第126話 寒と暑

 許靖は芽衣の蹴りが空を切るのを見て、全身に力が入った。


 胸がはらはらする。しかし、それは芽衣を心配してのことではなかった。


(芽衣、頼むから当ててくれるなよ)


 許靖は芽衣の攻撃が趙奉チョウホウに当たるのを危惧しているのだった。


 練兵場の一角で、芽衣と趙奉が組手をしている。


 組手、と言っても素手の芽衣に対して趙奉は木剣を持っている。ただ、それはそれぞれ鍛えている武術が違うので仕方がないことだろう。


 趙奉の木剣が小さく縦に振られた。


 しかしそれがただの牽制であることを分かっている芽衣は、半歩だけ下がって軽くかわした。


 牽制のような小さな攻撃では効果はない。しかし、大きく踏み込めば隙をついて先ほどのような反撃が来る。


 趙奉はこれからの展開に悩みつつ、じりじりと間合いを詰めた。


 二人を見守っているのは許靖だけではない。花琳の他に、趙奉の部下たち数十人も固唾を飲んで見つめていた。


 芽衣はすでに、その部下たちを五人ほど倒していた。しかも素手対素手で五人倒した後、その五人に武器を持たせて再戦し、再度全員を倒し直した。


 こんなことをしている目的は、趙奉やその部下たちの子女を花琳の武術教室に入れるためだ。


 兵たちの家族に参加してもらおうと思えば、当然ながらその強さを兵たちにも認められなければならない。それを示すことが目的だ。


 そういった事情を士燮シショウに説明して声を掛けてもらい、軍の訓練に参加させてもらっている。


 しかし、花琳では強すぎる。趙奉など隊長連中まで倒してしまうと面子を潰してしまい、逆に心象を悪くしてしまう可能性があった。


 そこで弟子の芽衣に闘ってもらい、適度に強さを示すつもりだった。


 が、芽衣は妊娠・出産でなまった勘を取り戻す良い場だとでも思っているのか、五人の兵を完膚なきまでに叩きのめしてしまった。


 そして今、兵たちの期待を一身に背負って木剣を構える趙奉を、本気で倒そうとしているように見える。


(言ったよな?私は芽衣に、適当なところで負けるように言ったはずだ)


 許靖は記憶の糸をたどり自分に過誤がないことを確認したが、目の前の現実にはなんの効能もなかった。


 芽衣は覚えていないのか無視しているのか、先ほども振り下ろされる木剣の柄を蹴り上げて、遠くへ飛ばしている。


 本来ならそれで勝負ありでもおかしくなかったはずだ。しかし審判をする花琳が気を利かせて、即座に仕切り直しを宣言してくれた。


 許靖はそれで一旦は胸をなでおろしたが、芽依の鋭い蹴りのせいでまた気が気ではなくなった。


 趙奉は木剣を水平に伸ばし、間合いを測った。そしてその剣を振り上げると、右袈裟にすばやく振り下ろした。


 芽衣はそれを身をねじってかわすとともに、剣を追うようにして踏み込んだ。


「はあっ!」


 その気合の声は趙奉のものだった。声とともに右足を振り上げて、迫る芽衣へと蹴りを繰り出した。


 芽衣はそれをとっさに腕で防いだ。それが失敗だった。


 木剣を思い切り振っているのだから、ほぼ同時に出される蹴りなど力が入るわけはない。無視して趙奉を打てばよかったのだ。


 しかし、芽依の動きはそれを防いだことで一瞬止まってしまった。そして、その一瞬で勝負はついた。


 趙奉の木剣の切っ先が、芽依の顔のすぐ前で止められている。その気になれば芽衣を突けたということだ。


「そこまで!」


 花琳が手を上げ、兵たちから歓声が巻き起こった。


 許靖の気持ちは兵たちに近かったが、歓声ではなくほっとため息を吐いた。


 趙奉は喜ぶ兵たちに囲まれ、芽衣は許靖のところへ下がってきた。


「……芽衣、お疲れ様」


 許靖は歩いてくる芽衣へ小言の一つも言ってやりたいと思ったが、結果良ければまぁいいかと思い、労いの言葉をかけた。


 芽衣は腕を回しながら悔しそうに唸っている。


「うーん、やっぱりなまってるなぁ。せめて手甲してたら……いや、お酒があれば……」


 芽衣は許靖へ目を向けると、全く悪びれた様子もなく尋ねてきた。


「許靖おじさん、この辺でどっかお酒売ってるところ知らない?」


「授乳中だろう。控えなさい」


 許靖はやっぱり小言の一つも言ってやろうと思った。


 そこへ趙奉が歩み寄ってきた。


「許靖殿、あんたの娘さんは大したもんだ。これだけのものが身につけられる道場なら、喜んで娘を入門させよう」


 明るい笑顔でそう言って、出会った時のように握手を求めた。


凜風リンプウは体を動かすのが好きだし、嫌じゃなかろう。よろしく頼む」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 許靖が手を握り返すと、趙奉はその手をぐっと引いて許靖の耳元で囁いた。


「……その代わり、いつか部下がいないところで奥さんと一戦させてくれ。敵いそうもないのは見て分かるんだが、それでも手合わせしてみたい」


 趙奉はニヤリと笑いながら許靖の二の腕を叩き、兵たちの方へ戻って行った。


 許靖は部下たちの笑顔に囲まれた明るい背中を見て、現地人との信頼構築には趙奉のような男の協力が不可欠であることを再確認した。

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