第139話 猪突猛進

 許靖は体中の筋肉を開放させるように、大きく伸びをした。


 自宅の居間の真ん中だ。久しぶりの一人に、筋肉だけでなく心も開放されたような気分になった。


 花琳と小芳、芽衣は孫たちと凜風、翠蘭を連れて港町へ旅行に出ている。


 陶深は家にいるが、仕事が佳境に入っているらしい。めったに部屋から出てこなかった。


 食事の時だけは許靖が無理やり外に連れ出すが、それ以外は基本一人だ。


(たまにはこういうのも良いな。家に帰った時、妙に寂しい気持ちにはなるが)


 許靖にとって家族といる時間が一番の幸せであることは間違いなかったが、時々であれば一人というのも悪くはないものだと思った。


 普段あまりやらない家事も新鮮だったし、食事もその時の気分で食いたいものを食いに出かける。


(悠々自適とは、このような生活を言うのか)


 許靖は意味もなく居間の真ん中で横になり、手足を広げて大の字になった。


 今日は予定もないし、このまま昼寝でもして過ごすのもいいかもしれない。今はまだ孫も小さいし、家族がいるとこのような自堕落はなかなか出来ることではない。


 許靖が目を閉じて大きく息を吐いたその時、来客を告げる声が玄関から響いてきた。


 許靖は自由な時間が削れらたことに若干の失望を感じながら、薄目を開けた。出ないわけにもいかないだろう。


 仕方なく、ゆっくりと体を起こして玄関へと向かった。


 そして玄関を開けて、許靖は失望を強くした。


 そこには出来ることならもう見たくはなかった、肥えた巨漢が笑顔で立っていた。


「……張翔チョウショウ殿、今日はどのようなご要件でしょうか?」


 許靖が意識しようがしまいが、どうしても言葉に棘が立ってしまう。あれから何度も呼び出され、話をされ、曹操に仕官するようひたすら説得を重ねられた。


 許靖としても張翔が曹操という実力者の使者である以上、無下にするわけにもいかない。仕方なく話は聞くのだが、きっぱりと断ってきた。


「しかも、今日はやけに大人数ですね」


 許靖は張翔の背後に立つ男たちに目をやった。


 十人ほどはいるだろうか。全員が引き締まった体と顔つきをしており、ひと目で護衛の兵であることが知れた。


「彼らは曹操様が付けてくださった護衛の兵たちです。しかも、なんとご自身の近衛兵である虎豹騎こひょうきをお貸しくださった。それだけでも曹操様が許靖殿の召還をどれだけ重要視しているかが分かるでしょう」


 虎豹騎とは、曹操の親衛騎兵隊の名称だ。精鋭中の精鋭で構成され、将校百人の中から隊長を選ぶこともあった。


 確かにそれをわざわざ出したということは、大層な気遣いではある。


(しかし私にその気がない以上、むしろ気遣いは迷惑だな)


 それが許靖の正直な感想だった。


「張翔殿、何度も申し上げている通り私は……」


「私は本日交州を発ち、許昌へ帰ります」


 許靖は張翔の意外な発言に、一瞬思考を停止させた。


 これまでしつこく勧誘を繰り返されたため、それ以外の事態が起こることに脳がすぐ反応できなかった。


(……ようやくこの人から開放されるのか)


 許靖は張翔の言うことを理解するなり、まずそう思った。押しの強すぎるこの男には、もううんざりしていた。


 張翔の瞳の奥では、相変わらず猪が色々なものを弾き飛ばしながら疾走している。この強引さには、これ以上付き合っていられない。


「そうですか。ご期待に添えず申し訳ありませんでした。旅の安全を祈っております」


 許靖の社交辞令を聞いた張翔はいつもの大げさな笑顔をさらに歪め、気味の悪い表情を見せた。


「何をおっしゃっているのです。許靖殿も一緒に行くのですよ」


「……は?」


 許靖が疑問の声を上げるのと、護衛の男の手が伸びるのとがほぼ同時だったろう。


 許靖は家の中まで突き飛ばされ、床に尻もちをついた。


 その痛みに歪んだ口元にすばやく布が覆いかぶされる。そして、またたく間に両手両足を縛られてしまった。


 身動きが取れず、声も上げられない。


 許靖が拘束されている間に、張翔と兵たちがずかずかと家に入ってきて扉を閉めた。


「おい、丁重に扱えよ。その方は数十日の後には、我が国の高官になられる方だぞ」


 張翔は兵にそう注意したが、注意された兵は吐き捨てるような言葉を返した。


「ふん、我ら虎豹騎にこんな人さらいの真似をさせて……」


「そう言うな。これが国にとっても、曹操様にとっても、許靖殿にとっても最善の選択なのだ」


(勝手に決めるな!!)


 許靖は心中ではそう叫んだが、口元の布のせいで実際の声にはなりそうもなかった。


 張翔は縛られて横たわった許靖の顔を覗き込み、また気味の悪い笑顔を作った。


「許靖殿、手荒な真似をして申し訳ありません。ですが共に許昌へ来ていただければ、間違いなく忠臣として栄華を極めることができるのです。将来的には必ず私のしたことに感謝していただけると確信しています。どうか、抵抗はしないでいただきたい」


 張翔の瞳の奥では、巨大な猪がいっそう加速しながら進路上にあるものを吹き飛ばしていた。


(かなり強引な男であることは分かっていたが、ここまでとは……)


 許靖は自分の想像力のなさを呪った。


 張翔はそんな許靖のそばから立ち上がり、背後の兵たちに軽く目をやった。


「……まぁ抵抗と言っても、虎豹騎相手ではまるで無意味ですが」


 許靖もそれはその通りだと思う。


 そもそも並の兵が相手でも、許靖では勝てないだろう。しかもここまでするのであれば、下手に抵抗すれば多少の怪我くらいはさせられるかもしれない。


(逃げるなら、頭の方を働かせねば)


 許靖が必死に頭を回転させている間に、張翔は家の奥へ入って居間を確認していた。


「事前の情報通り、本当に一人なのですね。しかし女だけの旅とは……交州はよほど治安が良いのでしょうか。まぁ、中華も曹操様の力でじきにそのくらいになりましょうが」


 許靖はそれを聞いてハッとした。


(そうだ、陶深がいる!……陶深が異変に気づくような何かを残していけば、士燮様へ連絡してくれるかもしれない)


 許靖は目だけを素早く動かして周囲を確認した。


 例えば家具などが不自然に倒れたりしていれば、おかしいと思ってくれるかもしれない。


 許靖が玄関に置かれた壺に目をつけて身をよじったとき、廊下の奥の扉が開いた。


「許靖、ようやく仕事が終わったよ。家事を任せきりですまなかった。今夜はゆっくり飲みにでも……」


 伸びをしながら入ってきたのは、許靖が最後の希望として期待していた陶深だった。


 すぐに縛られた許靖とその周りの屈強な男たちに気づき、時間が止まったかのように静止した。


 許靖はすでに弟同然になっているこの男がこういう男だということを、よく知っているつもりだった。


(しかし……それでもこの間の悪さにはため息の一つもつきたくなるな)


 そう思ったものの、今は口を布で覆われているのでため息すら自由にはつけなかった。

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