第125話 寒と暑
「武術教室……ですか」
許靖はその様子に構わず、にこやかに話を続ける。
「武術教室といっても、護身のためのものだと思ってください。お試しでよいので、ぜひ一度
それが花琳の提案で、許靖が進めている事業だった。
子供や婦人を主な対象とした武術教室。
どれほど需要があるか分からないが、戦乱の影響を考えるとそれなりの人が集まるのではないかと思っている。それは
すでに
すでに道場の場所も確保済みだ。
「ふむ。確かに護身術は悪くありませんが、女性が武術ですか……」
袁徽の回答ははっきりしないものだった。
儒教の教えで女性が武術を身につけてはいけないという明確な禁止はない。むしろ、女性であっても国家や家族の危難に立ち向かった者は列女として賞賛された。
しかし女性はあくまで男性に追従し、家を支えるものという位置づけが普通の認識である時代だ。そこで生きている袁徽としては、女性が武術を教わるということに関してあまり肯定的な気持ちを持てなかった。
許靖には袁徽がそう考えていることが分かる。分かるがゆえに、少し卑怯な手を使うことにした。
「袁徽殿。今がもし平和な時代であって、ここが洛陽であるならば護身術など不要でしょう。しかし今は乱世で、ここは蛮族の地です」
許靖はわざと『蛮族の地』という言葉を使った。その言葉に、袁徽の耳はピクリと反応した。
瞳の奥の「天地」では、凍った湖の氷にピシリとヒビが入った。
(やはり効いている)
許靖はそれを確認して言葉を畳み掛けた。
「袁徽殿には交州の教化という重大な使命がありますし、四六時中翠蘭さんについていることなど出来ないでしょう」
「確かに、おっしゃる通りですが……」
「それに、翠蘭さんは美しい。それも交州では見ることのできない教養高い美しさですから、嫌が応にも目立ちます。他人の家のことながら、私も心配です」
むう、と袁徽は唸った。
袁徽が娘を可愛いと思えば思うほど、護身術を習わせざるを得なくなるような攻め方だ。
袁徽は数歩離れて静かに佇む娘を振り向いた。
確かに娘は目立つ。これほど知的な美しさを備えた女性は、この交州にはいないだろうと思った。
「……分かりました、参加させてみましょう」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
許靖は胸をなでおろして頭を下げたが、下げた頭の中に一つ心配が浮かび上がった。
(娘がすぐそばにいるのに、本人の意向を確認しなかったな。翠蘭さんもそれが当たり前のようだった……)
家父長制の強いこの時代としては珍しいことではなかったが、許靖からすると親子関係として望ましいものではないように思える。
(もしかしたら、この辺りが袁徽殿の抱える問題の芯なのかもしれないな)
許靖は父から数歩下がって慎ましやかに立つだけの翠蘭を見た。
自分の習い事について話されているにも関わらず、その瞳からは許靖ですら何の感情も読み取れはしなかった。
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