第169話 接待と圧力

「従業員?それは一体どういう……」


 趙才は許靖の言おうとしていることがよく分からなかった。


 今日も従業員たちと話していたが、何か問題でもあったのだろうか。


「もしかして、今日のような兇行を行わないようにしっかり教育しろ、という話でしょうか?」


「いいえ、むしろ学んでもらいたいのは趙才殿の方ですね」


「私が?」


 趙才はますます怪訝な顔をした。


 許靖は気にせずに本題を話すことにした。


「端的に言えば、趙才殿には従業員の待遇を改善してもらいたい」


 趙才は許靖の言葉にすぐに返答できなかった。


 先ほど許靖は価格を引き上げるよう命じたりはしないと言っていたが、従業員の待遇というのはさらに突っ込んだ話になる。


 特に趙才の元で働く従業員たちの多くは趙氏の一族の者やその使用人だった者であり、その待遇など言ってみれば身内の話だ。


「……従業員の給金を上げろということでしょうか?身内の扱いなど、それこそ太守様からあれこれ言われるような筋ではないように思いますが」


「それが意外なことに、身内の問題でもなくなっているようなのです」


 許靖はそう言ったが、やはり趙才にはどういうことか分からなかった。


「どういうことでしょうか?」


「趙才殿の従業員の給金が、他所に比べてどの程度かはご存知ですか?」


「……いえ、はっきりとは」


 本当は分かっていたが、趙才は言葉を濁した。痛い所を突かれている。


 許靖は趙才が本当は分かっていることを知っていたが、気にせず答えてやった。


「調べた所、およそ三割低い給金でした。少し低過ぎるでしょう。今日、従業員たちから直接話を聞きましたが、やはり皆生活が苦しいと感じていました。趙才殿を襲った男もそれが動機の一つだったと言っていましたよ。実際にあなたの危険にもつながったわけです」


 許靖が話を聞いた従業員たちは皆言いづらそうではあったが、やはり待遇に不満を持っていた。本人たちも他店より給金が低いことは自覚している。


 初めは没落しかけた一族が食っていくためには仕方がないとも思っていたらしいが、最近は事業の規模も大きくなっている。


 いつまでこの状況なのだろうかと、不満を募らせていた。


「……ですが、食べていけないほどではありません。それにやはり、内々のことでしょう」


「それが意外とそうでもない。趙才殿に売上を奪われた一部の商人たちは、仕方ないので従業員の給金を下げて対応しているそうです。下げていない所は従業員に暇を出しているそうです」


「それは……商いとは、経済とはそういう競争なのだから仕方がないでしょう」


「その話自体は正しいと思いますが、太守としてはそうもいかない。前にも言いましたが、私たち行政が目指す最終目標は経済の発展ではなく、民の幸福です」


「私も前に言いましたが、競争で様々なものが発展すれば民の生活は必ず豊かになります」


 趙才は譲らなかった。


 その瞳の奥の「天地」では、疾駆する騎馬たちが激しく競い合っている。競争というものの肯定は、趙才自身の存在を肯定するようなものだ。


(だから逆に否定もできないが、競争はそこまで万能ではない)


 許靖はそう考えていた。


 確かに経済において自由競争は多くの利益をもたらす。しかし競争はあくまで競争であって、民のために存在しているわけではない。良いことばかりが起こるはずがなかった。


 ただ、趙才にそう言ってもなかなか伝わらないだろう。それで自分を否定されたと感じれば、より頑なになる可能性が高い。悩ましいところだった。


「趙才殿。当たり前の話なのですが、もらえる銭が少なくなれば人は貧しくなります。また、暇を出されれば食っていけなくなります」


 許靖はそういった単純なことに目を向けてほしいと思った。


 が、趙才は生粋の経営者だ。そういった思考に回帰するのは難しい。


「おっしゃる通りですが、給金を下げることも暇を出すことも、経営者としては時に必要なことです。私は給金を抑えて低価格を実現し、売上を飛躍的に伸ばしました。経済界では、私はちょっと無いような高い評価を受けているのですよ。私自身、私に対抗して給金を下げた経営者も、暇を出した経営者も評価しています」


 趙才の店の商品が安いのは給金を抑えているからばかりではなかったが、その貢献度は大きいのだろう。そして趙才もそれを恥じていない。


 しかし、許靖はそもそもそこに疑問があった。


「そこです。経済の恐ろしい所は、そこなのです。経営者はそうやって人を貧しくし、不幸にしているにも関わらず、時にそのことを高く評価されるのです。おかしな話だとは思いませんか?」


「それは……仕方ないことでしょう。店が潰れてしまえば従業員は皆、路頭に迷います。それこそ不幸でしょう」


「もし仮に店が潰れても、同等以上の待遇の職場が見つかれば何の問題もありません」


「それはもしそうなれば、という話で何の保証もありません」


「需要に大きな変動がなければ、働く場所はあるはずです。それにどこかの店が潰れれば、他の店がその需要を満たそうと展開します。つまり雇用の流動性さえ確保されていれば、無理に特定の事業が継続しなくてもいい」


「絵空事ですよ」


「おっしゃる通りです」


 許靖は否定しなかった。


 ただし、許靖は行政の長として大量に失業者が出れば何らかの形で就業を支援するつもりだ。場合によっては公共事業を展開しても良い。行政として最も重要なのは、失業者への対策だと考えている。


 ただ、やはりそれもどこまで機能するか分からない絵空事ではあった。一般論として、だから大丈夫だ、などと言えることではない。


(少し言いたいことと話を逸らせてしまったか。趙才殿にはもう少し単純な事実を分かって欲しいのだ)


 許靖は一拍おいて息をつき、また口を開いた。


「今の話は少々極端でした。ですが少なくとも、他よりもかなり給金の低い事業者があったとして、そこが価格競争を仕掛けてきたことであまりに多人数の待遇が下がるのなら、その事業者は潰れてしまった方が社会のためになる、という考え方は十分に成り立ちます。もちろん、その業界の元々の給金が平均よりもかなり高い場合は除いて、という前提の話ですが」


「それは……そうかもしれませんが……」


 今度は趙才が許靖を否定しなかった。


 商人として経済というものが分かっているため、この理屈が全くの間違いでないことは分かる。しかし、これは多くの商人があえて目をつむっている事実でもある。肯定もできずに黙り込んだ。


 許靖も趙才の胸の内は多少なりとも理解できているつもりだ。しかし、そこに一歩踏み込んで考えてほしかった。


「現実がそう簡単な事ではない事は分かっています。ただ、趙才殿には低い給金が人にとって不幸であるという単純な事実を理解していただきたい。そして繰り返しになりますが、我ら行政にとって目指す最終目標は民の幸福です。経営者であるあなたにとって、従業員の幸福は目標の一つになりませんか?」


 そう言われると、趙才は苦い顔をするしかない。一部の者からその血を忌み嫌われるとはいえ、従業員の多くは趙才にとって身内であることには違いないのだ。


 そもそも一族に全く思い入れがないのであれば、一族を率いて商売などせず一人で独立して事業を始めれば良いことだ。


 そうしなかったのは、やはり没落した一族に対する情があるということだろう。


(趙才殿を襲った男に対する処置を考えても、そう思える)


 許靖は趙才の瞳の奥の「天地」を改めて見た。


 そこで疾駆する騎馬たちを見据えながら、慎重に言葉を選ぶ。


「趙才殿。例えばですが、商売の競争が騎馬の駆け比べだったと仮定します」


 趙才の表情がピクリと動いた。


 趙才はこの瞳の奥の「天地」だけあって、騎馬の駆け比べが好きだ。それに大切な商売・競争をなぞらえた仮定に気持ちが振り向いた。


 許靖は趙才の反応を見ながら言葉を続ける。


「もし趙才殿たち経営者が騎手だとしたら、従業員たちは馬に当たりますね?」


「……確かに、そうなります」


「従業員の待遇をギリギリまで下げながら働かせるということは、馬を走れるギリギリまで痛めつけながら駆けさせているようなものです。想像してみて下さい。痩せ細り、喘ぎながら走り続ける馬の姿を。血がにじむまで鞭を打たれ、休みたいにもかかわらず止まることを許されない馬の姿を」


 趙才の眉は曇り、瞳の奥の天地では騎馬たちが馬の速度を落とし始めた。


 一部の騎馬は駆け足をやめて並足になっていく。どうやら馬をいたわる気持ちが湧いているようだった。


(効いている。もうひと押しか)


 許靖はそう感じながら言葉を重ねた。


「私は、競争というものは素晴らしいと思います。競争をすることで人は、社会は向上していくことが出来る。ただし、それはただ競えばいいというものではありません。馬をただ苦しめながら駆け比べる様子を、誰が美しいものだと思うでしょうか?人も馬も一体になって喜びを感じながら駆けることが出来れば、これほど素晴らしい競争はない」


 趙才はまた表情をピクリと動かした。


 そしてしばらく顔を伏せ、無言で考え込む。


 許靖はそれ以上声をかけず、黙ってその様子を見守った。


 趙才は結構な時間そうしていたが、やがて顔を上げると茶を一口飲んでから口を開いた。


「確認ですが、従業員の待遇を上げるというお話は太守様の命令ではなく、あくまで依頼ということでよろしいですね?」


 趙才はそう言った。それはそのまま聞けば『別に従う必要はないのだな?』という確認に聞こえなくもない。


 しかし、許靖には別の言葉に聞こえた。


(商売に関して役所からの介入は極力受けないぞ、という主張だな)


 許靖はそう判断した。


 なぜなら趙才の瞳の奥の「天地」では、騎手たちが馬を労り始めていたからだ。馬のたてがみや首筋を撫で、降りて水場に引いていってやる者もいた。


 皆が馬の顔を労りの瞳で覗き込み、その身を案じている。


 許靖は微笑み、ゆっくりとうなずいて趙才の質問を肯定した。

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