第166話 視察
「つまり、税務処理には一切の問題はなかった、と」
「おっしゃる通りです。下手なイチャモンを受けるのが嫌なのでしょう、普通は取らないような細かい記録まできちんと取って残してありました」
先日、抜き打ちで行った趙才の税務調査に関するものだ。
すでに概要は一度聞いているが、今日は趙才の店へ視察に訪れることになっている。その道中、改めて詳細な内容を聞いていた。
視察には許靖と張裔だけでなく、
陳祗は先日、趙才を毒殺犯扱いしたことに関して改めての謝罪をさせるため、そして朱亞は益州の市場をよく知る一般市民の代表として連れてきていた。
もちろん朱亞自身はそれだけでなく、孫の無礼に関して頭を下げるつもりもあって来ている。
「しかし、私なんかの意見が役に立つもんかねぇ?」
朱亞は首を傾げながらぼやいた。自分は一介の主婦だ。太守の視察に同行して出来ることがあるとも思えない。
だが、許靖はその一介の主婦の意見が欲しいのだった。
「いいえ、恥ずかしながら私も張裔殿も商品の質や価格の相場、商いの利便性などといったことに関して必ずしても精通しているとは言えません。精通しているのは実際に日々生活のため物を買い、それを使っている人間です」
「まぁ、何十年も主婦やっているんだから『普通』ってことは分かるつもりだけどね」
「その普通が意外と男には分からないものなのですよ」
「そうかい。じゃあ今日は太守様に色々とご教授差し上げようかね」
朱亞はそう言って、人を惹きつける魅力的な笑顔を見せた。
陳祗も普段なら朱亞譲りの明るい笑顔を見せるのだが、今日は流石に神妙な面持ちでいる。
毒殺犯扱いして首を締めてしまった人間の所へ行くのだ。明るい顔などできようはずもない。
「手土産はこちらの品でよかったのですよね?」
陳祗は小さな木箱を大事そうに抱えていた。
本来なら太守の視察で相手方に手土産など用意はしないだろうが、これは改めての謝罪の手土産だ。許靖からではなく、陳祗からということで持たせている。
「ああ、陶深の作った玉の飾り物だ。趙才殿は銭持ちだから別に高価なものでも喜ばないだろうが、陶深はあれで人気作家だからな。本当に良い物なら喜んでもらえるだろう」
許靖の言葉に、陳祗は無言でコクリとうなずいた。迷惑をかけたという自覚があるのだろう、やはり緊張している。
実際あの事件以来、趙才が
当事者も遺族も否定しているが、噂というのは大河の流れようなものだ。そう簡単に堰き止められるものではない。
しかも、趙才は一部の人間からひどく嫌われている。趙才に仕事を奪われた者、
許靖も陳祗を止めうる立場だっただけに責任を感じている。
(何とかしてやりたいが、人の口に戸は立てられないからな……)
そう思いながら歩いているうちに、趙才の店に着いた。
大きな店構えで間口が広く、建物も新興商人の店らしく新しい作りをしている。人の出入りも多いようだった。
小売も卸売も受けており、卸売用の入り口は脇に小さく据えてあった。卸売では大量に買って貰う代わりに値引くので、小売と同じ場所で商談するのは不都合があるからだ。
商機があるような所にはすべからく手を出しているという話だった。
(まぁ……多少の悪い噂が広がっても商売全体としては順調ということか)
許靖が背の高い屋根を見上げている所へ、趙才が出てきた。
「許靖様、ようこそおいでくださいました。ごゆっくり視察なされて、至らぬ所があればぜひおっしゃってください」
笑顔でそう挨拶した趙才の表情から、自分の店に対する自信が読み取れた。
商売自体への自信だけでなく、太守に見られて困る不正なども無いということだろう。
許靖自身もおそらく不正はないのだろうと思って来ている。趙才なら稼ぐためにそのような手段は取らないだろう。
(趙才殿は不正などせず、正々堂々と競争して商売敵に勝とうとするはずだ。私も今日は不正の摘発など期待していない。見たいものはもっと別なものだ)
許靖も笑顔で挨拶を返し、それから陳祗の背中を押した。
「趙才殿、本日はよろしくお願いします。が、その前にまず……」
前に出た陳祗は深々と頭を下げた。
「先日は私の勘違いでひどい失礼を働いてしまいました。本当に申し訳ございません」
朱亞も一歩前へ出て陳祗と並び、同じように頭を下げた。
「陳祗の祖母でございます。その節はうちの子がご迷惑をおかけして、なんとお詫びをしてよいものか」
二人に頭を下げられた趙才は秀麗な笑顔を返した。
「お二人共、顔を上げてください。終わったことを気にしてもしょうがありません。それよりも、今日私の店を見て気になったところを教えていただけると助かります」
陳祗は前向きな趙才の言葉に恐縮しつつ、手土産の陶深の作品を手渡した。
「ありがとうございます。これはほんのお詫びの気持ちなのですが……」
「これはこれは、お気遣いありがとうございます。しかし……いただいてよろしいので?」
趙才は確認するように許靖を見た。
許靖は賄賂を受け取らないということを示すために、あらゆる人間からの贈り物を断っている。
それとは逆の許靖側からの贈り物ではあるが、許靖が気にするかもしれないと思ったのだ。
許靖は手のひらを差し出して受け取るように促した。
「それは陳祗からのお詫びの品ですから、どうぞ受け取ってください」
「でしたら、ありがたく頂戴しましょう」
趙才は受け取った箱を開けて中を見ると、眉をピクリと上げた。
「これは……なるほど。いや、とても良い品だ。ありがとうございます」
趙才は何度かうなずきながらそれを見回してから、使用人に手渡した。
それから趙才自らが許靖たちを案内して店の屋敷内を回った。
まず一般客もいる店内から回り、物が積み上げられた倉庫や帳簿付けをしている管理室も回った。
趙才が適度に説明を挟み、四人はうなずきながらついて行く。
「私の店は郡内の各地にありますが、規模は違えど大体は似たような管理をしています」
「なるほど」
許靖はうなずきながら、後ろを歩く朱亞を振り返って尋ねた。
「朱亞さん、どうですか?この店の商品は」
「いいね。ほとんどが他所より安いか、他所の最安値に合わせてる」
趙才はニヤリと笑ってそれを肯定した。
「おっしゃる通り、他店の価格は毎日調べさせています。時に逆ザヤになっても、可能な限りそれに負けないような価格設定にしています」
「それに、物の選別が上手いね。安い商品にはよくよく見ないと分からないような傷、使う分には別に困らないような小さな欠けなんかが結構ある。まぁ、あたしなんかはそれでも安い方がありがたいから、何の問題もないけど」
「いや、さすがに主婦の目は厳しいですね。ただ別に騙すつもりもないので、質の良い商品は価格を上げて別にしてあります。安いものが欲しい方は価格を見比べて安い方を買っていきますし、わざわざ高い方を買っていく方も結構いるのですよ」
「高いものと安いものを見比べると、高い方が欲しくなる人間もいるからね」
初めこそ丁寧だった朱亞の言葉遣いは、気づけばざっくばらんになっていた。謝罪も済み、趙才はそれで大丈夫そうな相手だと判断したのだろう。
それに主婦目線であれこれ言おうと思うと、どうも丁寧すぎる言葉で話すと調子が出ない。
許靖は二人の話を聞きながら、少し別のことを考えていた。
(おそらくだが、趙才殿は微妙に質の落ちた商品を交渉で安く仕入れているのだろう。それ自体は質を考えての適正価格で問題ないのかもしれないが、もし趙才殿が現れるまでは微妙な商品たちも通常価格で卸されていたとしたら……)
そうなると、趙才が現れてから商品を作る側の利益は下がったということになる。
もちろん安く売るのを断れればそれで済む話だが、趙才はすでに郡でも屈指の商人だ。その売上は相当な額に上る。
趙才に売ってもらわねば生計が成り立たない者もいるだろうし、他の製造業者に趙才路線の販路を奪われないために断ることが出来ない者もいるだろう。
(もちろん多くの消費者たちが利益を受けているのだろうが、それで極端に生活が良くなるわけではない。その一方で、極端に生活が悪くなる人間が一部いる)
それは経済というものを考えれば仕方ないことかもしれない。しかし良いことか悪いことかと問われれば、許靖にはその判断はつかなかった。
ただ唯一分かるのは、こういったことが積み重なると
外から来た者による不利益の苦情が行き着く先は、どうしても地元の有力者になる。
「張裔殿はどうですか?」
許靖は今度は優秀な副官に話を振ってみた。
「店の運営が効率的で素晴らしいと思いました。出来れば管理部門のところをもう少し勉強させていただきたい。郡役所の運営の参考にもなりそうです」
(なるほど、張裔殿らしい感想だ)
許靖はそう思った。
張裔の瞳の奥の「天地」には工場が展開されており、農耕器具や武具が製造されている。
そこでは効率的な工場運営がなされており、張裔自身も効率的な事務処理を旨としている。良い組織、良い運営に食いつくのは張裔の性のようなものだった。
「では、よければ趙才殿は管理部門で張裔殿に色々教えてもらえませんか?張裔殿は後で私にその内容を教えて下さい」
許靖はそう提案した。張裔の言った通り、郡の運営にも役に立つことだろう。
言われた趙才は怪訝な顔をした。
「それは構いませんが、許靖様はいかがなさるので?」
話から察するに、許靖はその場にいないということだろう。
「私は従業員の人たちと話をしたいと思います。民の声を聞くのも太守の仕事なので。この屋敷内を動き回る許可だけください」
「それは構いませんが……」
趙才は眉根を寄せたが、断る理由も思いつかない。
本音では許靖に同行したかったが、恐らく趙才がいないところで話をしたいという意向なのだろう。そのぐらいのことは忖度できる。
「では、そうさせていただきます。陳祗は張裔殿について勉強させてもらいなさい。朱亞さんはせっかくなので買い物でもしていて下さい」
言うが早いか、許靖は一人で歩き出した。
朱亞がその背中に声を投げる。
「お代は役所にツケてもいいのかい?」
「まさか」
許靖は笑いながらも振り返らずに、さっさと廊下の奥へと去って行った。
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