第132話 蜜蜂と花

凜風リンプウ。集中できないなら筋力の鍛錬か、体を柔らかくする鍛錬をしていなさい。技の鍛錬は集中力を欠くと、動きがおかしくなって変な癖がつきます」


「……はい」


 花琳に自分の精神状態をずばり指摘され、凜風は力なく返事をした。


 言われた通り道場の隅へ行き、腕立てを始めた。最近は道場に来てもずっとこんな調子だ。


 今日こそは翠蘭スイランが来ているのではないかと期待して顔を出すが、やはり来ていない。それで落ち込み、まともな鍛錬ができない。


 一度、翠蘭の自宅へも行ってみたが、使用人らしい老婆に門前払いをくってしまった。凜風が来たら追い払うよう、あらかじめ言われていたようだった。


 きっと翠蘭の父親がそう命じていたのだと思う。それならば別に構わない。大した問題ではない。


(だけど、もし……もし翠蘭自身がそう望んでいたとしたら)


 そう思うと、胸の中が黒く塗り潰されたような気分になった。


 あの可愛い妹に拒絶されるなど、耐えられることではない。毎日のようにその恐怖に襲われ、家でもふさぎ込むことが多かった。


 今日は父の趙奉チョウホウも道場へ来ている。


 花琳に兵を鍛えてもらうためだと言って部下を連れて来ていたが、きっと凜風の道場での様子を見に来たのだろう。ここの所、娘が暗くなっているのを鬱陶しいほどに心配していた。そういう父親だ。


 今日も道場へ入るなりため息をつく娘を、明らかに気にかけていた。さすがに部下を前にして何も言いはしなかったが。


 腕立てを終えて立ち上がると、大きく息が乱れていた。


 翠蘭がいなくても道場で鍛錬すること自体は嫌ではない。少なくとも、息を乱している間はため息は出ないからだ。


 だから、いつも少し無理をしてしまう。体を痛めつけていた方が翠蘭のことを忘れていられる。


「お姉様」


 自分を呼ぶ翠蘭の声が聞こえた気がした。どうせ幻聴だろう。幻の翠蘭など、辛いだけだ。


 凜風はそう思い、少し間隔は短いがもう一度腕立てを始めようとした。


「お姉様」


 また幻聴が聞こえてきた。なかなかしつこい幻聴だ。凜風は無視して両手を床につけた。


「お姉様は……私のことが嫌いになってしまいましたか?」


 幻聴とはいえ、なんてことを言うんだ。自分が翠蘭のことを嫌いになんてなるわけがないじゃないか。


 凜風はそう思って幻を振り返ると、そこには妙に現実感の強い幻が悲しそうな目をして佇んでいた。


「……翠蘭?」


 凜風は我が目を疑った。そこにいるのはどうやら幻ではなく、本物の翠蘭らしい。


「翠蘭!」


 凜風は跳ねるようにして翠蘭へ飛びついた。


 翠蘭はその勢いを支えきれず、短い悲鳴を上げて床へ押し倒されてしまう。


 そんな翠蘭の胸に、凜風は顔をうずめた。少し泣いてしまったのを隠すためだ。


 だが、うずめられた翠蘭の方は堂々と涙目になっていた。


「もう、お姉様は相変わらずですね」


「だって……もう翠蘭と会えないのかと思ってたから」


 凜風の声は胸に顔をうずめていたので少しくぐもっていた。


 翠蘭にはそんな姉の様子がたまらなく愛おしい。


「ずっと来られなくてごめんなさい。私も本当は来たかったのですが……」


「そうだ翠蘭、顔を怪我は大丈夫?」


 凜風は跳び起きて翠蘭の顔をまじまじと見た。


 左頬のあざは、もうほとんど消えている。言われなければ分からないほどだ。


「この通り、もう大丈夫ですわ。そもそもそれほど大した怪我じゃなかったんですよ。昔から傷はきれいに消える方ですし」


 凜風は胸を撫で下ろした。可愛い妹の顔に傷など残しては一大事だと、ずっと心配していたのだ。


 久しぶりの再会を喜んでいる二人のところへ、花琳と許靖がやって来た。今日は許靖も運動のためということで、道場に顔を出している。


「翠蘭、よく来てくれたわね。私も嬉しいわ。でも、お父様のご許可はいただいているの?」


 翠蘭は曖昧に笑ってから頭を下げた。


「花琳先生、長い間お休みして申し訳ありません。毎回は来られないかもしれませんが、今日からまたよろしくお願いいたします」


 許靖は翠蘭の瞳の奥で、ナデシコの花がしおれるように頭を垂れるのを見た。


(何か隠し事があるな……思っていたほど感情の分からない娘というわけではなさそうだな)


 そう思った。


 瞳の奥の「天地」が見えない花琳でも、翠蘭が隠し事をしているのが分かっただろう。


 花琳は内心で多少の躊躇をしたが、何も言わずに翠蘭の参加を受け入れることにした。


「……せっかく久しぶりに来たんだから、今日は新しい技を教えましょうか。翠蘭、家でもちゃんと鍛錬はしていた?」


「はい。花琳先生に言われた通り、特に足腰の鍛錬は怠りませんでした」


「えらいわね。今日教える技は、決まったらとっても気持ちがいいわよ」


 凜風と翠蘭は、花琳の言葉に目を輝かせた。

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