第145話 虎豹騎

 張翔は言葉の意味を理解できなかったのか、それとも理解しようとしなかったのか、しばらく呆然として返事をしなかった。


 そして我に返ると、眉を釣り上げて怒鳴った。


「馬鹿を言うな!このまま帰れるか!その女を何とかするのがお前の仕事だろう!」


 顔面を紅潮させた張翔に、隊長は冷静に答えた。


「無理だ。お前も見ていただろうが、この女は化物だぞ。勝とうと思えば、少なくとも殺す気でかからねばならん」


「ならば……」


 殺せ。


 張翔はそう口にするつもりだったが、隊長はその言葉を言わせなかった。


「これ以上は外交問題になるぞ!」


 隊長に言葉を遮られて、張翔はハッとした。


 この交州は曹操からすると他人の領地であり、本来揉め事は極力避けなければならない。


 すでに花琳たちとの大立ち回りは演じているものの、まだ飲み屋での喧嘩程度で済ますことは可能だろう。しかし殺人まで犯してしまえば、外交問題への発展は避けられない。


 返す言葉のない張翔へ、隊長はさらに言葉を重ねた。


「それに、曹操様は女性には極めて優しいお方だ。そのような事は許されん。だいたい妻を殺された男が本心から忠誠など誓うと思うか」


 隊長の言うことはいちいちもっともで、張翔は何も言えずにただ頭に血を登らせた。


 よほどの精神的な負荷を抱えたのか、顔色は赤からどす黒く変わっていった。


 隊長はそのどす黒い顔に向かって吐き捨てるように言った。


「おい、店の者に銭を蒔いてこれ以上騒ぎにならないようにしておけ。お前の仕事だ」


 張翔はすぐに動こうとしなかったが、隊長が剣の柄に手をかけて一歩踏み出すと弾かれたように見物客の方へ走って行った。


 そして店主らしい男を見つけると、離れたところで話を始める。それで用心棒たちや客たちも一人二人と散っていった。


 それを見送った隊長はまだ縛られたままの許靖へと向き直った。そして膝をついて頭を下げる。


「許靖殿。今回のこと、心よりお詫び申し上げる。しかし今も言った通り、これは曹操様の本意ではなくあの男が勝手に命じた事だ。許靖殿やご家族に危害を加えることも、交州と問題を抱えることも曹操様は望んでおられない」


 許靖は立ち上がって膝をつく隊長を制止しようとしたが、まだ足を縛られたままだっため尻もちをついてしまった。それで仕方なく座ったままで答えた。


「私も曹操殿のお人柄は存じていますから、それはよく分かっています。それに、士燮様も曹操殿と外交問題を抱えることは望まれないでしょう」


 実際、許靖の言うことに間違いはなかった。


 曹操も士燮もこの乱世で周り中に敵がいる。どこかの領主と揉めているなどという話は、周囲の敵を勢いづかせる以外に何の意味も持たない。


 むしろ誰とでもよしみを通じていると思われていた方が得なのだ。


「そう言っていただけると本当にありがたい。今回のことも、強引すぎる張翔を許靖殿が嫌って多少揉めたということにでもしてもらえれば」


 許靖は隊長の言うことに軽く笑った。


「それはまぁ、半分は本当の事ですからそれで結構ですよ」


「では、そのように。それと店を荒らしたことに関してだが……」


 店主の方は張翔が銭で話をつけてくれるはずだが、見物客も多かった。後で噂になっても面倒だ。


 妻がさらわれた夫を助けに来たということではまずいだろう。


「あぁ、それも適当にお話を作っていただいて大丈夫です」


「では申し訳ないが……許靖殿が我々と店で遊んでいるところに、奥方が怒って突入してきたということで」


 少し離れたところでそれを聞いていた芽衣が吹き出した。


 凜風と翠蘭も同じように笑いをこらえきれない。


「隊長さん。その話も半分は本当の事だし、それで結構だと思うよ」


「「え?」」


 芽衣の言葉に、許靖と陶深は再びそれぞれの妻へ目を向けた。


 花琳と小芳はまた素早くあさっての方を向いて、その視線から逃れようとした。

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