第174話 陳情と板挟み

「ですから私としては、一度関係者に集まってもらい、話し合いの場を設けるのがいいのではないかと……」


 許靖は厳寿と文成の顔を交互に見ながら話していた。


 が、なぜか二人の目は許靖の目と微妙に合わない。許靖の目のやや左下を見ているように感じられる。


 許靖は真剣に話していたのだが、どうも相手の注意が別に向いているように思えた。


「……私の顔になにか付いていますか?」


「え?あ、はい。湿布が……」


 許靖の確認に、文成がふと我に返ったようにそう答えた。


(そうだった……私は今、左頬に大きな湿布を貼っていたのだったな)


 許靖は自分の頬に触りながらそれを思い出した。


 頬の下は大きな青あざになっている。顔の湿布も目立つが、おそらく何も貼らないよりは控えめなはずだ。


「ちょっと武術教室で張り切り過ぎてしまいまして……」


 厳寿はそれを聞いて納得すると同時に、笑い声を上げた。


「はっはっは、それはすごい。いくら道場での事とはいえ、太守様の頬を殴り飛ばせるような輩がおるとは。なかなかの怖いもの知らずですな」


(正確には蹴り飛ばされたのだが)


 許靖は心の中だけでそう答えながら、曖昧な笑みを返した。


 このあざを作ったのは他でもない、厳寿の身内である厳顔だ。


 厳顔から半ば無理矢理に組手をさせられ、勢い余った蹴りが見事に顔面に直撃した。許靖はそれを食らった瞬間、投石機から飛んできた岩が炸裂する幻を見た。


 ただ、それを厳寿に言えば無駄に恐縮して気を遣わせてしまうだろう。わざわざ言うつもりはなかった。


「武術などしていれば、これくらいは当たり前にある事です。それより話を戻してもよろしいですか?」


「あぁ、はい。例の生産者組合の件ですな」 


 許靖は今日、そのことを話すために厳寿と文成を屋敷の離れに呼び出していた。昼食をとりながら会談している。


 二人とも厳顔や文立が言っていた通り、心労が溜まっているようだった。


 厳寿の方は目の下にクマができている。精神的にきついと眠れなくなる質なのかもしれない。


 文成の方はパッと見には特に変わりないように見えたが、よくよく注意してみると眉や口元の筋肉が緊張しているように感じられた。


 しかし、言われてみればようやく分かる程度の変化だ。この程度で異変に気づいた文立はさすがといったところだろう。


 許靖は二人の瞳を覗き込んだ。瞳の奥の「天地」では、猿たちが群れを作って生活している。その猿たちは今、ぐったりと木にもたれかかっていた。


 文成は許靖に頭を下げた。


「関係者が集まって話し合いを持つ、ということでしたな。それはとても結構なことですし、太守の斡旋なら和解にも漕ぎ着けやすいでしょう。ありがたいことです」


 そして下げた頭を上げながら、逆説の接続詞を挟んだ。


「ですが……そういった事はあくまでただの対症療法に過ぎません。すぐに似たようなことが起こるでしょう。根本的な原因を断つべきだと思いませんか?」


「根本的な原因、ですか……と言いますと?」


 許靖は文成の言わんとする事を何となく分かりながらも問い返した。あまり好ましい提案ではなさそうだと感じている。


 それには文成に代わり厳寿が答えた。


「許靖様もお分かりでしょう。あのよそ者、趙才の若造の事です」


 言い方は辛辣だったが、許靖も趙才の事だろうとは思っていたのでうなずいてしまった。


 それで厳寿は同意を得られたと思ったのか、勢い込んで喋り始める。


「ここ最近の揉め事は全て、元はといえばあの男に端を発しているものがほとんどです。いくら商いでの競争のこととはいえ、趙才はあまりに他人の事情を考えなさすぎる。どんな商品も、作る側、卸す側、売る側が揃って初めて買う側に届くのです。どこかが潰れれば成り立たない。だから商いをする上でも普通は取引相手に様々気を遣うものですが、あの男は自分の利益を最大にすることしか考えておりません」


 文成も厳寿に続いて主張を並べた。


「左様。それに、地元に根を生やした者にとっては取引相手も競争相手も全て隣人ですから、相手の生活も考えてやり適度に力を抜いてやるものです。しかし、巴郡に来てまだ日の浅いあのよそ者はそのようなしがらみが無い。しがらみがない分、容赦も無いのです。商いは利益を求める行いであるとはいえ、他人のことを考えないという、人の道を踏み外した行いが許されてよいでしょうか」


 許靖は厳寿、文成の言うことを否定できなかった。


 二人の発言はある意味で自由競争を否定しかねないものではあるが、取引相手を追い込むようなやり方をされれば当然その生活は苦しくなる。


 儲かるのは趙才のように交渉で強く出られる大手事業者ばかりとなるだろう。


 弱いものはより弱く、強いものはより強くなる。格差が広がり、その格差がさらに強い圧力を可能とする。


(いつの時代も、弱い者たちは生かさず殺さずを強いられるのだ……)


 許靖は為政者として歯がゆかった。


 しかしそれが分かっていながら、厳寿と文成をなだめるためには一般論を口にするしかなかった。


「しかし……長期的な視点で見れば、そういった競争で商品も流通も良くなっていきます。そうなれば民の生活も豊かになるでしょう」


「なるほど。長期的な視点で多くの民を豊かにするために、短期的な視点で一部の民を切り捨てるのですな」


 厳寿の一言に、許靖は二の句が継げなかった。


 行政は、太守は全体を見てより多くを救わなければならないが、切り捨てられる側も同じく税を負担している民なのだ。


 組織の上に立つ者は、常に同様のジレンマに悩まされる。


 さらに許靖は思う。


(加えて、それは一部の民の生活を苦しくしてまでやらなければならない事かという話にもなる。商品も流通も良くなるのは当然好ましい事だが、現状でもみな平穏に暮らせているのだ)


 どんなことでも上を望めばキリはない。


 もちろん経済には停滞すれば腐るという特殊性はあるものの、際限なく向上を求めることが民の幸せになるわけではない事は許靖も分かっている。


 厳寿は言い返せない太守へ、一応の詫びを口にした。


「少し嫌味な言い方になってしまい、申し訳ございません。ですが、このまま趙才を捨て置いては苦しむ民が増えます」


「左様。やはり根本的な原因を断ちませんと」


 文成は再び『断つ』という単語を使った。許靖にはそれが引っかかった。


「……原因を断つとおっしゃるが、やはり明確な違法行為がなければ郡としても動きづらいということがあります」


 本音としては『何をしろというのか?』と尋ねたかったが、許靖は本能的にそれを避けた。


 聞かぬ方がよい、言わせない方がよいと、そう感じた。


 厳寿と文成は許靖の回答を聞き、深いため息を吐いた。


 それは二人が予想していた通りの回答で、予想していても二人を失望させる回答だったからだ。


(しかし、それでも私は太守として度を過ぎた強権を使うべきではないと思う)


 例えば二人の希望が『趙才に商いを禁じる』だったとして、確かに自分が本気になればそれは出来ない事ではない。太守の力なら商人を一人潰すことくらいたやすいだろう。


 しかし明確な違法行為のない者にそのような処分を行っていたら、太守の権能に歯止めが効かなくなる。


 厳寿は腕を組んで口を曲げ、文成は両手で顔をこすった。


 今後も郡内で同じようなごたごたが起こることは許靖にも予想できたが、それでも一つずつ対処していくしかないと思った。


 しかしすでに疲弊している二人にとって、揉め事と陳情がさらに増えるのは辛いことだろう。


(まずは厳寿殿、文成殿が趙才殿と距離を縮めることが肝要だ)


 そこの人間関係が上手くいけば、妥協できることも多いはずだ。


 趙才の血のせいもあるだろうが、やはり地元豪族にとっては初めから印象が悪いという背景がある。太守としてそこを取り持ってやるべきだと考えている。


 許靖がそれについて話をしようと思ったところへ、部屋の外から声が投げ入れられた。


「失礼いたします、張裔チョウエイです。入ってよろしいでしょうか?」


「どうぞ」


 許靖が返事をすると、優秀な副官が部屋へと入ってきた。それから厳寿と文成に流れるような動作で会釈をした。


「許靖様。ご会食中に申し訳ございませんが、役所の方へ出ていただけませんでしょうか」


「……それは今すぐでないと駄目でしょうか?張裔殿も知っての通り、今しているのは大事な話なのですが」


 許靖は張裔に今日の会談の趣旨などをあらかじめ話していた。それなりに大きな事案であることは知っているはずだ。


 しかし、張裔は表情を変えずに首を横に振った。


「それは承知しておりますが、劉璋リュウショウ様から賊に関わる急報が届きました。私も早めに対応したほうが良いものだと判断しております」


 許靖の体中の筋肉が緊張で強張った。賊に関する急報となると、ただ事ではない。


 益州は他所に比べれば平和だが、それでも治安を乱す集団がいないわけではない。治安維持は太守の業務として、当然最優先されるべき事項だ。


 厳寿と文成の方がこれ以上の会談を遠慮した。


「許靖様、我らにお構いなく行ってください」


「我らはまたいつでも参りますので」


 許靖は立ち上がって二人に頭を下げた。


「申し訳ありませんが、そうさせてもらいます。お二人は食事を楽しんでいってください」


 許靖は足早に部屋の出口へと向かい、その手前でふと足を止めて二人を振り返った。


「……そうだ。次の茶会ですが、私と厳寿殿、文成殿、それから趙才殿の四人で一つの卓を囲もうと思っています。よろしいですか?蜂蜜をたっぷりかけた凉糕りゃんがおを用意させておきますので」


 別に絶対に確認しないといけないことではなかったが、言っておけば趙才との関係を改善して欲しいという意図は伝わるだろう。


 それに二人は酒飲みには珍しく、甘いものに目がなかった。


 二人の反応は、許靖の予想したものと少し違った。顔を見合わせ、それから口元を結んでうなずき合った。


 許靖の見る瞳の奥の「天地」では、疲弊してぐったりとしていた猿たちが起き上がり、一斉に鳴き声を上げて始めた。


 許靖はその意味を考えようとしたが、廊下の先を歩く張裔がすぐに賊の情報を話し始める。


 その内容に思考を奪われ、許靖の懸念は霧散してしまった。

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