第133話 蜜蜂と花

 その日の武術教室の終わり頃、一人の男が荒い足取りで道場の敷居をまたいだ。


 生徒の何人かはそれに気付いて目を向けたが、男はそれらを無視して無言で道場を睨め回す。


 そして目的の人間を見つけると、そこへ向かってずかずかと歩みを進めた。


翠蘭スイラン、何をしている」


 翠蘭は背後からかけられた声に、久しぶりの天国から一気に地獄へ突き落とされる気持ちがした。


「お、お父様……」


 振り返ると、そこには袁徽エンキが立っていた。


 目を釣り上げて、明らかに怒っている。


 父は普段から表情を崩すことが少なかったが、娘を叱るときにはいつもこの表情をしていた。しかも、今まで見た中でも抜群に怒っているように見えた。


「ここには来ないように言ったはずだ。なぜ来た」


 その言葉は質問の形ではあったが、どんな回答も絶対に認めてもらえない。父の中ではすでに善悪の判定が絶対事項として決めつけられており、自分にはなんの選択肢も与えられていないのだ。


 翠蘭は震えるだけで、何も答えられなかった。父がこうなった時には、ただ謝って父の言う通りにするしかない。


 しかし、どうしてもそうしたくはなかった。どうしても武術教室に来たかったのだ。少しでも長くここにいたかった。


 何も答えずただ床を見つめる翠蘭に、袁徽は苛立ちを募らせて口を開こうとした。


 しかし、その言葉を遮るように花琳が声を上げた。


「申し訳ありません、私が無理やり連れて来てしまいました。たまたま道で出会って、強引に誘ったんです」


 花琳の言葉に、袁徽は静かにだが、明らかな怒りを口調に乗せた。


「いくら元師匠だからといって、人の娘を勝手に連れ出すことが許されるとでも思っているのですか。あなたのやっていることは、誘拐と言われても仕方ありません」


 元師匠、という言葉に引っかかりはしたが、花琳は何の言い訳もせずに深々と頭を下げた。


「大変、申し訳ありませんでした」


 それを見た翠蘭は、さすがに黙っていることに耐えられなくなった。


「やめてください!お父様、花琳先生は関係ありません……私がどうしても来たくなって、自分の意思で来たんです。花琳先生は私がここに来た時も、ちゃんとお父様の許可をいただいているかと確認されました。花琳先生は何も悪くありません」


「翠蘭……」


 花琳は後悔した。下手な嘘をついて、余計に翠蘭を傷つけてしまった。


 しかし袁徽は翠蘭の気持ちなど無視し、花琳を責め続けた。


「くだらない嘘までついて……どういうつもりですか。真実を曲げて娘の罪を歪めても、それは人の道を歪めるだけです」


「父は子のために隠し、子は父のために隠す」


 袁徽へそう言ったのは、翠蘭でも花琳でもない。許靖だった。


 許靖は袁徽へ歩み寄りながら、しっかりとその瞳を見据えた。そして言葉を続ける。


「昔、孔子様はそうおっしゃいました。果たして妻のしたことは、人の道を歪めることでしょうか」


 許靖が引用したのは、儒教では有名な一節だ。


 昔、ある人が孔子に、


『私の村にはとても正直な者がいます。その者の父親が羊を盗んだ時、自らの父親を訴えたのです』


と言った。


 孔子はこれを聞き


『私の村の正直というのはそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠します。本当の正直とは、その心の中にあるものです』


と答えた。


 この倫理観は儒教の特徴であると言える。絶対的な罪と罰よりも、時として親子の情と思いやりの方が優先されるのだ。


 袁徽は儒学者だ。許靖の言わんとすることはすぐに分かった。


 しかし、すぐに反論した。


「何をおっしゃる。奥方は翠蘭の親ではありません」


 許靖は首を横に振り、きっぱりとそれを否定した。


「いいえ。少なくとも妻は、自分のことを翠蘭の親だと思っています。翠蘭だけではありません。生徒の子供たち一人一人を、皆自分の子だと思って教えています」


「あなた……」


 花琳は許靖と目を合わせ、うなずいてから翠蘭の後ろに回った。


 そしてその肩に優しく手を置いた。


「私は先日、自らが産んだ実の息子を失いました。ですが寂しくはありません。今もこうして、たくさんの子供に囲まれているからです。この子たちを守るため、母として嘘の一つもつかせて下さい」


 花琳はそう言って、翠蘭を後ろから抱きしめた。


 その温かさに、翠蘭の頬を涙が伝ってあごから落ちた。


 涙は静かに溢れてくる。


 道場に来るようになって、凜風リンプウという姉ができたことが嬉しかった。そして今度は、優しい母がいることに気がついた。


 翠蘭は涙を流しながら、久方ぶりに父へ自分の気持ちを訴えた。そうしたのは一体いつぶりだったのか、もう記憶にないほどだ。


「お父様、私はこれからも道場に来たいと思います。ここにはお母様もいます。お姉様もいます。ここにいれば、私は寂しくないんです」


 袁徽は言葉に詰まった。


 今まで娘からこのように反抗された経験がない。これまでの娘は、自分の命令をほとんど文句も言わずに実行してきた。


 それが突然このような反抗に遭い、つい見苦しいことを口走ってしまった。


「お、お前には……父がいるではないか!この父が!」


 翠蘭はその言葉へ叫ぶように返した。


「でも!お父様は私の気持ちなんて考えてくださらないじゃないですか!何かおっしゃる時だって、どの書物のどこにどう書いてあるからこうしろとか、そんな事ばかりで……私の心を見てくれない……私は、ずっと寂しかった……」


 袁徽は翠蘭の言葉にニの句が継げなかった。


 確かに自分は今までそうだったかもしれない。娘がどうあるべきかばかりを考え、何を望んでいるかは考えてこなかった。


 翠蘭は涙を流し続けた。


「ここでは花琳先生もお姉様も、ちゃんと私の気持ちを考えてくださるんです。ちゃんと一緒にいてくれてるって、そんな気持ちになるんです」


 翠蘭は自分を抱きしめる花琳の腕を強く握った。


(きっとこの腕に包まれているから、言いたいことを言う勇気が湧いたんだ)


 そう感じていた。ただ、それでも父へ反抗するのは怖かった。


 翠蘭の姉を自負する凜風はその気持ちを敏感に感じ取り、妹のそばに来て頭に手を置いてくれた。


 温かい手の平からいたわりの気持ちが伝わり、翠蘭の心はそれだけで落ち着くことができた。


 そして凜風は袁徽を睨みつけ、拳を向けた。


「おじさん。おじさんがどんなに偉い人でも、私の妹を悲しませるなら許さないよ」


 袁徽は何の言葉も返せずに立ち尽くした。想像もしていなかった娘の思いに、強い衝撃を受けていた。


 その娘からは涙で濡れた瞳で見つめられ、趙奉の娘からは凄まれている。どう見ても、この状況では自分が悪者で間違いなさそうだった。


「はっはっは!あんたでもそんな顔をするんだな」


 厳しい空気の中、高笑いをしながら歩いてきたのは趙奉チョウホウだ。


 可笑しそうに笑ってはいるが、決して仇敵の不幸を楽しんでいるわけではない。それは趙奉の明るい笑顔から察せられた。


 趙奉は袁徽の肩に軽く叩いた。


「袁徽殿。ここはさっさと降参して、はっきり謝ったほういいところだぞ」


「しかし、私は……」


「しかしもくそもないだろう。どんな書物のどこにどんな事が書いてあるかは知らんが、あんたの娘さんが泣いている。ならもう、それが正解でいいはずだ」


 そう言われてしまえば、袁徽には何の反論も浮かばなかった。


 袁徽も人の親だ。娘が泣いているということが、自分にとってもどれだけ辛いことか。


 袁徽に言いたいことを言った趙奉は、今度は翠蘭へと向き直った。


「翠蘭。お前の親父さんは色々間違ってたかもしれないが、だからといって親父さんの愛情を疑っちゃ駄目だぞ。俺も一人娘の親だから分かるが、親父さんはお前のことをとても愛している。それはお前だって感じているだろう?」


 翠蘭は趙奉の問いかけに、コクリとうなずいた。その動きに合わせ、涙の粒がまだ一つ流れ落ちる。


 その涙が床を打つ小さな音が、袁徽の胸を締めつけた。自分はもしかしたら大きな思い違いをしていたのかもしれない。


「私は……儒学こそが人の幸せを守るものだと信じて、娘にも厳しくそれを身につけさせてきた。だからそんな話ばかりをしてきたのだ。しかし、それは私の価値観を押しつけていただけだったのかもしれないな……」


(ここだ)


 袁徽のつぶやきを聞き、許靖は好機と見た。


「袁徽殿、確かに価値観の押しつけはよくありません。しかし考えてもみれば、価値観の押しつけをしないこと自体も儒教の教えではないでしょうか?」


「……どういうことでしょう?」


 袁徽は許靖に反問した。


 許靖は袁徽の瞳を見ながら注意深く言葉を選んだ。


 袁徽の「天地」である冬の湖畔が大きく崩れないよう、しかし少しでもその厳しい寒さが緩むよう、注意しながら言葉を選んだ。


「先ほどの親子が罪を相隠す話もそうですが、孔子様は絶対的に正しいことをあまり規定せず、むしろ情を優先しておられるように思います。思いやり、仁愛の心です。仁愛の成し方は相手の気持ち次第なので、状況によって変わります。儒学がいかに素晴らしいものでも、こちらから押しつけをして相手の気持ちに配慮しなければ、それ自体が儒教の教えに反するのではないでしょうか」


 許靖は袁徽が受け入れやすいように、儒学上の論理でもって諭した。


 そうすれば袁徽もその良さである厳しさを失わないままで、思いやりの心を持ってくれるのではないかと期待したのだ。


 それに、下手に相手を否定するような言葉は「天地」を傷つけ心に悪い影響を与えてしまう。


 袁徽は許靖の言葉を噛みしめるように、何度もうなずいた。


「なるほど……それは確かに……全くもって、許靖殿のおっしゃる通りだ。私は儒の道を実践しているつもりだったが、仁愛の心が欠如していたのか」


 そして袁徽は翠蘭の方へ向き直った。


 翠蘭には父の瞳が今までないほどに澄んでいるように感じられた。


「翠蘭、今まで思いやりの足らなかった父を許してくれ。これからは道場へも好きに来るといい。他にも望むことがあれば、遠慮せずに言うようにして欲しい」

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