第159話 地元豪族
「大叔父様……腕がつりそうです」
もともと今日の話があった時から、多少の辛いことは耐えようと覚悟していた。良い勉強、良い経験になる場を与えてもらえたのだから、弱音も吐くまいとも心に決めていた。
しかし、まさか筋肉が辛くなるとは思いもしなかった。
(物理的、身体的に限界なのは仕方ないよな)
そう思い、許靖の背中に助けを求めた。
振り向いた許靖も随分疲れた顔をしている。腕を揉む陳祗を見て、許靖は自分のこめかみを揉んだ。
「そうだろう、話をしているだけの私でも疲れたからな。次の一組が終わったら、他の者に交代して休憩に入ってくれ。まだこれだけいるしな……」
許靖は宴会場の客たちを見渡した。
今日は新太守就任の宴だ。祝いであるとともに、重要な顔見せの機会でもある。
それに加え、許靖の意向でこの宴を太守が直接陳情を聞く場にもするとの通達が出されていた。
太守と個別に話ができるのだ。おかげで相当数の人間が集まって来た。
「陳祗、頑張ってくれてありがとう。とても助かってるよ。その記録は後でしっかりと活用させてもらう」
陳祗は許靖のその言葉で疲れが吹き飛ぶような思いがした。実際には腕に溜まった疲労物質は消えはしなかったが。
許靖は宴で各人と話すに当たり、その内容を速記させていた。その速記人の一人に陳祗を指名したのだ。
陳祗は祖父からしっかりとした教育を受けており、筆記能力は十分だった。途中で何度か確認したが、十分に書けている。
(それに、陳祗のような子がいれば場も和む。太守との話で緊張する者も多いだろうからな)
どの程度効果があるかは分からなかったが、許靖はそんなことも考えていた。事実、暖かい太陽のような陳祗はどこに行っても、誰にでも好かれることが多い。
(それにしても多く集まったな。ちょっと集まり過ぎなほどだ)
許靖の狙いとしては、郡内人士の瞳の奥の「天地」を見て今後の仕事に活かしたいという狙いもある。だから出来るだけ多くの人間と直接会いたいと考えていた。
そして実際にやってみて、確かに今後の仕事の参考にはなりそうではあった。
ただ、正直かなり疲れる。
(当初は誰でも自由に当日参加できる宴にしようと考えたが、やめておいて正解だったな。事前申請制にしてもこの人数だ)
もし当日参加可にしていたら、収集がつかない事態になっていただろう。
太守に直接陳情できる機会などそうない。反響は大きく、参加希望の竹簡がひっきりなしに届いた。
「許靖様。明日、明後日もありますので、あまり飛ばし過ぎませんように」
許靖の斜め後ろに控えた
許靖は新任の太守として張り切りもあったので『当日参加可能なら分け隔てなく来てもらえる』という理想だけで企画をしてしまった。
それに対し張裔は実務上の問題点を指摘し、せめて事前申請制にすべきと的確な指摘をしてくれた。
事前申請制にしても三日に分けるような人数になったのだ。張裔はその仕事を十分に果たしてくれたと言える。
(やはり、張裔殿には素晴らしい実務の才がある)
許靖はあらためてそう思った。
「張裔殿の言う通りですね。確かに気を楽にしていかないと、心が擦り減りそうです」
「ただし、次だけは心を擦り減らしてでも気張ってください。特に力のある方々です」
「……」
張裔は優しくないわけではなかったが、締めるところは締める。
そこは優秀な副官の条件に合致しているわけだが、容赦のない言い方に許靖は閉口した。
「
張裔の言い方には容赦がなかったが、厳氏と文氏は巴郡でも特に有力な豪族達だ。
大姓であり、一族の数が多い。確かに気張る必要があるだろう。
「厳寿殿、文成殿……お二人は仲が良いということでしたね」
「はい。お二人一緒にお話になるとのことでした」
許靖は事前に読んでいた情報の記憶をたどり、張裔はそれを肯定した。
張裔は許靖が真面目に資料を読み、記憶していることを心中で評価した。
(許靖様は人柄も良いし、真面目で頭の回転も速い。今のところ、
張裔は張裔で劉璋のお目付け役として来ているということもあるので、事ごとにそんなことを考えなければならなかった。
しばらくすると、係の役人に呼ばれた厳寿と文成がやって来た。
壮年の男二人は共に顔を赤くしており、すでにそれなりの量の酒が入っているのが見て分かる。
二人は許靖に
「許靖様、この度は太守へのご就任おめでとうございます」
「どうかこの巴郡を良き道へとお導きください」
許靖も丁寧に礼を返した。
「良き道へ進むには、お二人のように巴郡をよく知る方々のご協力が欠かせません。どうか、お力添えをお願いします」
許靖はそう返答しながら、二人の瞳に目をやった。
(……二人とも、猿の群れの「天地」だな。厳寿殿の猿たちは山間部に住み、文成殿の猿たちは平地の森林にいる。多少の違いは見られそうだが、よく似通った「天地」だ)
瞳の奥の「天地」が近しい者同士の相性はとても良いか、とても悪いかのどちらかに大きく振れることが多かった。
厳寿と文成の場合は良い方なのだろう。
(しかし、こういった群れを作る「天地」は良し悪しだ。身内を慈しむという傾向がある一方で、部外者を除け者にしたり反発したりすることがある)
許靖は警戒した。許靖も益州の外から来た人間だ。
そんな許靖の心中を露とも知らない厳寿はにこやかに話を続けた。
「もちろん巴郡に生まれ育った民として、出来うる限りのお手伝いはさせていただきます。特に我が一族は山野のことなどはよく分かりますからな。許靖様は巴郡の地理などよくご存知ないでしょう?」
「はい、まだ来て日も浅いので地図でざっくりとした認識を持っている程度です」
許靖の回答に、厳寿はうんうんとうなずいた。
「そうでしょう、そうでしょう。ここ巴郡の地形は入り組んだところも多く、たとえ領内を直に廻られたとしても気づかないような間道が多うございます」
「なるほど、ぜひその辺りのことをまたご教授……」
「にもかかわらず、郡の守備には東州兵や異民族の兵が使われております。これではいざという時に地理的な優越性を活用できません」
厳寿は許靖の言葉を遮るように早口でしゃべった。
酔っているという事もあるだろうが、明らかにただの挨拶ではなく許靖へ言いたいことがあるようだった。
(陳情の場でもあるのだから構わないが、力のある豪族だ。特に注意して聞かないと)
許靖は改めて心中で身構えた。
厳寿は言葉を続ける。
「もちろん東州兵や異民族の兵を否定するわけではありません。それによって我らの兵役も緩やかなものになるのであれば、それは本当にありがたいことだと思っております。しかし……」
厳寿の言うことは巴郡の民全てが感じていることだろう。
過去には反乱が起きるほど東州兵に対して不満があったわけだが、兵役を逃れられるのは間違いなく利益だ。
「しかし、やはりその上に立って統率する人間は巴郡の人間から選ばれたほうがよろしいのではないでしょうか。そうすれば地理的な知識は十分ですし、地元民との融和も図れる。私はそう思うのです」
「おっしゃること、一理あると思います」
厳寿は許靖の同意に滑り込むようにして提案を重ねた。
「そこで、我ら厳一族の中には良い将がおりまして……」
(そら来たぞ)
許靖はやはり、と思った。
(自分の一族を取り立ててもらい、利権を拡大させるつもりだろう。逆に考えれば、一族の何人かを適当な役職に取り立ててやれば協力的になるだろうが……)
劉璋の話を聞いた時からこのような流れは想像していた。
益州の豪族たちは外部勢力を上に戴くことを強く否定せず、その下で利権を伸ばそうとする。それに、猿は強い相手には従うものだ。
厳寿は一族を誇るように胸を張ってその将の名を挙げた。
「
許靖は張裔を振り向いた。
張裔は劉璋の副官をしているだけでなく、以前には巴郡の一部でもあった
張裔は首肯した。
「おっしゃる通り、厳顔殿のご高名は私が県長をしていた時から聞き及んでおりました。骨のある、理想的な武人らしい武人である、と。しかも、民や土地に対する愛情が深い方だとうかがっています。ただ……厳顔殿はもう結構なご年齢だった気が……」
張裔の言葉に、厳寿は声を上げて笑った。
「確かに厳顔は初老と言ってもよい齢ですが、体と頭は現役も現役。むしろ、そこらの若者よりもよほど活力にあふれておりますよ。いかがです、許靖様。野に置いておくには惜しい男です」
厳寿は酔った勢いもあり、許靖の方へ倒れ込むように迫った。
(取り立てると約束してやれば、この豪族との付き合いが楽になるのは分かっているが……)
そうであっても、許靖は安請け合いなどしない。
鷹揚に微笑してから答えた。
「それはぜひ、一度お会いしたいですね。そのうち席を設けましょう。厳顔殿の名をよく覚えておきます」
無難にそう答えるだけにしておいた。
許靖としては直接会い、きちんと瞳の奥の「天地」を確認してから採用したい。
「……分かりました、今度連れて参ります。その時には許靖様もお飲みください。ともに歓談いたしましょう」
許靖は自分の就任祝いであるのに、挨拶と陳情への対応のため飲酒していない。厳寿はそう言ってから身を引いた。
「全軍とはいかずとも、一軍くらいは預けていただいて間違いありませんので」
身を引きながらも、厳寿はそう言い残した。
それと入れ替わるようにして、今度は文成が一歩前へ踏み出してくる。これもまたにこやかに話を始めた。
「許靖様。私の方からは今すぐにではなく、将来の益州を背負って立つ人材を紹介させていただいてよろしいでしょうか」
「将来、ですか。優秀な若者がいるのですね?」
「おっしゃる通りです。名を
毛詩は中国最古の詩集で、三礼は儒教の礼に関わる三種類の書物だ。
(確かに十で諳んじられるようなものではない。それにこの場でわざわざ推してくるような子なのだから、よほどのものなのだろう)
許靖はまだ見ぬ文立をそう判断した。
「なるほど、よほど出来る子なのですね。その子を
益州全体を治める治所は西の成都であり、当然大きな教育機関や優秀な教師はそこに集中している。
文成の希望は、太守の肝入りで一族の秀才をそこに入れたいということだった。
「おっしゃる通りです。ごく真面目な子なので、許靖様の顔に泥を塗るようなことはまずございません」
厳寿の希望に比べればまだ軽い望みだった。
しかし、やはり許靖様は安請け合いはしない。
「では、文立殿と会う機会も設けましょう。ちょうど後ろにいる兄の孫と齢が近いようですから、同席させてよろしいでしょうか。陳祗と言います」
益州の将来を担うような人物、という点では陳祗も同じだと許靖は考えている。
将来のためにも、二人を引き会わせておくのは悪いことではないと思った。
紹介された陳祗は筆を止め、頭を下げた。
「陳祗でございます。どうぞお見知りおきを」
「ほう、許靖様のご親族ですか。その齢で仕事を任されているのだから、陳祗殿もさぞかしご優秀なのでしょう。うちの文立に色々教えてやってください。文立は子供のくせに少し真面目すぎるので、若者同士遊びなども教えてもらえるといいかもしれません」
そう言われた陳祗は少し考えるように首をひねった。
「遊び、ですか……女遊びでもよろしいですか?」
「馬鹿を言うんじゃない」
許靖はピシャリと言い放った。
許靖は陳祗がどこまで本気か分からないと感じたが、文成は完全に冗談だと思ったらしい。愉快そうに破顔した。
「はっはっは、うちの文立も陳祗殿くらい面白みがあったらもっと良かったのですが。まぁ優秀さは一族で太鼓判を押せるほどに間違いのない子ですから、ぜひ一度会ってやってください」
文成はそう言って一歩下がった。
厳寿はそれで話を切り上げる頃合いと判断して頭を下げた。
「我ら二人のような人間があまり長居しては他の者が困るでしょう。そろそろ下がらせていただきます。許靖様のご厚意を潰すわけには参りませんからな」
「左様。普段太守様と話す機会など無いような者たちでも陳情できる場として催されたのに、我らが話し込んでは意味がない」
厳寿も文成も郡有数の豪族の長なのだから、希望があれば当然いつでも太守と会えるのだ。二人にはその余裕があった。
許靖としてもそれは当然分かっているし、二人と話し合いたいことはこの会程度の時間で足りるわけがないほどの量ある。
「お気遣いありがとうございます。お二人とはまた別日にお話する機会を設けますので」
「よろしくお願いいたします」
厳寿と文成は改めて頭を下げ、踵を返した。
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