第177話 凉糕と蜂蜜
「厳寿殿、文成殿、少しよろしいでしょうか。別室でお話したいことがあるのですが」
許靖は茶会を終えて帰ろうとする二人を呼び止めた。
そして二人が返事を返す前にさっさと歩き始める。まるで相手に選択肢を与えないような言動だった。
「……かしこまりました」
二人は一応返事をしてから許靖の後を追いかけた。
廊下を進み、茶会の会場から少し離れた一室に入ると、そこには花琳と
そして部屋の中央に据えられた卓に、
厳寿と文成は何事かを感じ取ったのか、体中の筋肉を強張らせた。顔から血の気が引き、背中から冷や汗が吹き出すのを感じる。
許靖が見る瞳の奥の「天地」では、猿たちが一斉に木の高い所へ避難を始めていた。ひどく怯えている様子だ。
副官の張裔が皿を手で示しながら、厳寿と文成に冷ややかに告げた。
「お二人共、凉糕がとてもお好きなようでしたのでもう一皿ずつ用意させました。どうぞお食べ下さい」
二人はすぐに答えられず、言葉をつまらせた。
そして軽く歯ぎしりしてから、やがて厳寿がおずおずと口を開いた。
「これは……新たに作らせたものですか?」
張裔は無表情にかぶりを振った。
「いいえ、本来なら許靖様と趙才様のお二人に出されるはずだったものです」
それで二人の態度は決定的になった。口元を引き締め、素早い動作で踵を返す。
「腹具合が悪いので結構です」
「厠へ駆け込みたいので失礼」
そう言って部屋の外へと足を踏み出そうした時、何かが二人の前を横切った。
そしてその直後、二人は後ろに倒れて床に尻をついていた。
二人は横切ったものが突風か何かだと感じたが、それは花琳だった。素早く足払いをかけながら二人の前を通り過ぎたにすぎない。
「申し訳ございません、お二人の足が長いので引っかかってしまいましたわ」
花琳は尻餅をついた二人を見下ろしながら、冷たく言い放った。
それから文成の方へ歩み寄り、その袖口に手刀をかすめさせた。
「失礼」
短い言葉とともに袖口がパッと裂けて、中から小さな革袋が落ちた。液体を入れる革袋で、先が細くなって栓がされている。
文成が急いで拾おうとしたが、花琳のほうが早い。それを素早く持ち上げて栓を抜いた。
そして匂いを嗅ぐ。
「……中身は蜂蜜ですが、この匂いはただの蜂蜜ではありません。何かが混ぜてあります。そして、あの凉糕からも同じ匂いがしています。お二人が陳祗と一緒に控室に行った時、隙を見ておかけになったのでしょう?何が混ぜられているのです?」
厳寿も文成も答えようとしない。唇を噛んでよそを向いていた。
花琳は構わず続けた。
「お答えいただけませんか。なら私の方から言わせていただきます。この蜂蜜に混ぜられているのは
厳寿と文成の表情がはっきりと歪んだ。
図星を突かれたのだということが、誰の目にも明らかだった。
トリカブトの成分であるアコニチン類は猛毒だ。その初期症状は口唇や舌の痺れ程度だが、次第に痺れが手足にも現れ、じきに嘔吐、腹痛、下痢、不整脈、血圧低下などを引き起こす。
そして最終的には痙攣や呼吸不全に至って、死亡することもある。
致死量はほんの二~六ミリグラム程度と言われるが、明らかにそれに達していないような摂取量での死亡例も報告されている。
ただしアコニチンは塩類や熱により加水分解を受けるので、弱毒化が可能だ。そうやって弱毒化されたものは、この時代でもすでに薬として用いられていた。
現に花琳は冷え症の対策として、毎日附子を摂取していた。それでその匂いがはっきりと分かったのだ。
「しかも、薬として通常使われるものとは匂いが少し違います。恐らく弱毒化せず、それどころかもしかしたら毒を濃縮させたものが入っているのではありませんか?」
花梨の鼻の良さは尋常ではない。先ほども文成に一目会っただけで、袖口からトリカブトの匂いがしていることに気がついた。
それですぐに控室の凉糕の匂いを確認して、毒蜂蜜のかけられたものを特定してよけておいたのだった。
張裔が花琳と並んで二人の前に立った。逃さないように、部屋の入口を塞ぐ位置に陣取ったのだ。
「蜂蜜に混ぜるとは考えましたね。確かにこれなら味も匂いも分かりづらくなる」
張裔は別に褒めるつもりもなかったが、手法自体には素直に感心していた。
蜂蜜は味も風味も強い上に、混ぜたものを包み込むとろみがある。結果として混入物の存在を隠しやすいため、現代においても飲みづらい薬を飲ませる際にはよく用いられている。漢方と味の相性も良い。
ただし蜂蜜にはボツリヌス毒素が含まれている可能性があるため、一歳未満には与えてはいけない。その点、注意が必要だ。
口をつぐんで何も答えない二人に対し、張裔が容赦なく言い渡した。
「袖口から毒物が出てきたのですから、もう言い逃れはできません。大人しく罪を認めて話されたほうがよろしい」
厳寿は鼻筋にシワを作って、吐き捨てるように言った。
「……おかしいと思ったのだ。待てど暮らせど、毒が効いている様子は見られなかった。あの時点で逃げていればよかった」
トリカブトの中毒症状は、食後十分から二十分以内に発症することが多い 。聞いていた話と違ったのだろう。
それで二人は茶会の時間が進むにつれて怪訝な顔をしていたのだった。
文成も厳寿に同意した。
「左様。毒などと、普段使わないものを使おうとしたから妙なことになった。それが失敗の原因だ」
それを聞いた許靖は、さすがに強い口調で二人に言葉を投げつけた。
「原因も何も……そもそも暗殺など考えないでください!」
厳寿と文成は太守からの叱責に身を縮ませた。
が、すぐに厳寿が首を伸ばし直して言い返した。
「……しかし許靖様。以前にもお話しした通り、あのよそ者は巴郡の秩序を乱す者です。もちろん取る手段として好ましいものではありませんが、民の生活を考えれば絶対に良い結果をもたらすと、自信を持って言えます」
文成も厳寿に続いた。
「左様。あの男はどんなものでも競争で良くなると自信満々にのたまって、好き放題やっております。ですが実際のところ、巴郡は混乱しております。苦しんでいる民が多くいるのです。まぁ、あのよそ者には巴郡がどうなろうと知ったことではないのかもしれませんが」
文成の言うことは、ある意味で正しい。少なくとも今の巴郡では競争の悪いところばかりが顕在化していた。
(しかし、それとこれとは分けて考えなくてはならない)
許靖は二人の反論には耳を貸さなかった。罪の有無とその事情についてはまず一旦分けて考える必要がある。
「それは人を殺そうとしていい理由にはなりません」
許靖はきっぱりとそう伝えた。言外に、情状酌量で罪を消すことはしないと伝えたのだ。
厳寿も文成もさすがにそこまで期待はしていなかったものの、この点は反論もできないので押し黙ってうつむいた。
「厳寿殿と文成殿にいくつか言いたいことがあります。よく聞いてください」
許靖は二人へ交互に視線を落としながら言葉を選んだ。
「まず第一に、人の命の重さというものを思って下さい。それを奪うことはほとんどの場合、正当化できないものだと私は考えています。これは太守の仕事とは矛盾しますが……しかし私としては、たとえ戦であってもそれは正当化してはいけないことだと思っています」
太守は戦や治安維持などの仕事も負うし、時には人の処刑を決めなければならないこともある。人を死に追いやることの多い仕事だ。
つい先日も、厳顔に命じて賊を討たせた。小規模とはいえ、戦を命じたのだ。
命じながら、董卓に負わされた心の傷に胸を締め上げられた。激しい動悸と息切れに襲われて、床に膝をついた。
厳顔がすぐに医者を呼ぼうとしたが、断った。それで自分が死ぬなら、仕方のないことだと思った。
その時は幸い花琳の名が彫られた指輪に触れているうちに良くなったが、今でも胸を
(もし自分に優れた知恵があり、人の死を避ける道を見出だせたなら……)
その悔恨が今も続いていた。人をそう簡単に殺すべきではない。
許靖は胸の疼きを再認しながら言葉を続けた。
「……第二に、もし今回の暗殺が成功していたら、不幸になる人間がもう一人増えていたはずです。お二人もそれは分かっていたのではありませんか?」
問われた厳寿・文成はかぶりを振った。
「もう一人?許靖様も御存知の通り、我らは許靖様が毒入りの凉糕を食べぬよう配慮いたしましたぞ」
「左様。別に世辞ではなく、我らはあなたを良い太守だと思っています。賄賂も効かず、思い通りにはならない方ですが、それでもあなたがこの地の民を思ってくださることを知っている。許靖様を傷つける意図は元よりありません」
二人の言う通り、厳寿は許靖の凉糕に虫が止まったと騒ぎ立てて下げさせている。
確かに許靖を害するつもりはなかっただろう。
が、許靖が言いたいことはそれではない。
「そう言ってもらえるのは嬉しいことですが、そこではありません。私が言いたいのは『もし毒殺が成功していたら誰が犯人だと思われるか?』ということです。世間では、誰が犯人だということになるでしょうか?」
二人は急に口をつぐんでその質問には答えなかった。床に目を落として反応を示さない。
仕方ないので許靖が口を開いた。
「……世間では恐らく、陳祗が犯人だと思われるでしょうね。お二人もそれは分かっていたのではありませんか?」
二人はそう言われても何も答えなかったが、この場合答えないということがそのまま肯定に繋がる。
陳祗は趙才が自分の祖父を毒殺したと言って騒ぎを起こしている。これは巴郡中の噂になっていることだ。
これまで許靖はその誤解を解こうと努力してきたが、噂というものは意図して止められるものではない。しかも趙才は一部の人間からひどく嫌われていたから、悪い噂は簡単に尾ひれがついて広がっていた。
さらに陳祗は茶会が始まって以来、ずっと茶受けを給仕する係だ。直接毒入り凉糕に触るのだから、事件への関与を疑われて当然の立場にある。
文成は首を横に振った。
「……許靖様ご自身がお兄様の毒殺は誤解だとご認識されているのです。ならば、陳祗殿が疑われることはないと考えるのが妥当でしょう」
文成は苦しそうにそう言ったが、実際それは苦しい言い訳だった。
許靖もそう断じて首を横に振る。
「公的に有罪にならなければ構わない、ということですか?それでも陳祗に対する世間の疑いの目は消えないでしょう。そうなったら、陳祗がこれからどんな辛い目に遭うか……どんな人生を送ることになるか……私は、あなた方がうちの子を傷つけるところだったという事実に関しても、かなり怒っているのですよ」
これまで無言で成り行きを眺めていた陳祗は、急に目頭が熱くなってくるのを感じた。
自分は数ヶ月前、最愛の祖父を亡くした。しかし会ってまだ長くもない大叔父が、ここまで自分のことを思ってくれている。
(私は、愛されているのだ)
そう思える事は、まだ少年といえるような年齢の陳祗にはこの上なく安心できる事だった。
許靖は普段から怒りを表に出すことをめったにしない。事実、太守に就任してから和やかな顔ばかりを見せてきた。
そんな許靖にはっきり怒っていると言われると、厳寿も文成も身の縮む思いがした。実際、肩をすくませて身を小さくしている。
怒り慣れていない許靖はそんな二人に僅かばかりの憐憫を感じていた。
が、当然それで許すわけにもいかない。さらに言葉を重ねた。
「そして、最後にもう一つだけ言わせて下さい。お二人は一言目には趙才殿のことをよそ者と言い、二言目には巴郡の民のためと言います。ですが私からすれば、趙才殿とて疑いようもなく巴郡の民です。どこから来たか、どんな血を引いているか、そんな事は些末なことです。この地に生きる者は皆、平等にこの地の民なのです。出身や血筋などで差別することを、私は絶対に許しません」
それは、許靖にしては強い語調で放たれた言葉だった。それだけ強い思いがこもっていた。
「野の猿たちでも、よその群れから来た者を受け入れると聞きます。それを人に出来ないはずがない。それに、『受け入れることができる』という事が、そのまま人の器の大きさなのだとは思いませんか」
厳寿と文成の瞳の奥の「天地」では、猿たちが群れを作って生活している。この言葉は二人の心に強く響いた。
そして後悔とともに、二人は深く頭を垂れた。
それと同時に、廊下の外でゴトリと物が落ちる音がした。
全員が一斉にそちらに目を向ける。誰かが外で立ち聞きしていたのだ。
それから少しの間を置いて、一人の男が部屋へと入ってきた。
今落としたものと思われる手荷物を抱えたその男は、つい先ほどあわや毒殺されかけた趙才だった。
よく見ると、その目元と袖口が少しだけ濡れていた。
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