第199話 一緒

 薄っすらと目を開けたその瞬間、許靖は桜吹雪に包まれた。


 そして額にこつんと軽い感触を受ける。


 凛とした桜の大樹へ、許靖は優しく額をあずけているようだった。その優しい樹皮の感触が、許靖の傷ついた心を癒やしてくれた。


 これは許靖が世界で一番愛している桜の樹であり、世界で一番安心できる世界だった。


「花琳……」


 許靖は花琳の顔が文字通り目と鼻の先にあることに気づくまで、少し時間がかかった。


 花琳は両手の平で夫の頬を優しく挟み、瞳を合わせて許靖を自分の瞳の奥の「天地」へと導いていた。


 自分を呼ぶ夫の声に応え、花琳は頬を撫でてくれた。そして優しく囁く。


「大丈夫……大丈夫ですよ」


 この桜の木に抱かれてそう言われれば、全ての災いは許靖の中から消え去るしかない。そして、ただ心安らかにいられた。


 目を閉じて、再び安らかな眠りに落ちそうになる。


 しかし年老いてなお明敏な許靖の頭脳は、不幸にも現実を思い出した。


「春鈴と游は?」


 許靖は目をしっかりと見開くと、体を固くしながらすぐにそれを尋ねた。


 花琳はまた優しく答えてくれた。


「大丈夫ですよ。春鈴も游も大きな怪我はしていません。芽衣や凜風、翠蘭も大丈夫。あなたの家族は、みんな大丈夫です」


「……そうか、よかった」


 許靖は長い長い息を吐いて、それからまた体の力を抜いた。


 花琳も許靖の様子に安心したようで、体を起こして顔を離した。


 そこで初めて、許靖は自分が病院の一室にいることを知った。


 昨夜、許游によって気絶させられた許靖は、事が片付いた後この病室に運び込まれて寝かされていた。


 花琳は許游から事情を聞き、目が覚めた時に自分がいることで許靖の精神を安定させようとした。そして、それは見事に功を奏したようだ。


 もし花琳がいなければ、許靖の自我は崩壊していたかもしれない。少しの間だが、許靖はすべての苦痛を忘れることができた。それで己を保つことができたのだった。


「ずっといてくれたのか……ありがとう。花琳のおかけで、私はまだ私でいられる」


「どれだけ辛いことがあっても、私の心はあなたの側にいます。それだけは忘れないでください」


 花琳の笑顔には愛が溢れていた。


 許靖はその愛で胸がいっぱいなり、この愛こそが己の自我の支えなのだということを思い知った。


 とはいえ、昨夜の惨劇の記憶は忘れられるものではない。忘れるべきものでもない。


 許靖はそれも心の奥底に留め置きながら、体を起こした。


「あなた、まだ寝ていてください」


「いや、怪我をしたわけでもないし、もう大丈夫だ。それより成都の状況を教えてくれ」


 花琳は要点だけをかいつまんで答えた。


「夜襲は完全に防げました。城門は開かせませんでしたし、食料庫も守り抜きました。この病院が襲われたのは予想外でしたが、この間まで入っていた要人を殺害することが目的だったそうです。ですが、それもあなたと春鈴、游のおかげで撃退できました。残念ながら警備を手伝ってくれた患者さんお二人が亡くなられましたが、それ以外に病院の被害者は出ていません」


(その二人に加え、自分が殺した五人も被害者だ)


 許靖はそう思ったが、わざわざ口には出さなかった。誰も責めないであろうこの罪は自分だけのもので、自分が忘れなければそれでいい。


「軍と政府はどうなっている?」


「それほど大きな被害はなかったので、両方ともしっかりと機能しています。敵も夜襲を失敗してすぐには攻めてこないだろうというお話でした。劉璋様からあなたへ、しばらくはゆっくり休んでいて欲しいという伝言をいただいています」


 許靖は目を閉じて、首を横に振った。確かに心身ともに疲弊してはいるが、ゆっくり休んでいたいなどとは微塵も思わなかった。


(人が人を殺す……これがどれほど異常なことか、やはり頭だけでは理解などできない。劉璋様はお優しいが、結局のところ戦の恐ろしさなど経験してみなければ分からないのだ)


 許靖はそう思いつつも、戦など必要に迫られても経験すべきではないとも思っている。


 董卓は『戦を分かれ』と言って自分に殺戮をなさせた。その結果が今の自分の様だ。こんな重い荷物は例え事情があろうとも抱えるべきではない。


 一つの矛盾を背中に負いつつ、許靖は立ち上がって廊下へと向かった。


「……あなた、どちらへ?劉璋様のおっしゃる通り、休んでいてください」


 花琳は嫌な予感を抱きつつ、行き先を尋ねた。


「そういうわけにもいかない。私には私の成すべき事がある。花琳には花琳の戦いがあったように、私にも私の戦いがあるんだ」


「あなたも昨夜は十分戦いました」


「あれは私にとっての戦いではない。花琳にもそれは分かるはずだ。だから、行かなくてはならない」


 花琳は反射的に許靖の腕を掴んでいた。


 しかし夫の目を見て、それをゆっくりと離した。


 許靖は自分の胸を叩きながら笑った。


「私は、花琳が私のここにいてくれることをよく知っている。だから……」


 許靖は最後まで言わなかった。それでも妻は分かってくれると思った。


 花琳は一瞬だけ泣きそうな顔をしながらも、無理に笑って見せた。


 そして許靖がしたのと同じように、自分の胸を叩いてみせた。


「私も、あなたが私のここにいることを知っています。だから……」


 花琳もその先を言葉にしようとはしなかった。


 二人にとって、それで十分だった。だから一度だけ互いを抱きしめ合い、それから許靖は病室を出ていった。


 花琳はついて行こうとはしなかった。ただ夫の出ていった方を見ながら、胸に両手を添えた。


 そこには自分に寄り添ってくれる確かな暖かさが存在している。


(だから、私たちはどんな事があっても、どれだけ離れていても、ずっと一緒だ)


 それはもはや、確認する必要すらない純然たる事実だった。

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