走しようとしたというではないか。人間の風上にも置けん。このような者の話など、聞く必要はない」


 劉備はそう言って横を向いた。


「いいか、喋るな、よ」


 劉備は妙にゆっくりとそう念を押した。


 許靖は思わぬ激しい罵倒に身をすくませていた。


 まさか、ここまで嫌われているとは想像していなかった。しかも喋るなと言われては申し開きもできない。


(これはいよいよ処刑もありうるな……)


 暗い面持ちでそう思った。


 その思考に応えるかのように、群臣の一人が発言を求めた。


 その男も怒りの表情を浮かべ、許靖を睨みつけながら意見を述べた。


「太守が一人で脱走したとあらば、さぞ民からも嫌われておりましょう。そういった者はこの際処刑した方が民心を得られるのではないでしょうか」


 男の言い方は静かだったが、その視線からはビリビリとした憎しみが感じられた。


 その隠しようのないほど激しい感情から、許靖はこの男は自分が殺した兵の友人だったのではないだろうかと思った。


(ならば殺されても仕方ないかもしれないな……私は、私のしたことの結果を受け入れなければならない)


 許靖は己の罪を思い、そう諦めを持った。


(恨まれても仕方がないのだ。きっと他人はあれこれ庇ってくれるだろうが、大切なものを奪われた側からすればどんな言い訳も意味はない。失ったものは、もう帰って来ないのだから)


 許靖は体から力を抜いて、その憎しみの視線を受け入れた。それ以外に、自分にできることはないのだ。


 劉備は重苦しい口調でその男の意見に応えた。


「よし。では、斬るか」


「お待ちください」


 その時、一人の男が立ち上がった。


 男の顔は、許靖もよく見知っていた。なぜならこの男は戦の前まで許靖の同僚だったからだ。


 名を法正ホウセイという。


 法正。元は劉璋配下で県令(県の長)や校尉(軍の士官)などを歴任していた官吏だ。


 しかし、張松チョウショウ孟達モウタツたちと共謀して劉備を益州内へと招き入れる工作を行った。許靖たちの側からすれば、まさに売国奴だ。


 事が露呈して処刑された張松とは異なり、法正と孟達は早期から劉備の側にいた。それで開戦後もその身が保て、今では劉備陣営における重要人物になっている。


 法正は舌を滑らかに動かして、その考えを述べた。


「世には名声と実力とが釣り合わない者がおりますが、許靖がまさにそれであります。確かに許靖は愚かな臆病者ですが、名士としてその名声が高いのも確かなのです。もし劉備様が高名な許靖を用いなければ、世の人間たちは劉備様が賢人を軽んじていると思うでしょう。それは今後の人材登用にも悪い影響を及ぼします。世間の目をくらませるためにも許靖の臆病は苦い薬として飲み込み、配下として用いるべきだと愚考いたします」


(……何か妙な喋りだな)


 まるで芝居のような文章だと、許靖は感じていた。


 確かに法正は口の達者な男で、上手いことを言って人を動かすのが得意だった。とはいえ、これは妙に違和感のある陳述だ。


 劉備は深々とうなずいた。


「なるほど、一理あるな。では適当な役職を当てて用いるか」


 許靖は劉備の態度にもまた大きな違和感を覚えた。


 つい先ほどまで怒声を浴びせるほど嫌っていたはずなのに、手の平を返すのが早すぎる。


 許靖はそこで、ようやく状況を理解した。


(茶番だ)


 そういうことだろう。色々な違和感を考えると、そうとしか思えなかった。


(劉備殿としては配下の行動を戒めるためにも、脱走するような者を評価するわけにはいかない。だから一度頭を叩いておいて、それから抱き上げたのだ。私に喋らせないようにしたのは、茶番劇の台本が書き換えられると面倒だからだな)


 許靖は多少の馬鹿馬鹿しさを覚えたが、やはり死ななくてもよいものならその方がありがたい。ただ黙って成り行きに任せることにした。


 ただし、処刑を主張した男は茶番劇の役者ではないようだった。法正の言にすぐに反論しようとする。


「しかしこの男は……」


「許靖を配下として迎え入れることとする。具体的な役職などは追って伝えるから、もう下がってよいぞ」


 劉備はあえて言葉を遮り、そう宣言した。


 そして許靖へ向かってひらひらと手を振る。早く出て行け、という意味だろう。


 許靖は劉備に向かって深々と頭を下げ、言われた通りに黙って部屋を後にした。


 背中に感じる憎しみの視線へは、心の中でだけ頭を下げた。

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