第140話 猪突猛進
許靖と陶深は結局、なんの抵抗もできずに交州を出る舟へと乗せられた。
途中で人が気づいてくれるのではないかと期待したが、家畜用の木箱に入れられて運ばれたので誰の目にも止まらなかった。
せめて人が近くにいる時に物音を立ててみようと思ったが、目隠しだけでなく耳栓までされたため外の気配はまるで分からなかった。
許靖と陶深が狭い木箱から出されると、そこはすでに船の上だった。風と波が船を打つ音だけが聞こえる。
「ここまで来ればもう大丈夫ですな。役目が果たせそうで安心しております」
許靖は口元から布を外され、久しぶりに話せるようになった。
「……張翔殿、今からでも遅くはありません。私たちを帰してください。曹操殿もこのような
「曹操様は結果を重視なさる。表面上はお怒りを見せても、本心ではお喜びになるでしょう。むしろ期待された結果を得られない方がご不興をこうむります」
許靖は確かにそうかもしれないと思った。
実際、このまま許昌まで連れて行かれたら許靖は仕方なく仕官するだろう。そうして家族を呼び寄せてもらう。
やり方は強引にもほどがあるが、結果としては曹操の望むべく事が進むわけだ。
「私の書いた手紙を見せていただければ、曹操殿もあなたの失敗を責めないでしょう」
許靖は曹操に宛てて手紙をしたため、それを張翔に渡していた。
曹操にとって耳の痛いことも書いたので、それを読めばおそらく許靖の招聘も諦めるのではないかと思った。
「あぁ、あの手紙ですね。えーっと……許靖殿の手紙は……これか」
張翔は荷物をあさり、手紙の束を出した。
許靖はついでなので、中華の友人知人に向けた手紙も一緒にあずけていた。郵便事情の良くない時代なので、機会があればそうするのもよくある事だった。
「許靖殿はご自身で許昌へ行かれるのですから、この手紙たちは不要でしょう。ご自分の口で直接お伝えになれば良い」
張翔はそう言って、手紙を全て船の外へと放り投げた。
たまたま強い風が吹いてきて、鳥の群れのように手紙が飛んでいく。
それを見送った許靖はあまりのことに唖然としたが、張翔は全く気に止める様子もない。
強引すぎるこの男は善悪の基準が自分以外に無いので、悪いことをしたという感覚がまるでないようだ。
「船の出発は明朝です。大人しくしていただければ船内での過剰な拘束は避けますので、ごゆっくりおつくろぎ下さい」
(……こういう男なのだ。仕方ない)
許靖は半ば諦めの気持ちで張翔の笑顔を眺めた。もはや文句を言う気力も湧かない。
張翔は兵たちに命じて許靖たちを縛った縄を解かせた。
許靖と陶深は筋を伸ばしたり揉んだりして、固まった筋肉をほぐした。
「おい」
そう声を上げたのは、兵たちの隊長と思われる男だ。許靖を拘束して運び出すときもこの男が命令を出していた。
張翔はその声に振り向いた。この男は自分のことを呼ぶときに、おい、とだけ言う。
本心としてはそのような呼ばれ方に不満はあったが、この乱世における旅だ。許昌へ帰るまでは出来るだけ護衛の機嫌を損ねたくはなかった。
「なんだ?」
「明日の朝出発なら、それまで俺たちは港町で羽を伸ばさせてもらう。いいな?」
船は長旅になる。その前に兵たちの欲求不満を解消させることも大切なことだった。そういった需要に応えるため、港町には娯楽が多いのだ。
「それはいいが、お二人の見張り役が必要だ。それは残してくれ」
「駄目だ、お前が残れ。多少拘束していればお前一人でも大丈夫だろう」
張翔は眉をしかめた。
「いや、私も今夜は羽を伸ばす」
元よりそのつもりだったし、張翔はそれを譲るつもりはなかった。
しかし、男も兵たちの長として一部の部下にだけ我慢させるわけにはいかない。男は声を低くして張翔を威圧した。
「おい、俺たち虎豹騎に人さらいの真似までさせて、その上……」
「分かった分かった!」
張翔は両手を振って男をなだめた。
虎豹騎は確かに強いのだろうが、必要以上に誇り高く権高なところが嫌いだった。しかし、やはり今は兵たちの機嫌を損ねるわけにはいかない。
ただし、張翔としても自分の楽しみを捨てるつもりはなかった。どんな強引なやり方でも、欲しい物は絶対に手に入れてきた。今この時もそうするつもりだ。
張翔はまた気味の悪い笑顔を作って許靖を見下ろした。
「……許靖殿。申し訳ありませんが、今一度木箱に入っていただけますでしょうか?」
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