第144話 虎豹騎
隊長の号令で兵たちが一斉に動いた。
残った部下は六人で、三人が花琳へ、二人が芽衣へ、そして残った一人が小芳へと向かった。
「ちょっと、なんで私の所に来るのよ!」
小芳は据わった目で相手に抗議した。
しかしそんなことを言われても、兵としても困る。
「なんでって……命令だ」
「私はあっちの人たちと違って普通の女よ。鍛えてもないし、全然強くないわ。抵抗する気もないわよ」
「それでも悪いがそういう命令で……」
「命令だったら無力で無抵抗の女を傷つけるわけ?主君の面汚しね」
男は主君の面汚し、という言葉に過剰に反応した。
虎豹騎は曹操直属であることを誇りに思っており、忠誠心が高い。そうでなくとも、あらゆる才を備えた曹操は兵たちから絶大な人気を持たれていた。
その主君の面汚しと言われて、さすがに男は腹が立った。小芳の胸ぐらを掴み上げ、凄んでみせた。
「なんだと!」
「ほら見なさい。そうやって、弱者をいたぶるのが主君の面汚しでなくて何なのよ」
男は歯噛みしたが、この女に手を上げてしまえば言われた通りになってしまう。
小芳を掴んだ手を離し、苛立ちに踵を鳴らして背中を向けた。
(それに、確かにこの女にかまってる場合じゃなさそうだ)
振り返った男の視線の先では、花琳と芽衣が複数の兵を相手にして見事に捌いていた。あちらに加勢した方が良いのは間違いなさそうだ。
男がそちらに一歩踏み出した時、その後ろでは小芳が大きな酒瓶を頭上高くに振りかぶっていた。
そして数瞬後、それは一切の迷いなく男の後頭部へ叩きつけられた。
まだ酒がなみなみと入っていた瓶はかなりの重量だったらしい。陶器の砕ける音とともに男の意識は消失し、破片と酒にまみれてバタリと床へ倒れ伏した。
芽衣は横薙ぎの一撃をかわしつつ、横目でそれを見て残念そうな声を上げた。
「あーあ」
「うちの人に手を出したんだから、このぐらい当然よ」
芽衣はだめになった酒がもったいなくて声を上げたのだが、小芳は勘違いしてそんな言葉を返した。
「ふふふ……お母さんはお酒よりお父さんが好きだからねぇ」
芽衣は可笑しそうに笑いながら、次の一撃も体を捻らせてかわした。
そして足をふらつかせ、ゆらゆらと体を揺らす。
「よーし、そろそろ酔いも回ってきたことだし……始めますか」
芽衣が相手にした男二人が、両側から挟み込むようしてに鞘ぐるみの剣を振った。攻撃の範囲が広いため、普通なら下がってかわすべきだろう。
しかし、芽衣は二人の間に倒れ込むことでそれらを避けた。
「よっ」
そんな軽い声とともに、床で体を回転させる。低い下段蹴りが右側の男の足をすくい、背中から転倒させた。
そして息つく間もなく芽衣の体は跳ね上がり、勢いを乗せた掌底を左の男の顎に食らわせた。
男の脳は強烈な衝撃を受け、すぐに働かなくなった。全身の力を失って後ろへ倒れていく。
その体が床につく前に、芽衣の靴は右の男の剣を踏みつけていた。こかされながらも剣を振ろうとした右腕が、握った柄とともに床に固定された。
芽衣はその右腕へと鋭い拳を振り下ろす。拳は正確に神経を突き、男は脳の芯に来る痛みに顔を歪めた。
体にはそこを強打されるとしばらく動けなくなるツボがある。そこをきれいに突かれた男の利き腕は、もう使いものにならないはずだった。
ただし、芽衣はそこで闘いを止めない。花琳の言った通り油断をしていい相手ではなかった。
芽衣は片足を上げ、股を百八十度開いて足裏を天井へ向けた。
そしてその踵を容赦なく振り下ろし、男の顔面へ叩きつけた。
男の体は一度痙攣した後、すぐに動かなくなった。
そこから少し離れたところでは、花琳が三人を相手にしている。
それまでかわすだけで積極的な攻撃をしてこなかった花琳は、芽衣が二人を倒すのを確認するとようやく本気で目の前の男たちに目を向けた。
巧みな足さばきで三人の相手を一列に並ばせると、足元の卓を蹴り上げた。浮いた卓で三人の視界が一瞬遮られる。
そしてそれが晴れた時、花琳の体が流れるように兵たちの前を横切った。
横切りながら、花琳は素早く三人に当身を食らわせていた。兵たちは自分たちが何をされたか全く分からないまま、気付けば戦闘能力を失っている。
床に伏す部下たちを見て、隊長はぼやくような呟きを漏らした。
「ふん、やはり動きもまともに見させてはもらえんか……」
部下たちは大した働きもできずに無力化されてしまった。
しかし、それも仕方のないことだろうとも思った。
特に許靖の妻はちょっと信じがたいほどに練り上げられている。期待するだけ無駄だったのだ。
(部下たちを無駄に傷つけてしまったな)
隊長は軽い後悔を覚えながら剣の柄を握り、花琳に向かって構えた。
相手の強さは分かったものの、鞘は外さないままだ。やはり殺すわけにはいかない。
(しかし、殺さずに何とかなる相手か?)
自分にも虎豹騎としての矜持があるし、腕はかなり立つ方だ。
それでも目の前の女を上手く取り押さえられそうな展望が頭に浮かんでこない。
隊長は深呼吸をして、相手よりも自分が勝っているであろうことを心の中で数えた。男としての腕力、剣の攻撃範囲、戦場での実践経験。
それから周囲の状況を再確認した。薄暗い店内、倒れた卓や食器、遠巻きに見る客たち。
今まで気づかなかったが、客に混ざって店の用心棒らしき男たちが自分と花琳との対峙を観戦している。
用心棒をやるぐらいだから、武術の心得があるのだろう。力のある武人同士の闘いに興味を湧かせているのが伝わってきた。
(恥を晒せんな)
隊長は剣の柄を握り直し、花琳へ半歩近づいた。花琳の方は微動だにせず、力を抜いた半身で隊長の動きを眺めている。
二人はしばらくの間、何かを待つように対峙していた。まるで熟した果実が落ちるのを待つように、静かにその時を待った。
やがて隊長が、かすかに剣を揺らした。
その動きを追って、花琳の視線もわずかに揺れる。
次の瞬間、隊長は剣を上段に振り上げて激しく踏み込んだ。そして花琳の方もそれに合わせて、いや、それよりも一瞬早く踏み込んだ。
そのままピタリと二人の動きが止まる。
隊長は上段に構えたまま、花琳は拳を腰だめにしたまま、動かなくなった。
「……ふん」
隊長はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、ゆっくりと剣を下げつつ花琳から離れた。そして花琳も同じようにする。
隊長は踵を返すと、張翔に向かって顎をしゃくった。
「おい、もう終いだ。帰るぞ」
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