第164話 絵描きと大岩
「茶会……ですか」
その横に並んだ
「茶会、茶会……宴会ではなく、茶会なのですか?」
二人の横に並んだ許靖はその質問に首肯した。
「そうです。宴会ではなく、茶会です。軽食や菓子とともに茶を喫し、歓談する会です。それを太守の主催で定期的に行おうと思います」
「それは結構なことですが……酒ではなく茶ですか」
厳寿には不可解だった。
普通なら酔って腹を割り、多少の痴態を見せあってこそ親睦を深められると考えるものだ。
(それも悪いことではないが、そうやって変に仲が良くなった結果として無茶を頼まれる。逆の立場ならそれを望むが、太守としては避けたいことだ)
許靖はそう考えた。
そしてまさに逆の立場である厳寿と文成は、太守に対して軽いとっつきにくさを感じた。
ただでさえ許靖には賄賂が効かない。先日の太守就任祝いの際、許靖は一切の贈物を受け取らなかった。高価なものだけでなく、ちょっとした菓子のようなものでさえも突き返された。
これは『賄賂は一切効かないぞ』という宣言であると有力者たちは捉えている。許靖としても、実際にそのつもりだった。
「酒の席もよいのですが、茶の席ならば女子供も参加できます。そういった民の声を直接聞ける場にできたらと思います」
「なるほど。でしたら妻や子を連れて来てもいいわけですな」
「ええ、お嫌でなければご家族で参加してください。気にされる方がいるようなら、奥方だけ別室にしても良いと思います」
この時代、特に上流階級の間では妻を人前に出すのを恥ずかしいこと、失礼なことだと感じる者もいた。であれば、妻は妻で一室設ければいいだけだ。
許靖の提案に二人は少し考えてから目を見合わせ、文成が尋ねてきた。
「許靖様もご家族で参加されるので?」
「もちろん。というか、実は茶会を開きたいというのは妻の希望が大きいのです。妻は大変な茶道楽でして、ここ益州の茶文化にずいぶんと感動したようです。主に妻が茶を振る舞い、うちの家族で参加者をもてなすような会にしたいと考えています」
許靖の返答で、厳寿と文成はこの提案に対する姿勢を決めた。
宴会とは少し違うが、これはこれで太守と近づく良い機会だと感じたからだ。
要は、家族ぐるみで仲良くなれる場なのだと捉えた。
「でしたら、むしろ妻たちも同じ部屋で結構かと。ぜひ家族ぐるみでお付き合いさせていただければと思います。今日もこうして
文成が指し示すように横に手をやった。
そこには今名前の出た文立が立っている。その頭に文成の手の平が触れ、そのまま頭を撫でた。
文立は十くらいの少年で、頭を撫でられれば腹を立てても良いような年齢だが、特に気にした様子もなくされるがままに任せている。猫のようなくせっ毛が軽く指に引っかかった。
文立の隣りには陳祗が並んでいる。
文立と陳祗は先ほどまで一刻ほど二人だけで話をしていた。許靖たち大人が政治向きの話をしている間、別室に二人で置いておかれたのだ。
二人はその短時間で随分と距離を縮めたようだった。
陳祗は持ち前の太陽のような明るい笑顔を輝かせた。
「良かったな、文立。大叔母様の茶は絶品だぞ。ただの茶じゃない。例えば子供向けには蜂蜜や乳を混ぜた茶などもあって、うちの妹たちも大好物だ」
「陳祗殿も出席されるんですか?」
「文立。私には殿、なんてつけなくていいって言っただろう?私の方が年上でも、文立の方が頭はいい。私は尊敬しているんだ。対等な友になってくれ」
「そんな……いえ、嬉しいのですが……」
文立は顔を赤くしてまごついた。
人は自分を好いてくれる相手には好意を持ち、自分を嫌う相手には悪意を向ける。面と向かってこのようなこと言われると、相手を好きにならざるを得なかった。
陳祗はこの真っ直ぐな明るさで、どこにいても、誰にでも好かれていた。
許靖はそれが分かっているから、茶会では陳祗に給仕でもさせて会全体を周旋させようと考えていた。きっと場を和ませてくれる。
それに、いかにも美少年な陳祗は奥方連中にも受けが良いはずだ。
陳祗に対等な友と言われた文立は、陳祗と比べるとかなり控えめな少年だった。おずおずと文成の方を向いて尋ねた。
「……文成様。私も茶会に出てよろしいのでしょうか?」
文立の確認に、文成は笑った。
「もちろんだ。お前は我が一族の自慢だからな。むしろそういった場に連れて行って、存分に自慢させてくれ」
「ありがとうございます」
文立は文成に褒められてもそれほど嬉しそうではなかったが、それでも目礼してきちんと礼を言った。その瞳を許靖は横目に見た。
文立の瞳の奥の「天地」には、丘の上で絵を描く少年の姿が見て取れた。涼やかな風が吹き抜ける丘で、目の前の景色をただひたすらに写し取っている。他のことには全く目もくれず、ただただその作業に没頭していた。
(大人でも難しい書物を暗記しているということだったが、恐らく見たものをそのまま記憶できる子なのではないだろうか。世にはそのような能力の人間もいると聞く。少なくとも視覚情報の記憶に優れる子なのだろう。それに、この没頭具合を見ると一つのことを掘り下げていく学者向きの性格なのかもしれないな。俗っぽい欲も無さそうだ)
許靖は文立の「天地」からそう感じた。
文成は一族きっての秀才と言っていたが、確かにその通りではあるのだろう。
人格的にも問題は無さそうだし、希望通りに機を見てしかるべき教育機関に推薦して良いと思った。
「しかし……二人とも動きませんな」
皆がずっと思っていることを改めて口にしたのは厳寿だった。
先ほどから許靖、厳寿、文成、文立、陳祗は一列になって、同じ方を見ながら話をしている。
五人の視線の先には二人の人間がじっと動かないまま対峙していた。
一人は花琳、一人は
二人は練兵場の真ん中で長時間、微動だにせずにいる。
許靖たちはそれを見ていたが、あまりに動かないので許靖がつい茶会の企画を話し始めたのだった。
厳顔は厳氏一族の武人で、公の職を辞してから半ば隠居していた。
今日はそれを厳寿が無理矢理に連れてきている。一族の優秀な武人を何とか役職につけようとしているのだ。
ただ、本人はもはやその気はないと言う。先ほども許靖に、
「もう齢だから隠居して休ませてほしい」
と言っていた。
そう言った厳顔の髪には確かに白いものが混じってはいるが、鉾を構える今の姿からは若々しい覇気が放たれているようだった。
訓練用の鉾を持つ厳顔の前に立つ花琳は相変わらず無手だったが、今日は手甲を付けている。美しく刺繍の入った籠手で、言われなければ防具だとは思わないだろう。
花琳は厳顔に会うなり挨拶もそこそこ、練兵場で手合わせをすることを申し出た。
提案された厳顔はじっと花琳を見返し、無言で練兵場へと出て行った。そして訓練用の鉾を取ると、やはり無言で構えてみせた。
花琳は体から力を抜き、半身でそれに対峙した。
その脱力した様子から、素人では感じ取れないものを厳顔は感じているようだ。腰を落とし、鉾を突き出した姿勢で動かなくなった。
二人は素人目には分からないものを互いにぶつけているようだった。
「まさか、日が暮れるまでこうしてるのでは……?」
厳寿は冗談なのか本気なのか、そんな心配を口にした。それを否定したのは、意外にも文立だった。
「いえ、お二人とも少しずつ変化が見られるように思います。きっと、もうすぐ動きます」
「そうか?私には全く変化が分からないが」
文成の言うことに厳寿が同意した。
「私も分からない。二人ともずっと微動だにしていないだろう?」
確かに普通に見たら、二人はただ構えたままでいるだけだ。
しかし文立は何かを感じているらしい。そして、それは許靖も同じだった。
(文立の言う通り、確かにもうすぐ動きそうだ)
許靖がそう感じることができたのは、厳顔の瞳の奥の「天地」に変化が見られたからだった。
厳顔の瞳の奥の「天地」には、大きな球形の岩が鎮座している。それはどっしりとした構えの、いかにも重そうな岩だった。
長年の風雨にさらされた岩肌がなんとも言えない風合いを醸し出している。きっと陶深が見れば『姿の良い岩だ』などと表現するのではないかと思った。
その大岩が、花琳と対峙している間に少しずつ揺れ始めていた。思えば花琳と初めて目を合わせた時に、その岩はかすかに震えたような気がした。
武人として花琳と対峙し、何か響くようなものがあったのかもしれない。
(しかし……私は瞳の奥の「天地」からそれが分かるが、文立はなぜ分かった?外見上は厳寿殿たちの言う通り、何も変わっていないように思える。それで何か分かるというのは、やはり視覚情報に関する能力が高いということか。しかも、それを処理する能力に長けているのかもしれない)
許靖は文立の瞳の奥の「天地」を改めて考えた。
そこにいる絵を描く少年は、おそらくただ目が良いだけではない。目で見たものを、自分なりに捉えて描き直しているのだ。
情報はただそれだけでは何の意味もない。それを分析・評価してこそ、初めて意味が生じる。
文立はそこにも秀でているということだろう。
(もしかしたら、私と同じように人物鑑定でも力を発揮するかもしれないな)
許靖はその可能性にも思い至った。
人を見て、その特性のようなものを正確に分析・評価することができれば、優れた人物鑑定を行うことが出来るだろう。
許靖がそんな思考を巡らせているうちに、厳顔の「天地」の大岩はさらに揺れを大きくしていった。もし現実にこのような岩があれば、潰される恐怖で一目散に逃げ出すだろう。
そして揺れの振り幅が一線を越え、岩が転がり始めるとともに現実の厳顔も動き出した。
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