第172話 団結と過当要求

「大叔父様は相変わらず武術の鍛錬はしないんですね」


「ん?今、こうしてやっていたじゃないか」


 道場の隅で、陳祗チンシの言葉に許靖は息を切らしながら答えた。


 ちょうど今腕立てを終えたところだ。こめかみを流れる汗も、真面目に鍛錬をしている証拠だった。


「いえ、筋力とか柔軟性の鍛錬ではなく、突きや蹴り、組み打ちなどの練習という意味です」


「あぁ……」


 許靖は納得した。陳祗の言わんとすることも分かる。


 せっかく武術を教える道場に来ているのに、多くの時間をただの運動に使っているのだ。確かに技などほとんど覚えていない。


「向いていないんだ。お前も見ただろう」


 この武術教室でも、許靖による恒例の『悪い突きの見本』は実演された。


 くねくねとした不思議な動きで道場は爆笑に包まれ、花琳は道場主として参加者たちの心を掴んだ。


「あれ、本当の本当に真剣だったんですか?」


 陳祗は思い出し笑いに肩を揺らした。笑いを取るためにあえてやったのではないのか。


「むしろ、やろうと思って出来る動きではないとよく褒められるよ」


「なるほど、確かに」


 言われてみれば、陳祗も真似しようとしても出来そうにない。それに、真剣にやっているのが伝わるから可笑しいのだろう。


 ただ、あれで太守に対する精神的な壁が薄くなったようだ。


 道場の参加者たちは思っていたよりも気さくに話しかけてくれる。それは許靖にとって嬉しいことだった。


「だが私は武術の動きを全く習っていないわけではないぞ。受け身や相手の攻撃を受けたりかわしたりする動きは、むしろ花琳に褒められるほどだ」


 誇らしげに言う許靖が陳祗にはいっそう可笑しかった。


「大叔父様らしいですね。自分からは攻撃しないんですか?」


「いや、逃げる時に相手に物を投げながら逃げる方法なども教わった。才能があるそうだ」


 陳祗はつい声を上げて笑ってしまったが、その笑い声は齢を重ねて威厳のこもった声によって遮られた。


「ならば、許靖様は兵に向いておられますな。それが上手くやれる者は戦場でも上手く立ち回れます」


 許靖と陳祗が振り向くと、厳顔が汗を拭いながら歩いて来るところだった。


 顔が上気し、良い感じに身体が暖まっていることがうかがえる。そういえば先ほど、芽衣と組手をしていたようだった。


「この臆病な私が兵など……とても務まりませんよ」


「では、私が試してみましょう。攻撃を捌く術は教わっているのですよね?」


 厳顔の提案に、許靖は大岩に潰される蛙を思い浮かべた。もちろん蛙は自分だ。


 厳顔が歩いて来た先に目をやると、芽衣が肩で息をしながら何かをつぶやいていた。


 なんとなく口の動きから『あのおじいちゃん、やっばいわ』と言っているように見えた。


「い、いえ……遠慮しておきます」


 厳顔の瞳の奥の「天地」では大岩が転がりだすと、止めるのがなかなか難しい。芽衣との組手の余韻だろう、今もその岩は転がり続けていた。


 真面目な話、許靖は我が身の安全に不安が感じられた。


 しかし厳顔はまだその余韻に背中を押されているようで、肩をぐるぐる回しながら近づいてくる。


「まぁそうおっしゃらず。何でもとりあえずやってみるものですぞ。何事も、勢いと実践です」


(その勢いに潰されてはかなわない)


 許靖は何か別の話題を振って話を逸らそうと、頭を回転させた。


「へ、兵たちはもう十分慣れましたか?」


「兵?それは私との関係ですか?それとも地元民との関係ですか?」


「両方です」


 幸いにも許靖が選んだ話題は厳顔にとっても重要な問題であったため、その足を止めて話に乗ってくれた。


「私とは初めからそれなりに良い関係を保てておりますよ。そもそも私は例の反乱時、東州兵たちの側として戦っておりましたからな」


 確かに厳顔の言う通り、それは大きいことだったろう。


 厳顔は東州兵を用い始めた先代の刺史、劉焉リュウエンの時代から仕えている武人だ。地元豪族である厳氏の出身とは言え、東州兵たちにとってはもともと味方の人間だ。


 しかし、許靖はそれだけではないと考えている。


 厳顔の瞳の奥の「天地」にある大岩は、長年の風雪を経てなんとも言えない魅力的な風合いを帯びていた。それは人間としての魅力だと言える。


「厳顔殿には人を惹きつける魅力のようなものがあります。それで厳しくとも、慕われていると聞いていますよ」


「はっはっは。そう褒めてくださるな。調子に乗りますぞ」


 厳顔は大きな声で笑った。許靖にはその年季の入った笑い声もまた魅力的に感じられるのだった。


「兵たちと地元民に関しては、許靖様の意図された通りになっておりますよ。良い感じに距離を縮めておるのを感じます。武術教室、茶会、よく思いつかれたものです」


「それは良かった」


 許靖は厳顔の言葉に胸を撫で下ろした。


 武術教室や茶会に参加してくれる者たちが仲良くなってきているのは自分でも感じているが、直接の上司である厳顔からそう言ってもらえるとより安心できる。


 ただ、厳顔には疑問に思う事が一点あった。


「武術教室でも茶会でも、許靖様があえて近づけようとしている人間たちがおりますな?そういった人間たちはしばらくすると、大抵はとても親しい朋友になっている。気が合う者同士だということが初めから分かった上で近づけているように思えるのです。許靖様は人物鑑定家としても有名らしいが、やはり人と人との相性なども分かるのですかな?」


 厳顔の言う通り、許靖の後押しがあって仲良くなれるものが多かった。武術教室や茶会で良い仲になった男女も多い。


 道場も茶会も花琳が中心になって開かれているものだが、実はその効果は許靖によって最大化されているのだった。


 ただ、やはり許靖は占い師のように扱われるのは嫌なので適当に茶を濁すことにした。


「いえ、何となく合いそうな気がすると思いながらやっているだけですよ。上手くいっているのは良い偶然です」


 厳顔はそれで納得したような顔はしなかったが、一つうなずいてからまた元の話題に戻った。


「そうですか……よし、では手合わせを」


「そ、そうだ!厳寿殿はお元気ですか!?……茶会には来られても、この武術教室にはたまにしか来られないので」


 許靖は慌てて次の話題を振った。


 厳寿と文成は道場にはめったに顔を出さない。代わりに一族の若い者を参加させているだけだった。


 本当は厳寿の近況が気になったわけでもなかったが、その一言に厳顔の眉が曇った。


 そして、迷うように宙に視線を漂わせた。


「……?どうなさいました?」


「いえ、言おうかどうしようか少し悩んだのですが……」


 許靖の質問に厳顔はそう答えたが、そう言ってしまえばもう言ってしまうしかない。


 厳顔は少し間をおいてから話し始めた。


「どうも最近、厳寿の様子がおかしいのです」


「おかしい……というと?」


「何というか、常に焦燥を抱えているというか、心に余裕がない感じなのです。何かに怯えているようにも見えますな」


「厳寿様もですか?」


 少し離れたところから上がったその声は、許靖のものではなかった。


 声変わり前の高い音を視線で追うと、そこには文立ブンリツが立っていた。


 文立は陳祗と仲が良いこともあり、武術教室には積極的に参加している。


「……あ、申し訳ございません。突然話に割り入ってしまいまして」


 文立は非礼を侘びたが、許靖にとってそんなことはどうでもよかった。それよりも文立の言ったことが気になる。


「厳寿殿『も』ということは、文成殿も同じような様子だということかな?」


 文立は太守と話すのに少し気持ちを入れ直したようで、背筋をすっと伸ばしてから己の一族の長について答えた。


「はい。私以外の家人は別におかしいと思っていないようですが……文成様は家人を不安にさせないように、困ったことがあっても表に出さない方なので。でも、私には文成様が何かを恐れているように見えるのです」


 文立は目が良い。そしてその理解力も優れている。


 その瞳の奥の「天地」では、絵書きの少年が目の前に広がる世界を的確に捉え、的確に解釈して画紙へと落とし込んでいた。


 許靖は文立の言を信じた。


「君がそう言うのなら、文成殿には何かしら不安なことでもあるのだろう。常日頃からおかしい様子なのかな?」


「常に悩んでいる様子ではあるのですが、特に来客の知らせがあった時には怯えているように見えました」


 文立の言うことに、厳寿も心当たりがあった。


「文成殿もか。実は厳寿も人の訪いを知らされた時、特に怯えているように見える」


 許靖は良くない予感に眉をひそめた。


「仲の良いお二人が、同じように挙動不審であるとなると……」


 許靖の隣りで厳顔も同じような顔をした。


「ただの個人的な問題ではなく、何かしら大きな面倒なことがあるのかもしれませんな」


 厳寿も文成も、郡内では特に大きな氏族の長だ。


 その二人が同じように何かに怯えているとなると、郡にとってもただ事ではない可能性がある。


「まぁ、ここ最近の面倒事と言ったら彼が絡んでいることが多いが……」


 厳顔は道場の真ん中の方へと目を向けた。そこには一汗かいて、女性たちと談笑している趙才の姿があった。


 見目良く人当たりも優しい趙才は、陳祗と並んで道場に来る女性陣の人気者だった。二人ともさして武術の経験がないにも関わらず、やたら女性たちから教えを請われている。


 ただ、そのせいで趙才も陳祗も花琳からかなりしごかれていた。下手な間違いを教えられたら叶わないということだろう。


 今日も許靖たちの見る趙才の横顔は、結構な量の汗にまみれていた。


 趙才がふと、許靖たちの視線に気づいてこちらを振り向いた。そして女性たちに断ってから歩いて来る。


「お疲れ様です。皆さん、どうかされましたか?」


 趙才は整った笑顔で自分に向けられた視線の理由を尋ねた。


「いえ、いつもしごかれて大変だなと思いまして。我が妻のことながら、申し訳ありません」


 許靖はさすがに『あなたが揉め事の種では?』とは聞けずにそう答えた。


「いえいえ。確かに少々きついこともありますが、花琳先生には厳しくしていただいてありがたいと思ってますよ。自分でも上達しているのが分かりますしね」


 趙才の言う通り、この男は商売以外の才も豊富らしくみるみる強くなっていた。本人もそれが楽しいらしい。


 加えて先日、一族の者に襲われたという事件も本人のやる気を鼓舞しているのだろう。仕事の都合がつく日には、必ず道場に顔を見せていた。


「それならいいのですが……商売の方はどうです?そちらも順調ですか?」


 許靖はそれとなく探りを入れた。が、その一言で趙才は何事かに思い当たったらしい。


「もしかして……許靖様の耳にはもう、組合の話が入っていらっしゃいますか?」

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