第198話 鬼
春鈴は自分の体を見下ろしながら、突然動けるようになった自分に驚いていた。
あまりにあっけなく動けるようになったので、今までの自分を馬鹿馬鹿しく感じてしまう。
「誰が犬だと!この野郎!」
許游の言い草に腹を立てたのは春鈴ばかりではない。犬呼ばわりされた兵たちも当然怒った。
ただし、許游にとってはそれも計算のうちだった。相手が怒れば怒るほど、その心は単純化されて読みやすくなる。許游にとっては願ったり叶ったりの状況だ。
兵の一人が目を釣り上げ、鼻筋にしわを寄せながら斬りかかってくる。許游にはその動きがあらかじめ分かっていた。
が、何もしなかった。許游はその兵を無視し、まだ距離のある別の兵の方へと構えていた。
無視した理由は簡単だ。許游が何もしなくても、その兵は倒れることになる。
「はぁっ!」
気合の声とともに、春鈴の飛び蹴りが兵の横っ面を撃ち抜いた。
兵は吹き飛び、他の兵へ衝突して止まった。当たりどころが悪かったのか、ぶつかられた兵もまとめて動かなくなった。
「誰が犬かしらね?今のは犬どころか、小鳥くらいだったけど」
春鈴はしなやかな髪をかき上げながら、兵たちへ向かって高飛車に言い放った。
その挑発に、一際大きな体格をした兵が敏感に反応した。
「このアマがぁ!!」
地響きでも起こしそうな怒声と足音を立てて、春鈴へと駆けてくる。
勢いを乗せた剣を斜めに構え、右袈裟に振り下ろしてきた。
(相手の力が強い……翠蘭さんならこうするな)
春鈴は斬撃に手甲を沿わせつつ、微妙に横への力をかけた。すると剣の軌跡はぐにゃりと曲がり、春鈴を避けて地面に突き刺さった。
それと同時に、春鈴の掌底も兵の顎へと突き刺さっている。
斬撃をそらしつつ、体を半回転させながら反対の掌を突き出していたのだ。大して力は加えていないが、相手の向かってくる力が強かったのでかなりの衝撃になっている。
兵は即座に意識を失い、その場に崩れ落ちた。
(まだまだだな。翠蘭さんなら斬撃をそらすだけじゃなくて相手の足にぶつけてる。それに私は手甲がないと無理だけど、翠蘭さんなら素手でもいけるかも)
春鈴はしとやかな姉弟子の動きを思い浮かべながら、そう反省した。
倒された兵は隊の中でも強者だったらしく、兵たちの間には動揺が走っていた。
春鈴はその瞬間を見逃さない。やや離れていた兵の所へ、一足飛びに跳ねた。
「はぁああっ!!」
気合の声とともに、拳を連続で繰り出す。
それを受ける兵としては、目の前にまっすぐ来られたのだから普通なら対処の仕様もあったろう。が、春鈴の踏み込みと拳は予想を遥かに上回る速度だった。
(もっと速く、もっと……凜風さんならまだまだ速い!)
春鈴は陽気な姉弟子の姿を思い浮かべながら、突きの回転を上げていく。兵の握っていた剣はすぐに弾き飛ばされ、拳が体中に刺さった。
やや過剰な打撃を食らった兵が倒れようとする時、横あいから別の兵が斬りかかってきた。
(お母さんの動きは……こう)
途端に春鈴の姿が歪み、斬りかかった兵は目を疑った。
ふらふらとした微妙な動きによって、春鈴の体はまるで蜃気楼のように揺らめいている。
兵は目測を誤り、剣を空振らせてしまった。そこへ春鈴の鋭い金的が食らいつく。
兵は悶絶しながら倒れ込んだ。
(……お母さんの動きは難しいな。やっぱり実際にお酒を飲んでみないと、感覚が分からないのかも)
春鈴はまだ酒を飲んだことがなかった。
昔ふざけて酒を口にしようとした時に、祖父である陶深から『お願いだから、お前だけは飲まないでおくれ』と涙ながらに哀願されて以来、なんとなく酒は避けている。
(でも、何事も経験かな)
春鈴は陶深が聞いたら絶望しかねない事を心中で思った。
股間を押さえてうずくまる兵の上を、剣の切っ先が疾走った。後ろにいた兵が鋭い突きを放ってきたのだ。
春鈴は瞬時にその軌道を予想し、紙一重のところを前に進んだ。
(靖じい様はぎりぎりでかわしながら、一撃必殺を狙ってた。相手の動きが読めれば……)
春鈴は踏み込みながら、肘を兵の顎へとぶつけた。その一撃はきれいに決まり敵は意識を失ったが、春鈴の服の裾もはらりと切れた。
(これは……危ないな。かなり正確に相手の動きが読めないと)
そう思いながら、横目で許游の方を見た。
許游は相変わらず相手の初動を押さえながら、ほとんど一撃で敵を倒している。
(游くらい読めたらいいんだろうけど……あれはまだ今の私には無理ね)
春鈴は歯噛みして、今現在の敗北を認めた。
実際に本気で戦えばどちらが勝つかは分からなったが、その想定に意味はない。弟は絶対に今日のような本気の戦いはしないだろう。
ただ春鈴は、弟にできて自分にできないことが悔しかった。
こと武術において、春鈴は他人の優れた動きを取り入れることが得意だった。そうやって人よりも早く成長してきたのだ。
(いつかあれも出来るようになってやる。それに、花琳ばあ様の技だって……)
春鈴は兵たちの中に立つ一人の男に目を向けた。先ほど許游を囲めと指示していた男だ。
その男は他の兵たちに比べ、少々派手な鎧兜を身につけていた。
夜の潜入任務であるからほとんどの兵は軽めの武装にしてある。しかし、その男の兜には飾りの角までついていた。
(あれがきっと今の頭だ)
春鈴は本能的にそう感じた。
男の格好だけではなく、兵たちの立ち位置からもそうであろうと推察されたのだ。
本来の隊長は祖父に
(あれをやれば、戦いやすくなる)
春鈴はそう判断したが、そこへ行くためにはまだ兵が何人もいる。やはりその男を守るような配置になっていた。
春鈴が頭の中で攻め方を組み立てていると、後ろから一人の兵が両腕を大きく広げて突っ込んできた。
やられる覚悟で体ごとぶつかり、春鈴の動きを止めようとしているのだ。
春鈴は、その勢いだけの単純な突進を嬉々として迎え入れた。
「おあつらえむきっ!」
瞬時に兵の腕と服を掴むと、相手の勢いを利用して思いきり投げ飛ばした。
通常であれば投げる時にどう地面へぶつけるかを考えながら投げるが、今はとにかく勢いをつけて遠くまで飛ぶように投げた。
もちろん投げた方向は今の指揮官と思われる男のいる方だ。その男と春鈴との間に立っていた兵たちが、飛んできた来た兵にぶつかって次々と倒された。
(道が空いた!)
倒された兵たちはすぐに起き上がるだろうが、春鈴はこの短い好機を逃さない。音が鳴るほどに地面を蹴って、一瞬で指揮官の男との間合いを詰めた。
男は慌てて剣を構え、上段から振り下ろした。が、春鈴の踏み込みが速過ぎて心積もりができていなかったらしく、腰が入っていない。
春鈴は男の手を柄ごと蹴り上げて、剣を宙に舞わせた。そして間髪入れず、顔面に向かって気当たりを放つ。
鎧兜に覆われていない顔を狙われると思った男は、反射的に両腕で顔を守った。が、春鈴の本当の狙いはもっと下だった。
「はあっ!」
気合を込め、鎧で覆われた腹部へと掌底を食らわせた。鎧の上からでも衝撃で倒せる特殊な掌底で、花琳直伝の技だ。
くらった瞬間男の体はビクリと震え、二つに折れてその場にうずくまった。からりと派手な兜が脱げて、額を地面につける。
まだ意識はあるようだが、まともに動けそうな様子ではなかった。
(まだまだね……花琳ばあ様なら一撃で意識も失わせていたはずだもの)
春鈴はそう思いながら、容赦なく男の後頭部を踏み抜いた。
鈍い音がして、男は完全に動かなくなった。
許游は指揮官を倒す姉の功績を、敵の顎を蹴り上げつつ視界におさめていた。
そして大の男の頭を無慈悲に踏みにじる姉の姿を見て、身震いしながらつぶやいた。
「やっぱり鬼だ……」
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