第173話 団結と過当要求

「組合?組合……いえ、私はまだ何も聞いていませんね」


 許靖は首を傾げた。


 一言に組合といっても色々な団体が想定できるが、今話題になりそうな組合は思いつかなかった。


「そうですか。まぁ当事者の私も少し前に初めて聞いたのですから、太守様の耳に入るのはもう少し話が大きくなってからでしょうね」


 趙才の言う通り、太守となると逆に情報の入りが遅くなることもあった。治める範囲が広いので、情報を厳選しないと手が回らない。


 結果、後手にはなるが実際に問題が生じてから耳に入る場合も出てくる。


「何の組合です?」


「生産者の組合です。むしろ草鞋わらじなど、わらやい草を使った雑貨を作る人間たちがまとまって組合を作ったのです」


「藁やい草製品の生産者……」


「そうです。といっても、そもそも農民が農業の片手間に作ってることも多いので生産者というほど大層なものは一握りですが。ただ、それらを買い上げて卸している業者がいます。こちらはそれなりの規模でして、その業者が生産者たちをまとめあげて組合を作ったのです」


 許靖は趙才の説明を聞き、少し考えてから自分の推測を口にした。


「……価格の引き上げ、ですか」


 その一言に趙才は目を丸くして驚くとともに、この頭脳明晰な太守に対する評価をさらに高めた。


「さすがは許靖様ですね……おっしゃる通り、団結することで価格交渉を有利に進めるための組合です。まぁ本人たちは品質向上だとか組合員の共助だとかも謳っていますが、結局のところ価格の引き上げが狙いですよ」


 許靖もそうだろうと感じた。


 ほとんどの生産者が組合に加入して価格決定を委ねれば、価格競争は起こらなくなる。値段は上げたい放題だろう。


(競争を否定したやり口だ。趙才殿はさぞ腹立たしかろうが……)


 しかし、と許靖は思う。


 これはそもそも趙才の値下げ圧力が強すぎた結果だろう。それに耐えきれずに対抗しようとし始めた者がいたわけだ。


 追い込まれれば、鼠だって猫を噛むことがある。


「趙才殿。私は太守として、生産者たちから趙才殿の値下げ圧力がきつ過ぎるという陳情は受けていましたが……」


 許靖は暗に、自業自得ではないか、ということを伝えてみた。


 しかし趙才は大きく首を横に振った。


「彼らがただ値下げ交渉に対抗しているのなら私も理解できます。しかし向こうの要求しているのは元の価格どころか、私が巴郡に来る前よりも三割高いのですよ」


「三割!?」


 許靖は驚いた。


 藁やい草などを使った製品は、この時代の生活必需品ばかりだ。それが三割も上がるとなると、民の生活にも深刻な影響を及ぼすだろう。


「組合は何を根拠に三割も上げろと言っているのですか?」


「不作で原材料の価値が三割程度上がっているから、と言っています。確かに不作気味ではありましたが、調べさせても三割という数字は出てきません。それに商品の価格は原材料の価格そのものではなく、人件費や利益などを上乗せしたものが売値になるのです。ですから仮に原材料の価格が三割上がっても、それで売値が三割上がるということはありえません」


「私もその通りだと思いますし、藁やい草が三割も減産しているという話は聞きません」


「でしょう?私が組合にそう言ってやったら『今までの価格が低すぎたからその調整だ』などと言うのです。ならもう、これはただの独占販売による不当な価格の吊り上げに他なりません」


 許靖は口元に手を当てて唸った。こうなると、さすがに太守としても見過ごせなくなる。


 もちろん三割増というのは交渉の初手で提示した価格であるから、組合側もそのまま通るとは思っていないだろう。だとしても、極端な価格の吊り上げを意図しているのは確かなようだ。


 恐らく趙才のような小売店の主たちだけでなく、民全体へ見過ごせない影響が出るはずだ。


「分かりました、私が太守として組合と話を……」


「いえ、許靖様の手を煩わすことはありません。もう少しご静観を」


 趙才は許靖の申し出を言下に断った。


(……?普通ならむしろ太守の仲裁を喜びそうなものだが)


 許靖の疑問に答えるように、趙才はすぐにその理由を教えてくれた。


 唇の端をニヤリと上げて言葉を続ける。


「一部の生産者に、組合から抜ければ五割増の価格で買い上げると声を掛けています。すでに色良い返事もいくつかもらいました。組合の存続自体、時間の問題でしょう」


 今度は許靖の唇の端が上がった。


 しかしその表情は趙才と違い、苦々しいものだった。


(組合潰しか……さすがだな。迅速で効果的な手段だ)


 組合が団結して価格を吊り上げるなら、その団結を崩す。特に自らの利に釣られて脱退したとなれば、同業者内でひどく揉めるのは目に見えていた。


 しかし、それはそれで太守としては困るのだ。


 憎しみが増えれば、揉め事が増える。郡内の揉め事が増えるのは避けたい。


「趙才殿……太守としては、郡内の民がいがみ合うようなことは出来るだけ避けたいのですが……」


「おっしゃることは分かりますが、組合に入るのも出るのも何ら違法なことではないでしょう。太守様が何かされるべき事案ではないと思います」


 そこを突かれると許靖は痛い。


 話をして仲裁案を提示することは出来るが、何かを命じるとなるとやはり法的な根拠が欲しい。せめてこの時代の倫理規範である儒教的な根拠が要る。


 もちろん太守の強権で命じることも出来ないではないが、許靖は根拠無しでそうするのは可能な限り避けたかった。それをやってしまえば太守の権能に歯止めが効かなくなる。


「それに、許靖様が商売に口を出されることに批判的な役人も多いのでしょう?」


 この指摘も許靖にとっては耳が痛い。


 この時代、政治家・行政官が商売に関わることを不浄だと考える者も多かった。


 許靖からすればむしろ経済こそが政治・行政の中心に置かれるべきだという認識だったが、あまり大きな声で言える時代ではないのだ。


 許靖が何と言ったら良いものか悩んでいる間に、趙才は厳顔と文立へと顔を向けた。


「しかし、厳寿様と文成様も大変でしょうね。こういった状況ですから、立場上あちこちから正反対の事を頼み込まれるでしょう?揉め事の相談も多いと思います。私だったら人が訪ねてくるのが恐ろしくてたまらなくなりそうですよ」


 厳顔と文立は目を丸くして顔を見合わせた。


 そしてしばらく考えてから、


「あぁ……」


と同じ様にうなずいた。それぞれの一族の長たちが抱えている問題にようやく気づいたのだ。


 厳寿と文成はこれまで豪族の長として、生産者たちから趙才の値下げ圧力に関する陳情を受けてきた。


 しかし、組合の立ち上げは趙才以外の小売業者にも深刻な打撃を与えているだろう。今度は卸値の吊り上げに困った小売業者たちから泣きつかれているはずだ。


 生産者と販売者。どちらかを立てれば、どちらかが立たない。


 地域全体を見なければならない豪族の長として、板挟みになっているのだ。


 そこへさらに、組合潰しの影響で増えた揉め事の相談まで持ち込まれる。揉め事ほど人の心を蝕むものはない。


 趙才の言う通り、心的負荷から人のおとない恐怖に変わってもおかしくはないだろう。


(そして、それ私にとっても他人事でない)


 その一族・地域で解決しない問題は、じきに太守の元まで上がってくるだろう。


(今から頭が痛くなりそうだ……)


 許靖は趙才のようにただ同情していればいいというものではなかった。近い将来、同じ状況に陥ることが予想されるのだ。


(しかし、趙才殿は同情する立場にないだろう。そもそも事の起こりも趙才殿なら、悪化させているのも趙才殿だ)


 許靖はそんなことを思いながら、改めて趙才の才気走った目元を眺めた。


 そもそものことを言うと、全てはこの男が商人として優秀すぎるために生じている問題だ。


 値下げ圧力も組合潰しも、商人に最も求められる『利』というものをもたらす。そして、それは経済活動上ある程度認められるべきものであるということが何よりも厄介だった。


 趙才は許靖の視線にふと気づいたように、一言付け加えた。


「……まぁ厳寿様も文成様も私のことを嫌っておいでですから、私に同情されても嫌な気持ちしかされないでしょうが」


 向けられた視線の意味を多少勘違いしてはいたが、少なくとも嫌われているという自覚はあるようだ。


(せめて趙才殿と厳寿殿、文成殿が仲良くなれれば良いのだが……)


 それが具体的な解決策ではないと分かっていながらも、許靖はとりあえずその程度のことしか思いつかなかった。


 どんな揉め事も、人と人との繋がりで解決することが多いものだ。


「趙才殿。次の茶会の席ですが、私と厳寿殿、文成殿、そして趙才殿の四人で一つの卓を囲もうと思うのですが、よろしいですか?美味しい凉糕りゃんがおを用意させておきますので」


 凉糕はこの時代からある益州の伝統的な甘味で、米から作ったゼリーのようなものに蜜をかけて食べる。


 冷たく爽やかな味わいで、特に暑い時期に食べると気持ちまで涼やかになる食べ物だ。


 趙才は甘い物が嫌いではないし、厳寿、文成との仲を太守が取り持ってくれるならこれ以上の申し出はない。


 その細い眉を少し上げ、それから優秀な商人らしい柔和な笑みを浮かべてうなずいた。


 許靖は趙才が嫌いではなかったし、その笑顔も魅力的なものだと思ったが、今はその魅力こそが頭痛の種になるのだった。

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