第134話 蜜蜂と花
「お父様……ありがとうございます」
「やった!これからはまた一緒だ!」
花琳もほっとした顔で翠蘭を抱きしめ直す。
前後から姉と母とに挟まれて、翠蘭はこれ以上ないほどの幸せな笑顔を見せた。
その笑顔で、
「これにて一件落着、だな。まぁ、そうでなくてもこの乱世だ。武術を習うこと自体は悪いことじゃないだろう」
昨日までなら趙奉からこのように肩を叩かれれば、それは不快以外の何物でもなかっただろう。
しかし、今はそれも全く気にならなくなっていた。
「そうだな。翠蘭もせめて、父くらい強くなってくれたら安心なのだが」
その言葉に趙奉は吹き出した。
袁徽は武術などやっていないどころか、特に鍛えてもいない。それは趙奉のように武を修める人間から見ればよく分かることだった。
「袁徽殿。あんたの娘はあんたどころか、そんじょそこらの兵よりもずっと強くなってるよ」
その言葉に今度は袁徽が吹き出した。
「はっはっは、何を言っているんだ。娘が兵よりも?可笑しなことを言う」
袁徽は完全に冗談だと思った。あのか弱く、花のようにたおやかな娘が兵よりも強いなど、あり得ることではなかった。
しかし趙奉は何も知らない袁徽に呆れた。
「……あんた、何も知らないんだな。娘の成長を知りたいとか思わなかったのか?」
そう言われると袁徽の方も少しムッとしてしまう。
「私は遠方にも講義に出向くので忙しい。道場に同伴する余裕などない」
「いや、それでも家で今日はどんなことを習ったかとか聞くだろう。まぁ、やり過ぎるとうちみたいに鬱陶しがられるが」
その言葉に、娘の凜風がうんうんとうなずいていた。
別に袁徽は翠蘭の成長に興味がないわけではない。ただ、袁徽にとっての成長とは主に儒学という学問の上でのことだった。
それに女子供を対象にした武術教室で習う護身術など、知れているだろうと高をくくっていたのだ。
「では、今その成長を見てみよう。翠蘭、ちょっと私を倒してみなさい」
袁徽は軽い気持ちでそう言ったが、翠蘭はさすがに遠慮した。
「いえ、お父様相手にそんな事はとても……」
袁徽は笑った。別に鍛えていないとはいえ、この可憐な娘がまさか成人男性を倒せるなどとはまるで思えない。
「遠慮することはない。思いっきりやりなさい。例えば、相手がこうやって殴りかかってきたらどうする?」
袁徽はそう言いながら、翠蘭に向かって拳を突き出した。
翠蘭は少し逡巡したが、
「では、おっしゃる通りに」
短くそう言うと、突き出された拳を片手ですばやく掴んだ。
そしてそれを思い切り引きながら体を反転させ、回転の勢いで反対の拳を突き出した。
拳が袁徽のみぞおちへ深々と突き刺さる。
「げふうっ!?」
袁徽の肺から空気が強制的に排出され、不思議な音の声が漏れた。そして今度は息が吸えなくなる。
それを見ていた芽衣が無言で袁徽の背後に周り、活を入れて呼吸を戻してくれた。
咳き込む袁徽へ、趙奉が心配そうに声をかける。
「おい、大丈夫か?」
「な、何のこれしき……大したことはないが、なかなか成長はしているようだな」
袁徽は明らかに苦しそうだったが、強がってそう答えた。
父として、自分より強い娘というものを簡単には認められない。もう一度娘に向き直った。
「翠蘭、ではこのように掴みかかられたらどうする?大人の男に掴まれて、女のお前が抵抗できるか?」
袁徽はゆっくりとした動作で翠蘭に掴みかかろうとした。
先ほどは油断したが、今度は急な攻撃に気を付けている。そして掴んでしまえば、男の自分の方が力は強いはずだ。
翠蘭は特に抵抗せず、いったん袁徽に服を掴ませた。そしてその腕を大した力も入れずに捻り上げて、背後へと回した。
「ちょ、ちょっと待て!折れる!折れる!」
翠蘭はすぐに腕を離し、袁徽は床に転がった。
趙奉が憐憫の目でその様子を見ている。
袁徽は腕と肩とをさすりながら、できるだけ早く立ち上がった。しかしすでに父の威厳は失われている。少なくとも、自分ではそう思った。
袁徽としてはこのまま終わるわけにはいかない。道場を見回して、壁に立て掛けられた木剣に目を止めるとそれを取ってきた。
袁徽は咳払いをして、その剣を振りかぶった。
「こ、このように武器を持って襲い掛かられることもあるだろう。素手で防げるものかな?」
そう言って、木剣を翠蘭めがけて軽く振り下ろした。
翠蘭は半身になってそれをかわしつつ、大きく踏み込んだ。そして身を低くして体を反転させ、背中が触れるほどに袁徽へ近づいた。
袁徽はこれまでの事があるので、反射的に後ろへ下がろうとした。そこへ全身をバネのようにして跳ねた翠蘭の背と肩が、かなりの勢いでぶつかってきた。
自ら下がろうとしていた所へ翠蘭の力が加わり、袁徽は人間の四、五人分ぐらいの距離を吹き飛んだ。
「ぐはぁっ!」
袁徽は地面に叩きつけられ、情けない声を上げた。
そしてその声の直後、翠蘭の方は歓声を上げた。
「すごい!花琳先生、人があんなに飛びましたよ!」
これは今日、新たに教わった技だった。見事に決まったことと、結果が派手だったことに翠蘭は目を輝かせた。
花琳は嬉しそうに駆け寄ってきた翠蘭の頭を撫でてやった。
「上手に出来ていたわ。でもあそこまでの威力があったのは、翠蘭がちゃんと足腰の鍛錬を続けていたからよ。よく頑張ったわね」
翠蘭は褒められていっそう笑顔を輝かせた。
凜風も、面白いほどに袁徽を吹き飛ばした翠蘭の技に感心した。
「やっぱり翠蘭は器用だなぁ。今日習ってすぐにあれだけの完成度だもん。私には無理だ」
「お姉様にもコツを教えますよ」
花琳も翠蘭の言葉にうなずいた。
「確かにはじめて習った翠蘭の方が、教えられる側の分かりにくい所を理解できてるかもしれないわね。でも間違いがあるといけないから、今日はちょっと残っておさらいしておきましょうか」
「はい、私もまだ聞きたいことがあります」
「私も!」
女三人は武術談義に花を咲かせた。
その花から物理的にはそう遠くはないが、精神的にはかなり遠い所で袁徽は床に這いつくばっていた。
娘のまさかの強さに、目を白黒させている。
「翠蘭……私の翠蘭が……」
自分の中では華奢で可憐な印象しかない娘が、いつの間にか豪傑になっている。そう簡単に受け入れられることではなかった。
そこへ趙奉がやって来て、ため息をつきながら肩に手をやった。
「袁徽殿……色々思うところはあるだろうが、娘なんてもんは気づかぬ間に随分と成長してるもんだよ。親は受け入れるしかない」
「いや、しかし……こんな成長の仕方は……」
袁徽は娘の遠い横顔を見た。
翠蘭は花琳や凜風と、いかに効率よく人体を壊すかについて楽しそうに議論している。こんな成長を受け入れろというのか。
袁徽が気持ちの整理をできないでいるところへ、翠蘭の一際嬉しそうな笑い声が届いた。
袁徽も聞いたことのないような、幸せそうな笑い声だった。
(いや……娘がまだ幼い日、妻がまだ生きていた頃にはこんな笑い声も上げていたかもしれない)
その笑い声で、袁徽は気持ちの整理がついた。というよりも、諦めがついた。
(娘の幸せは、娘が決めればいい。父はその気持ちに寄り添うだけだ)
そう思った。
そして膝を払って立ち上がり、娘の方へ視線をやったままポツリとつぶやいた。
「趙奉殿、今度二人で飲みにでも行くか……」
趙奉は驚いて袁徽を見たが、袁徽は少し寂しそうに娘の方を向いたままだった。
その横顔にこれまで見たことのない袁徽を見たような気がして、趙奉の中の袁徽に対する悪感情はきれいに霧散してしまった。
「いいぞ、美味い店を知っている。店主も店員も、儒教の礼なんてまるで知らない店だがな」
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