第121話 士燮

 許靖はやむなく応じることにしたが、本心としては瞳の奥の「天地」のことは黙っていたかった。


 交趾こうし郡でどのような立ち位置でいればよいかがまだ分からない。下手に使える人間だと思われるのも危険につながる可能性があった。


 しかし、このような拍子のとり方で物事を進められては抵抗のしようがない。政治家としての年季が違うということだろう。


(これは、優しいだけの太守ではないぞ)


 護衛隊長の言葉を思い出しながら、許靖はそういう感想を持った。


 士燮シショウは茶菓が並べ終わられる前に話を始めた。


「本来ならあれこれと挨拶の言葉を並べるべきところです。いきなりこんな話を持ち出して申し訳ない。礼を欠くのは重々承知しているのですが……」


「いえ、お忙しい身だと思います。むしろ、こうして時間を取ってお会いいただけるだけで恐縮です」


 許靖の言う通り、士燮は忙しい身であった。


 州内の統治はもちろんのこと、乱世で他州との外交にも気が抜けない。加えて貿易の事もある。


 いきなり本題に入れるのであれば、それが一番望ましいというのが本音だった。


「ありがとうございます。では、月旦評の許靖殿が私の中に何を見るのか、聞かせてもらえますかな?」


 許靖は覚悟を決めて、自分の見たものを伝えることにした。


「士燮様の瞳の奥には、森の中に君臨する一匹の象が見えます」


「象……ですか。私の好きな、雄大な生き物です。象は森で何をしているのでしょうか?」


「象は森が均衡をとって栄えられるよう、様々な事を行っています。例えば木が茂りすぎているようなら枝を食べます。地に光が届くようにするためでしょう。また、肉食獣が草食獣を食べ過ぎているようなら、追い散らします。森の生態系を守るためでしょう。そのようにして、森を管理しているのだと思います」


「なるほど……それで月旦評の許靖殿は、私をどのような人間だと思いましたか?」


「あらゆるものの均衡を保つのが上手い方です。よく気が付き、よく気を利かせ、強いものも弱いものも出さず、皆で繁栄していけるよう導ける方とお見受けしました。各方面へ気遣いの厚い、理想的な太守でいらっしゃると思います」


「はっはっは、これはずいぶんと褒めてもらいましたね」


 士燮は笑ったが、許靖としては世辞を言っているつもりはまるでなかった。


 特に中央政府と現地人との均衡を保つのが難しい交州では、まさに理想的だと言える。


 護衛隊長が『交州は士燮様でなければ治まらない』と言っていたが、確かにそうかもしれない。


「しかし、先ほどの許靖殿の顔は『理想の太守』を見たから出るような顔ではありませんでした。よければそのあたりも聞かせてもらえますか?」


 許靖は言葉に詰まった。


 さすがによく気が付く男だ。許靖の表情一つ見落としていなかった。


 許靖は少し悩んだが、別にやましい事でも隠すべき事でもないので、正直に話すことにした。


揚州ようしゅうから交州への旅の途上で、一人息子を失いました」


「なんと。それは……ご愁傷さまでしたな」


 士燮は本気で気の毒な顔をした。まだ子を失って日も浅かろうに、辛いだろうと同情した。


 許靖は頭を下げてから言葉を続けた。


「私の息子の瞳には、森を管理する人間がおりました。士燮様の象と同じように森の均衡を保って皆が栄えられるようにする、いわば森の管理者でした」


「なるほど……つまり、私の瞳に息子殿の面影を見て動揺してしまった、というわけですね」


「おっしゃる通りです」


 士燮の瞳の奥の「天地」は、許欽のそれと全く同じというわけではない。


 士燮は象で許欽は人だし、森の様子も士燮のは交州で見られる亜熱帯の森だ。中華の森とは植生がまるで違う。


 しかし、森の均衡を保とうとするという点で、本質的にかなり似通っていると感じた。それで士燮の言う通り、動揺してしまったのだ。


「分かりました、興味深い話をありがとうございます。出来ればついでに他の人間のことも聞きたいのですが……そうですね……」


 士燮は他の人物鑑定も聞いておくつもりだった。


 でなければ、許靖の人物鑑定家としての能力がはっきりしない。今のもただのおべっかかもしれないだろう。


 しかし許靖はまだ交州に来たばかりだ。お互いに面識のある人物で、適当な人間がいるだろうかと思考を巡らせた。


 その思考はやがて一つの回答を得て、士燮は手を打った。


「……そうだ、城に入る前に問題児二人の喧嘩に出くわしたそうですね。あの二人はどのような人間に見えましたか?」

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