第200話 脱走
許靖は成都の街を城門の方へ向かって歩いた。
夜襲を上手く防げたとはいえ、住民たちはまだ警戒する気持ちが強いのだろう。皆家にこもっているらしく、兵以外にはあまり出会わなかった。
たまにすれ違う者も、目を伏せて足早に通り過ぎていく。
許靖は静かな道をただ歩いたが、それが城門の近くまで来ると打って変わった事態になった。
「……許靖様?おい皆!許靖様がいらしたぞ!英雄のお出ましだ!」
一人の兵が許靖を見つけ、大声を上げた。それで多くの兵が集まって来て、すぐに城門近くに人だかりができた。
夜襲から一夜明け、許靖は知らぬ間に成都城の英雄になっていた。
(私が早めに軍を動かしたからか、敵を五人斬ったからか、それとも家族たちが活躍したからか)
許靖はどれが英雄になるための条件だったのかを少し考えたが、すぐにその思考を止めた。許靖にとって、そんなことは心底どうでもいいことだった。
とはいえ、太守自らが五人も斬って傷病人を守ったのだ。その人気はうなぎ登りになっていた。
そもそも許靖は開戦以降、太守としてあまり評判が良くなかった。
理由は単純で、許靖が戦に関して門外漢だからだ。戦を望むにあたって太守が弱いと聞けば、誰もが不安を感じるだろう。
もともと民政に関しては定評があったので民からは好かれていたのだが、有事に喜ばれるような太守ではない。
が、今回のことでそれが逆に作用した。これまで低評価だったがゆえに、反発的にひどく高評価になったのだ。
「許靖!許靖!許靖!」
兵たちが揃って名を連呼し始めた。
(英雄か……)
許靖はその響きの馬鹿馬鹿しさを思いつつ、特になんの反応もせず無言で城門へと歩いた。
城門の前に立つ一人の番兵のところへ行き、声をかける。
「ご苦労さまです。手数ですが、城門を少し開けてください。今から私だけで成都城を脱走して、降伏に行くので」
脱走。
許靖はそれをごく軽い口調で言った。まるで、散歩にでも行ってくるかのような様子だった。
言われた番兵は笑った。それはそうだろう。誰が聞いても、冗談にしか聞こえなかったはずだ。
「降伏ですか。自分には脱走者を取り締まる役務がありますから、太守様を捕縛せねばなりませんな」
許靖は笑わずにうなずいた。
「ええ、そうでしょう。任務に忠実で素晴らしい。では手早く縛り上げて、劉璋様の所へ連れて行ってください」
許靖は捕縛されるために、両腕を後ろに組んで番兵へと向けた。
番兵はまた笑った。この太守は真面目な人間だという噂だったが、聞いていたよりもずっと面白い人間らしい。
番兵は笑うばかりで、許靖を縛ろうとはしない。
許靖は仕方なく、城門の開閉装置のあるところへ向かった。そして、それに手をかけようとする。
番兵もさすがにそれは止めようとした。
「太守様、そこは冗談で触って良いところではありませんので……」
しかし、許靖はなおも城門を開けようとする。
「冗談ではありません。私は脱走するつもりです。あなたは、あなたの仕事をしてください」
許靖と番兵は同じようなやり取りを何度もした。
そしてそれが十度目になった時、番兵は許靖がずっと真顔でいることにようやく違和感を覚えた。
(太守様……気でも触れたか?)
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