第160話 地元豪族
許靖は大物との話を終えてそっと息を吐き、陳祗を振り向いた。
「陳祗、お疲れ様だった。交代して休んでくれ」
「ありがとうございます。では、そうさせていただきます」
陳祗は筆を置いた腕を揉みながら下がって行った。
それを見送った張裔は、許靖の表情を確認しながら尋ねた。
「許靖様も少しお休みになりますか?だいぶお疲れのようですが」
「いえ、時間にあまり余裕がないでしょう。次をお願いします」
疲れた顔で首を振る許靖を心配しつつも、張裔は次の者を呼ぶよう係の人間に指示した。
係の人間は会場の中央辺りで歓談している若い男の所へ早足で向かって行く。
そして順番を告げるために声をかけている時、ちょうどその横を
二人はその若い男を横目で確認すると互いに顔を見合わせ、急に踵を返して小走りに許靖の元へ戻ってきた。
「お二人とも、どうされました?」
許靖は表情を厳しくした厳寿と文成を見て、疲れた心にまた鞭を打ち身構えた。
「先程あのようなことを言いながら申し訳ございませんが、いま少しお時間をいただけますでしょうか」
「次に呼ばれていた男に関してです。
許靖が張裔に目で確認すると、うなずいて肯定された。
許靖は事前にもらった資料の記憶から趙才という名を探した。
「確か……趙才殿は新興の商人だったと記憶していますが」
厳寿が固い表情で許靖の情報を補足した。
「ただの新興商人ではありません。巴郡の経済を崩壊させておる張本人です」
「経済を崩壊?……なかなか大仰なお話ですね」
許靖の知り得ている情報の中では、郡の経済が崩壊しているなどという話はなかった。
もしそうであれば、新任太守とはいえすでに耳に入っているはずだ。
厳寿もそのあたりは理解しており、言葉を継ぎ足した。
「経済は今すでに崩壊しているわけではありませんが、大岩が緩やかな坂道を転がるように下り始めています。そして勢いがついてしまった時には誰も止められません。全てあの趙才が巴郡に来たせいです」
文成も厳寿と同じく固い表情で同意した。
「左様。趙才は雑貨、食料品、衣類、装飾品など何でも扱いますが、その全てにおいてそれまでの相場を無視した過剰な安値で売り始めたのです。おかげで在来の商人たちはひどく売上を落とし、爪に火を灯すような生活をしながらその価格に対抗せざるを得なくなったのです」
なるほど、と許靖は大体の状況を理解した。
過当競争により、いわゆるデフレーションが起こっているのだ。
(新規参入の事業者が派手に勝負を仕掛けた結果なのだろうが……それにしても郡全体の経済に影響を及ぼす程となると、簡単に出来ることではない)
許靖はその点が気になった。
趙才という男は何をどうやってそれほどの価格破壊を引き起こせたのか。
無理をして一時的な低価格を実現するにしても、資金力という名の体力が相当必要となるはずだ。
「趙才殿はどのようにして低価格の商品を提供しているのでしょうか?」
厳寿は答える前に、横目で趙才がまだ遠くにいる事を確認した。
「……趙才が商人として
「趙韙というと、数年前の反乱の中心となったあの趙韙ですね。しかし、それと価格を引き下げられる事とどんな関係が?」
趙韙は東州兵の横暴に不満を持った益州豪族たちをまとめ上げ、反乱を起こした人物だ。
数万の軍勢を糾合し、初めこそ劉璋を籠城に追いやるほど有利に運ばれた戦だった。しかし東州兵の必死の反撃に遭い、追い詰められた趙韙は最終的には部下に斬殺された。
ちなみに趙韙の本拠地は巴郡よりも西の
厳寿もほぼ静観で終わった豪族の一人だった。
個人的には移住者の集団である東州兵に反発する気持ちがあるが、一族の命運を握っている者として軽々しくは動けなかった。
「趙韙の一族は反乱の首謀者を出したことで、そのまま巴西に住み続けるのが難しくなったそうです。それであの趙才めが一族郎党かなりの人数を引き連れて巴郡へ移り住んで参りまして……よるべのない集団ですから、何とか巴郡に根を下ろそうと必死だということです」
「つまり労働者が必死に働くから、他よりも生産効率が上がっている、と?」
許靖は多少の疑問を覚えた。
「効率と言っていいかは分かりませんが、やはり生活がすでに安定している労働者と、安定した生活を掴もうとする労働者では仕事の結果に対するこだわりも違いましょう」
許靖としても厳寿の言うことが間違っているとは思わなかったが、趙才の躍進はそればかりでは無いはずだ。やる気だけで結果を飛躍させられるほど経済は甘くない。
そして許靖の心中を肯定するように、文成が情報を付け加えた。
「趙才には東州兵の血も入っております。それで趙韙の一族にもかかわらず、上手く立ち回って軍にも商品を卸しているのが奴の資金力になっているのです」
「東州兵の?」
「はい。正確には趙才の母が東州兵たちの故郷である
母が同郷なだけと言っても、東州兵は移住者の集団だ。
異国の地で移住者同士が同郷であるということは、そのまま仲間であることを意味するだろう。
(しかし……東州兵にとっては自分たちに牙を向いた人間の身内でもある。そう簡単ではないだろう)
許靖はそう思った。同郷人の血を引いていても、趙韙の一族であるというだけで逆に恨まれてもおかしくない。
(それに趙韙の一族は東州兵に恨みを抱いているはずだ。その一族を東州兵と同じ血を引いている人間として率いている、ということになるな)
板挟みの血筋。
東州兵と趙韙、血を流して戦った双方の血筋を引くのだから、双方から疎まれてもおかしくはない。
その男が双方と上手くやっている。
(よほどの人格者か、相当な実力者か……)
許靖は腕を組んで唸った。どちらにせよ、趙才もかなりの大物には間違いなさそうだ。
厳寿と文成に続いて、また心を緊張させて向き合わなければならない。
「許靖様。あのよそ者の巧言令色に騙されてはなりませんぞ。何を言われてもよくよくお考えの上でお答えください」
「左様。目先には見目良いものをぶら下げられるかもしれませんが、先々のことまで考えればきっと巴郡のためにならぬ事です。許靖様におかれましては、何とぞ在来の商人たちの苦しみをご理解ください」
許靖は厳寿、文成の希望をほぼ正確に理解した。
要は、
『よそ者が巴郡に来て好き勝手やってるけど、あんたは乗せられるなよ。出来れば何とかしてくれ』
ということだ。
権益を守ろうとする主張といえばそうだが、地場の豪族として地場の商人を守ろうとするのも当然のことだろう。
許靖は了解したが、言うべきことは言うことにした。
「お話ありがとうございました。参考になりましたし、気をつけさせていただきます。ただ、直ちに法令違反や重い倫理上の問題がない限り、太守としてすぐには動けませんのでその点はご了承ください」
我ながらひどく官僚的な返答だとは思ったが、公の仕事をする人間が下手に
厳寿と文成は新太守を『
(それに、官僚の扱いなら慣れている。これからいかようにでも上手くやっていこう)
二人はそんな事を思いながら改めて頭を下げ、今度は本当に自分たちの席へと戻って行った。
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