第165話 絵描きと大岩

 厳顔ゲンガンはまっすぐ構えた鉾をゆっくりと上げ、頭上まで来たそれを一気に振り下ろした。


 許靖たちのところまで鉾が空を切る音が聞こえる。先ほどまでの静寂が嘘のような、激しい一撃だった。


 花琳は後ろに下がってそれをかわした。無難に避けたというところだろう。


 しかし、その花琳を厳顔の鉾が猛追する。横薙ぎ、袈裟懸け、逆袈裟と、矢継ぎ早に鉾が振られる。


 一撃一撃がどれも重く、許靖の素人目にも花琳の手甲ではまともには受けられないだろうと思われた。


 花琳は後ろに跳ぶようにしてそれをかわし続ける。


 厳顔の瞳の奥の「天地」では、大岩が勢いをつけて転がっていた。こうなるともはや自然災害のようなものだ。その重量と勢いは、もはや人間では止められないだろう。


 厳顔は鉾を振り続け、花琳は下がり続けた。そして二人は練兵場の端まで来て、花琳は壁を背にした。もうこれ以上は下がれない。


 厳顔はそれでも全く勢いを止めず、鉾を袈裟懸けに振った。花琳はやや斜めにしゃがみ込むようにして、紙一重でそれをかわした。空を切った鉾の先が壁に当たってその表面を削り取る。


 壁の削り屑が地面に落ちるよりも早く、沈んだ花琳の体がバネのように跳ねた。


 対する厳顔の鉾も滑らかに動き、次の一撃を繰り出そうとしている。


 しかし、花琳のほうが一瞬早い。一足に間合いを詰めた。


 鉾は得物としては長ものであるため、間合いを詰められらと弱い。それで勝負は決したかに見えた。


 が、花琳が拳を突き出す直前に厳顔の鉾がくるりと回り、短く持った石突きの部分が花琳の頭部を襲った。


 花琳は首だけを捻ってかろうじて避けたが、かすめた石突きが髪の毛を数本散らした。


 体勢を崩しかけた花琳へ厳寿の容赦ない追撃が続く。立て続けに蹴りと石突きを繰り出した。


 さすがは年の功、といった所だろうか。厳顔は鉾の間合いを破られても落ち着いて対処しており、接近戦での技も練られていた。


 その姿からは武人としての年季が見て取れる。


 しかし、そうは言っても相手の花琳は無手での武術の専門家だ。やはりこの距離は花琳の制する空間であり、何撃も手を重ねるごとに花琳が押していく。


 厳顔が蹴りから次の動作に移る一瞬、花琳は足払いを繰り出した。


 厳顔はそれで倒れはしなかったものの、体勢を崩した。その傾いた顎に花琳の拳が迫る。


 普通ならそれで勝負がつくところだが、やはり厳顔は老練だった。思い切り後ろに跳ぶと同時に、鉾を回転させながら花琳の方へと放った。


 花琳はそれで傷を負いはしなかったが、厳顔の顎へ伸ばそうとした拳は一時引かざるを得なかった。


 後ろに倒れた厳顔は転がりながら体勢を整えるとともに、落ちていた何かを掴んだ。そして立ち上がりながらそれを振りかぶる。


 その手には拳ほどの大きさの石が握られていた。


 戦場において、投石というのは非常に有効な攻撃だ。飛び道具といえば弓矢がまず思い浮かぶものだが、実際にはつぶての犠牲になる者も多かった。


(しかし、武術の手合わせとしてはいかがなものか)


 許靖は花琳への心配もあって、二人を止めようと口を開きかけた。


 が、それより一瞬早く、幼い叫び声が上がった。


「あ!」


 それは文立の叫びだった。


 目が良く、見たものの理解も早い文立はいち早く投石に気づいた。


 投石は実戦では有用とはいえ、武術の手合わせで採る戦法としてはあまりに血なまぐさい。思わず声を上げてしまったのだった。


 その声が練兵場に響き、厳顔は石を振りかぶったままの姿勢でピタリと止まった。集中するあまり闘いに没頭していたのが、幼い声で我に返ったのだ。


 そしてゆっくりと手を下ろし、体から力を抜いて深く息を吐いた。


 花琳も厳顔に応じるように構えを解いた。


 それでこの手合わせは終わりだった。


「ご、ごめんなさい。私がつい声を上げたりしたから……」


 文立が恐縮して謝ったが、厳顔は爽やかな笑顔を向けてくれた。


「いやいや、むしろ文立殿のおかげで正気に戻れた。つい戦場にでもいる気持ちになってしまっていたな。ただの手合わせだというのに……」


 それから厳顔は花琳の方を向いた。


「花琳さん、女だてらに大したのもですな……などと、いうのは失礼かもしれませんが。いや、参りました」


 はっきりと勝敗がついたわけではなかったが、厳顔の中では敗けたと結論づけられているようだった。


 しかし、花琳はそうは思っていない。


 確かに鉾を手放した時点で勝負はついているという考え方も間違いではないだろうが、こと闘いということになるとそう単純な話ではなかった。


「いえ。もしここが戦場であれば、最後に立っているのは厳顔様だったのではないかと思います。私はあくまで武術家で、厳顔様は生粋の将でいらっしゃる。闘っていて、それがよく分かりました」


 花琳の言い様に厳顔は破顔して、豪快な笑い声を上げた。


「はっはっは!おっしゃりたいことはよく分かりましたぞ!確かに私の中にはまだ将としての残り火が燻っていた。花琳殿はその火に薪をくべるような気当たりでぶつかって来られた。そちらの意図された通り、残り火はまた大きな火事になってしまいましたわ」


 そういう厳顔の表情は妙に清々しいものだった。


 厳顔の言う通り、花琳は隠居後も武を磨いているという厳顔の話を聞いて、まだ現役に未練があるのではないかと感じていた。


 だから初対面の時からけしかけるような気当たりで向き合い、そして手合わせを申し入れたのだった。


(もし厳顔様に現役への未練が無いのなら隠居のお邪魔をするわけにはいかないけれど、もし未練があるなら隠居は不幸でしかないわ)


 花琳はそう思っていた。そして、厳顔はやはり未練を残していた。


 厳顔は許靖の前まで来て、頭を下げた。そしてその頭を上げると、澄んだ瞳で許靖にまっすぐ向き合った。


「許靖様。私は劉焉リュウエン様、劉璋リュウショウ様の二代に渡って仕えてきた武人です。先の反乱では劉璋様の配下として、東州兵と共に益州の豪族たちと戦いました。反乱を押さえる側として戦ったのです。ですが私自身は益州に生まれ、益州に育てられた地元民です。身内を攻めるような気分でした。それで何もかもが嫌になって、表舞台から身を引いたのです」


 許靖は厳顔の瞳をまっすぐ見返しながら話を聞いた。


 その瞳の奥には、長年の風雨に磨かれた見事な大岩が静かに佇んでいる。


 厳顔は言葉を続けた。


「ですが、私の将としての火はどうやら簡単には消えてくれないようなのです。奥方にそれを分からされました。もしお許しがいただけるなら一兵卒でも構いません、私を再び軍に置いていただけませんでしょうか?」


 許靖は微笑んでからうなずいた。


「一兵卒だなどと……厳顔殿には郡の治安維持を全面的にお任せしたいと考えています」


 その提案に最も喜色を浮かべたのは当の本人でなく、その一族の長である厳寿だった。


 一族の人間が重用されようとしている。この上なく喜ばしいことだった。


「いや、私ごときがいきなりそんな……」


「いいえ、私は太守として厳顔殿はそれに足る人物だと見ました。武人としての力もさることながら、あなたには人を惹き付ける魅力があります。地元豪族の出身者として移住民である東州兵を率いていただくことになりますが、あなたになら東州兵たちもついていくことでしょう」


 許靖の言葉に厳寿が嬉しそうにこくこくと首を縦に振った。


 許靖は厳顔の瞳の奥の「天地」から将としての適性を感じていた。


 その大岩の岩肌、姿は長年の風雨でなんとも言えない魅力を帯びている。厳顔は初老といっていいような年齢だが、その年齢特有の魅力が詰まった男だと言えるだろう。


 きっと兵たちも『この人について行きたい』と思うようになるだろう。


(加えて、厳顔殿は地元豪族である厳氏の出身だ。治安維持には地元民の人気や協力が必須だが、それが期待できる。地元民も安心だろう。それに厳顔殿は先の反乱では東州兵たちと共に戦っているから、東州兵からの受けもいいはずだ)


 許靖はそういった高度に政治的な背景も考慮して、厳顔以上の適任はいないと考えた。


 厳顔は困ったように苦笑して頭を掻いた。


「そう言っていただけるのは嬉しいのですが、隠居の身からいきなりの大役ですな……もう少しゆっくりしておけば良かった」


 そう言う厳顔の瞳の奥では大岩がまた揺れ始めており、許靖にはまんざらでもないことがうかがえた。


 それは頼む側としてありがたいことだったが、許靖は揺れる大岩を見て一つの心配事が脳裏に浮かんだ。


(厳顔殿は武人として有能だと思うが、転がり出したら止まらないようなところがある。それが災いして敵の罠などにかからなければよいが……)


 許靖はそんな老婆心を起こしたが、軍事は専門でないので要らぬことを言うまいと思い口にはしなかった。


 その代わりに全く別の話をした。


「厳顔殿、実はうちの妻がここ巴郡で武術教室を開こうと思っているのですが……」


「武術教室?奥方が?それはぜひ参加させていただきたい」


 厳顔すぐにそう返事をした。


 許靖はこの齢でこの向上心かと感心するとともに、話が早くて助かると思った。


「それはもうぜひにでも参加していただきたいのですが、厳顔殿には出来るだけ東州兵の部下を連れて参加していただきたいのです」


「東州兵の?それは訓練にもなりますし構いませんが……」


 許靖は次に厳寿は文成の二人を交互に見ながら話した。


「そして厳寿殿、文成殿のお二人には、出来るだけ地元民の方々に参加するよう呼びかけて欲しいのです」


 厳寿と文成はすぐに許靖の意図するところが分かった。


 そして文成がそれを口にする。


「つまり、その武術教室を東州兵と地元民との交流の場にしたい、ということですかな?」


 許靖は首肯した。


「おっしゃる通りです。妻はもともと女子供を相手に護身術を教えたりもしていたので、老若男女問わずあらゆる方に来ていただきたい」


「それは構いませんが……」


 文成は拒否はしないものの、あまり歯切れのよい返事ではなかった。


 文氏、厳氏をはじめとした巴郡の豪族は、反乱を起こした豪族たちに比べれば東州兵への反感も強くはない。


 しかし、それでもやはりよそ者相手には相容れないという思いがある。


 新任の太守から頭ごなしに仲良くしろと言われても、それにまた反感を覚えてしまうのだった。


 それを感じた許靖はさらに一言付け加えた。


「私も公務が許す限り、その武術教室には参加します」


 つまり、武術教室は太守と直接交流できる機会だぞ、という意味だ。


 しかもそういった場なら礼儀作法などにとらわれず、かなり近い距離で自由に会話ができるだろう。氏族の長としては、自分の一族の人間をできるだけ送り込みたいと思うのが当然だった。


 文成と厳寿の態度はくるりと向きを変えた。


「ぜひとも我ら文氏の人間も参加させてください。益州はこの乱世でも比較的平穏とはいえ、物騒なこともないわけではありませんからな」


「厳氏からもお願いいたします。いや、許靖様は良いことを考えられる」


 そう言って二人は声を上げて笑った。


 それから文成はふと思い出したように文立の方を見た。


「そうだ文立、お前も参加しなさい。学問も良いが、お前のような年頃はどんなことでも身となり骨となる。色々なことをやっておいて損はないぞ」


 言われた文立は陳祗の方をちらりと見た。陳祗も参加するかが気になったのだ。


 それに気づいた陳祗はにこりと笑って答えた。


「私も当然参加するよ。男はいざという時に女性を守れたほうが格好いいだろう?」


 陳祗はまたどこまで本気か分からないようなことを口にしたが、文立はそれで満足だったらしい。


「では、よろしければ私も参加したいと思います。茶会も武術教室も、良い経験になりそうなものに参加させていただいて、ありがとうございます」


 文立は許靖へ向かって礼儀正しく頭を下げた。


 そこで、文成がふと気がついた。


「ん?茶会?……許靖様、もしかして茶会にも……?」


 許靖は文成の考えを笑顔で肯定した。


「ええ、もちろん茶会には東州兵たちにも参加してもらおうと考えています」


 つまるところ、許靖が太守でいる間は東州兵と地元民の融和ゆうわが郡の方針として既定路線になるということだ。


 厳寿と文成はそれを今日、正確に理解した。


 そして地元豪族が利権を拡大するためには、太守の意に沿うことが一つの近道だ。


 その理解がまた、いっそう両者の融和に繋がるのだった。

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