第161話 新興商人
(騎馬たちが駈け比べる「天地」……か。これは人格者ではなく、実力者の方だったな)
許靖は挨拶を済ませた
反乱首謀者である
そしてその仲違うはずの双方を味方にしている者。
(考えてみれば当たり前か。厳寿殿が、趙才殿は遣り手の商人だと言っていた。新興の遣り手商人が人格者では務まらないだろう)
許靖の見る瞳の奥の「天地」では、騎馬たちがその速さを激しく競い合っている。
「私の顔に何か付いておりますでしょうか?」
趙才はその瞳の奥の「天地」からは想像もできないほど静かな声で尋ねてきた。
激しく争っている騎馬たちには似つかわないような声音だ。
「いえ、失礼しました。何でもありません」
許靖は謝りながら、騎馬たちの中でも一人だけ冷静に周りを見渡す騎手を見つけた。
他の騎手たちはただ速く前へ進むこととしか考えていないようだったが、その騎手だけは時折首を上げて全体へ目を走らせている。
(あれが趙才殿本人ということか……ただ競うのが好きなだけな男ではないな)
許靖は趙才の瞳の奥の「天地」に対する評価を改めた。
趙才はその瞳を細めて微笑した。
「てっきり私の瞳に何かが見えるのかと思いました。もしそうなら何が見えるのか、教えていただきたいものです」
趙才は曖昧な言い方をしたが、明らかに許靖の能力について情報を仕入れているようだった。
しかし許靖は太守でいる間、出来るだけ瞳の奥の「天地」が見えることは否定しようと考えていた。
自分はあくまで占い師などではなく、為政者なのだ。周囲にとってもそれを勘違いされては困る。
「涼やかな目元だと思って見とれていました。女性にはさぞ人気がありましょう」
許靖はそう白を切ったが、まるきりの嘘を言ったつもりもない。趙才は芝居の役者にでもなれそうなほど整った顔立ちをしている。
齢の頃は二十代半ばだろうか。年齢を考えても、女性には不自由しなさそうな男だった。
「それがまるで。どうにも女性には縁が薄いようでして、この齢でいまだに独り身です。もしよろしければ『花神の御者』様に良さそうな相手をご紹介いただけると嬉しいのですが」
許靖は趙才の一手を軽やかにかわしたつもりだったが、思わぬ方向から弱い所を突かれた。
斜め後ろの
許靖はこれ以上その話を膨らませまいと咳払いした。
「……趙才殿であれば、私などが世話を焼かずとも引く手は数多でしょう。商売も順調のようですし」
許靖は縁談の話から商売の話に切り替えたかっただけなのだが、趙才は思うところがあり苦笑した。
「厳寿様、文成様が私のことを色々言われていたのでしょう。大体の想像はつきます」
趙才は冷静に状況を分析できる男だ。
許靖はごまかすだけ無駄だとは思ったが、一応否定だけはしておいた。
「お二人は一族の有能な方を推薦していっただけですよ」
「お気遣いしていただかなくとも結構です。二人とも私の顔を見るなり、血相を変えて引き返して行かれました。それに、自分が地場の豪族からどのように思われているかも分かっているつもりです」
そう言われて、許靖はそれ以上否定はしなかった。
「ですが許靖様、これだけは言わせてください。競争による進捗だけが人々の生活を豊かにするのです。どんなものでも競えば自然と洗練されていきます。私がここ巴郡で商売を始めてから間違いなく物価は下がっておりますし、商品の質も上がっております。民の生活は豊かになっているはずです」
趙才の涼やかな瞳が熱を帯びていた。
(競争による進捗……か。それが趙才殿の芯に刻まれた信条なのだろう)
許靖はそこに趙才の半生を見たように思えた。
「趙才殿がそうやって力をつけてきたのだということがよく分かります」
そう言われた趙才はやや遠い虚空を見つめ、それから少しだけ目を閉じた。何かを辛い過去でも思い出しているようだった。
「許靖様は私があの趙韙の一族であること、そして東州兵たちと同じ血を引いていることをご存知でしょうか?」
「はい、聞き及んでいます」
「私は自分の一族からも、東州兵からも忌み嫌われるも存在です。己の意思と関係なく、そう産まれついたというだけで……しかし、それにも関わらず今は一族をまとめあげ、東州兵にも大量の商品を卸しております。許靖様はなぜそれが出来たと思われますか?」
許靖はなんとなく分かるような気がしたが、首を横に振った。
「それは、私がこれまで人と競い続け、自らを磨き続けてきたからです」
趙才は噛みしめるように、ゆっくりとそう言った。
「私はまだ少年の頃から商人の世界に身を置き、同業者と切磋琢磨しながら力をつけてきました。それで一族存亡の危機が訪れた時、大勢の一族郎党が食べていくための仕事を最も与えることが出来たのが私だったのです」
許靖は複雑な気持ちで話を聞いた。
趙才の言うことは、ある意味で悲しい。
捉えようによっては一族からその血で忌み嫌われているにも関わらず、実利のために利用されていると知っていながら、それでも一族をまとめているとも取れる。
だが趙才はそのようなことを気にする様子もなく言葉を続けた。
「東州兵へ商品を卸せているのも、私の扱う商品が他よりも抜群に安く、しかも品質が良いからです。軍も私が有用だと理解しているのです。それもこれも、ひとえに私が商人として他と競いながら進捗し続けてきたことによります」
「私も経済にとって最も大切なものは、適正な競争だと考えています」
許靖は趙才の熱弁にそう応じた。
別に趙才を気遣って同意したわけではない。許靖自身、過去に中央政府に勤めていた時から常々思っていたことだ。
趙才は許靖の同意に目を輝かせた。自分の瞳の奥の「天地」である競争を肯定されることは、自分自身を肯定してもらえたのと同じことだ。
太守からそのような言葉を聞けて、心が嬉々として舞い上がった。
「おお!!分かっていただけますか!!それをお分かりの行政官の方にはめったお目にかかれません。許靖様が巴郡の太守になってくださって本当に良かった」
「競争のない環境は、停滞するどころか腐りますからね」
特に腐敗した後漢王朝を内側から見てきた許靖としては、そのことを身に沁みて思う。
趙才もしみじみとうなずいた。
「おっしゃる通りです。しかし、それを分からぬ輩が世の中には多々おります。本日、私がご挨拶とともにお願い申し上げたいのは自由な競争の促進です」
許靖は今日これまで何人かの商人から陳情を受けてきたが、自由競争を口にしたのは趙才だけだった。
ほとんどの人間が自分に有利になるような環境を整えるよう願った。中には露骨に役所として自分の商品を買ってくれるよう宣伝してきた者もいる。
「私は、私を優遇して欲しいとは絶対に申しません。ただ、皆を平等に競わせてほしいのです。どのような血筋の人間でも、どのような出身の人間でも、同じように競争できる環境をお作り願いたい」
許靖は趙才の言うことに感心すると同時に、その過去にも思いを巡らせた。
(商人として見上げたものだが……恐らく自身の出自で辛い目に遭ったのだろう。競争好き、というだけでは作れないような顔をしている)
趙才の表情からは自身の好きな競争への熱意だけでなく、微妙な憂いが読み取れた。
それはきっと、傷跡の疼きが作らせるシワのようなものだろう。
「趙才殿のお気持ちはよく分かりました。出来るだけそのような環境が整えられるよう努力しましょう。ただ一つ、これだけは分かっておいてください」
許靖は一旦言葉を切り、趙才の瞳を改めてまっすぐ見てから先を続けた。
「私たち行政が目指す最終目標は経済の発展ではなく、民の幸福です。その着地点において齟齬があると、困ったことになりかねませんのでご注意ください」
趙才は軽くうなずいて応じた。
「分かっております。競争で様々なものが発展すれば、民の生活は必ず豊かになりますのでご心配には及びません」
(……これは、分かっていないな)
許靖はそう感じたが、それ以上掘り下げて話はしなかった。できればもっと話したかったが、それだけの時間がないのだ。
短い話では終わらない。それに、話をしただけで分かってもらえるとも思えなかった。
ただ、商人として馬力のあり過ぎる男なのでこのまま放置していいとも思わなかった。
「趙才殿、よろしければその内お仕事の視察に行きたいのですが、いかがでしょうか?」
許靖の申し出にまず反応したのは趙才ではなく、許靖の斜め後ろに控える張裔だった。
「でしたら税務調査も行わせてください。色々と確認したいことがありますので」
張裔は許靖よりも早く役所に入っているので、郡の運営に関してすでに多くを把握している。
特に財務状況は重要なので、税に関しては深いところまで調べているようだった。
商人が役人に『税の調査』などと言われれば、普通は後ろめたいことがなくても怯んでしまうものだ。
しかし趙才は自信満々に答えた。
「視察も調査も歓迎いたしますよ。うちは自信を持って紹介できる仕事をしておりますし、税に関してもきっちりやらせていただいています。実際、うちの税の申告に関して怪しいようなところは無いでしょう?」
「ええ、おっしゃる通り怪しい所が全く無いのです。だからこそ怪しい」
許靖は張裔のはっきりとした物言いに眉根を寄せたが、趙才は微笑した。
「お噂通り、張裔様はご優秀だ。どうぞ、いつでもお越しください」
「では、今から担当者を向かわせます」
今から、と言われてさすがに趙才は驚いた。
「今すぐに、ですか?構いませんが……」
「この宴には税務の担当者も来ていますが、元が税務の人間なので今日は手伝いの人数でしかありません。それならそちらに行かせて調査をさせた方がいい。確認すべき事項はすでにまとめてありますので」
張裔は言うが早いか、近くの者に命じてすぐ担当者を呼んで来させた。そして矢継ぎ早に指示を伝える。
税の不正を調べるのであれば、抜き打ちでやった方が当然効果は高いだろう。
趙才はテキパキと指示を出す張裔に感心した。
「張裔様は本当に出来る方ですね……どうでしょう、役人などお辞めになってうちで働かれては?」
「役人の仕事も『役人など』というほど下らなくはありませんよ」
「これは失礼」
二人がそんな会話をしている間に、許靖は手元の紙にさらさらと何かを書いていた。
軽く見返して、それを税務の担当者へ渡す。
「併せてこちらの事項も確認しておいてください」
担当者はそれを受け取ると、頭を下げて下がって行った。
許靖は趙才に向き直って笑顔を作った。
「趙才殿はせっかくなので、宴の終わりまで楽しんでいってください」
「お気遣いありがとうございます。そうさせていただきます」
許靖の言葉にはもちろん『戻って抜き打ち調査の対策をしないように』という意味も込められており、趙才もそれは理解している。
それでも特に逆らわず、趙才は改めて挨拶を口にしてから下がって行った。
去り際に許靖が見た瞳の奥の「天地」では、趙才本人と思われる一騎が今まさに腕を振り上げて馬に鞭を入れようとしていた。
(自由競争に肯定的な、与しやすい太守だと思われたかもしれないな)
許靖は趙才の背中に疾駆する騎馬の後ろ姿を重ね、軽い不安を覚えた。
確かに許靖は競争には肯定的だが、野放しの自由競争は多くの弊害を生む。騎馬に街中を疾駆されたのでは、危なくてしょうがない。
許靖はこめかみを揉みながらそのことについて考えた。疲労で麻痺しかけた脳を叱咤するため、かなり強く揉んだ。
揉みながら次の陳情者が来るのを待っていると、宴会場を出た廊下の方から何やら騒がしい物音が聞こえてきた。
(なんだ?)
許靖は疲れた意識をそちらに向けたが、次に聞こえてきた叫び声で疲れなど吹き飛びんだ。
「……お前が殺したんだろう!お前が!」
聞き間違いでなければ、その声は陳祗のものだった。
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