第167話 視察
許靖が何人目かの従業員と話し終えた所で、騒々しい喧騒が聞こえてきた。
どうやら
周りの従業員たちは何だろう、という顔をして物音のしている方に目を向けただけだったが、許靖はいち早く走り出していた。
(嫌な予感がする……!)
先日、
許靖がその部屋についた時、ちょうど趙才に向かって刃物が振り下ろされるところだった。
中年の男が趙才の馬乗りになっており、逆手に持った短剣を突き立てようとしている。
「あっ!」
許靖はそう叫ぶのがやっとで、何もすることが出来なかった。
短剣が趙才の胸に吸い込まれていく。
しかしその切っ先は趙才の体に届く前に、それを持った男ごと横に飛んでいった。
陳祗が横から体当たりを食らわしたのだ。
「がっ……」
男は卓に頭をぶつけてその場に倒れた。軽い脳震盪を起こしたようだ。
その隙に部屋の従業員たちが群がっていく。男はすぐに抑え込まれた。
「おい、誰か縄持って来い!!」
「とりあえず布でいい、縛れ!!」
「……くそ、離せっ!こいつを殺さないと……俺たちの暮らしはいつまでも苦しいままだぞ!!」
男は抵抗したが、すぐに後ろ手に縛られた。
しばらくはそれでも身をよじっていたが、足も縛られるとさすがに観念したのか大人しくなった。
「趙才殿、大丈夫ですか?」
許靖は趙才に駆け寄って抱き起こした。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
趙才はよろけながらも立ち上がることができた。
許靖はそれを見て、大きな怪我はないようだと安心した。
「しかし……許靖様に恥ずかしいところをお見せしてしまった」
苦々しい趙才のつぶやきに、許靖は趙才を襲った男の素性を推測した。
「彼は、こちらの従業員の方ですか」
自分が襲われながら恥ずかしい、ということは身内の犯行ということだろう。
趙才はやはり苦々しい口調で肯定した。
「はい、うちの従業員です。恥ずかしながら、我が一族の者です」
縛られた男はその言葉を聞いて、叫ぶような声を上げた。
「何が我が一族だ!!貴様のような汚れた血を引く男が、我が一族などと口にするな!!貴様と同じ血を引く者たちのおかげで我ら趙氏は没落したのだ!!」
汚れた血とは、趙才の母が東州兵と同郷で同じ血を引いていることを言っているのだろう。
確かに趙氏は東州兵に負けたことが原因で没落した。それで男はその血を憎んでいるのだった。
しかしそんな男とは対照的に、趙才の方は冷ややかな表情をしている。
近くにいた許靖にも聞こえるかどうかといった小さな声でつぶやいた。
「面倒くさいな……」
それからうんざりだと言うようにため息を吐き、男へと歩み寄った。
そのそばにしゃがみ、面倒くさそうに口を開く。
「血が汚れているかどうかなど、どうでもいい事だが……確かに東州兵のせいで趙氏は没落したのだろう。そして血だけを見れば、東州兵は私の身内と取れないこともない。だが……」
「だが、何だ?」
男は下から趙才を睨み上げた。
憎しみがこもったその視線に対し、趙才は『面倒くさい』という感情しかこもらない視線を返しながら答えてやった。
「『私』は何もしていない。以上だ」
それだけ言うと、興味を失ったように立ち上がって背を向けた。
男は言葉に詰まった。そう単純な理屈を示されると反論が浮かばない。
が、そのまま行かせるのは
「……ま、待てっ」
「何だ。まだ何か言いたいことがあるのか?」
「お前が今のような大商人の立場を得られているのは、俺たち一族の者を低い給金で使って搾取しているからだ!!俺はそれを許さない!!」
「そのおかげで低価格の商品を提供できている。それが消費者に支持されて、一族が食っていける道が開けたのだ。そうでなければ飢えていた人間もいただろう」
趙才は的確に相手を論破してから、許靖の所へ戻ってきた。
「許靖様、この男の処分ですが……」
「すぐに兵を呼んで拘束させましょう。しかるべき手続きを踏んで、裁きを下します」
そう冷静に答えたのは許靖ではなく、張裔だった。
少し離れたところで、よく見ると手に壺を持っていた。距離を置いてから重いものを投げつけようとしたようだ。
見ようによっては臆病にも思えるが、刃物を持った人間を相手にした時にこれ以上的確な対応はないだろう。ただし、今回は陳祗の体当たりの方が役に立ったが。
趙才は張裔と許靖を交互に見た。
「もしよろしければ、この男の処分は私どもに任せていただけませんでしょうか?」
張裔も許靖も、さすがにそれには難色を示した。
罪状としては殺人未遂なのだ。当然、郡としてきちんと対応する必要がある。
許靖は首を横に振った。
「趙才殿、それは出来かねます。それに私刑となると、どのようなことが行われるか……」
私刑には制限などないから、罪に対して極端に重い罰や残酷な罰が与えられる可能性がある。殺人未遂犯とはいえ、許靖はそれが心配だった。
「処分に関しては今お伝えできます。趙氏の人間のうち、反乱後に他州へ出て行った者たちがいくらかおります。その者たちの元へ送るつもりです」
許靖はその処分に関して少し考えた。
「……つまり、益州は出ていってもらうがそれ以上のお咎めはなし。加えて、出ていった先での生活もある程度は保障されている、と?」
「おっしゃる通りです」
縛られた男は目を見開いてその話を聞いた。
追放されるとはいえ、その先では普通に暮らせるのだ。流刑よりもずっと軽い。
というか、刑とも言えないような処分だった。
(我々が捕縛して裁くよりもこの男にとっては良いのだろうが、殺人未遂があまり軽い罰であるのも……しかし、被害者本人がそれで良いと言っているわけで……いや、やはり正規の手続きを踏まないと法的に問題が……)
許靖は悩んだ。
張裔の方へ目をやると、やはり許靖と同じように考え込んでいるようだった。
この場合、やはり被害者本人が重い罰を望んでいないという点が難しいところだ。
悩んでいる所へ、趙才が自分の首筋を撫でながら声をかけてきた。
「許靖様。実は先日の宴のいざこざから首の筋が痛いのです。それに妙な噂が広まり、商売に差し障りが出ています」
いざこざ、とは陳祗が趙才のことを毒殺犯だと思って首を絞めてしまったことだ。考えてみれば、あれも傷害事件には違いない。
趙才は言葉を重ねた。
「しかし、今日は陳祗殿に命を救われました。先日のことは今日のことで全くの帳消しにいたしましょう」
趙才は笑顔を作りつつ、『今日のことで』という部分を強調した。
つまり、陳祗が助けてくれたことと男の処分を自分に任せることで、陳祗に首を絞められたことと悪い噂が広まってしまったことを帳消しにしよう、と言っているのだ。
こう言われては許靖は弱い。仕方なくうなずくことにした。
「分かりました……ですが、二つ条件があります」
「何でしょうか?」
「一つ目は、その人が他州の一族の所に落ち着いたことを確認させて下さい。居所さえ教えてもらえば、郡の伝手でその周辺の誰かに確認してもらいます」
そうしなければ、隠れてひどい仕打ちを受ける可能性だってあるだろう。そこは押さえておきたかった。
趙才は何の抵抗も見せずに了承した。
「もちろん結構です。何処へ行くかが決まったらお伝えしましょう。それで、もう一つは?」
「その人と二人で少し話をさせて下さい。その後で今晩、趙才殿にはうちに来て晩餐を共にしていただきたい。二人でゆっくり話しましょう」
「……?それは構いませんが」
それだと条件が二つではなく三つになるが、正直どうでもいいことだったので趙才はただうなずいて了承した。
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