第122話 士燮

 士燮シショウは言いながら、少し意地悪だったかもしれないと後悔した。


 護衛隊長からその話を聞いていたのだが、許靖が二人を見たのはほんの短時間だったはずだ。それで人柄など分かろうはずもない。


 しかし許靖はなんの困った様子も見せずに、さらりと答えた。


「ああ、あのお二人ですね。胸を掴まれていた方の瞳には、冬の湖畔が見えました」


 その様子を脳内に思い浮かべながら言葉を続ける。


「寒さの厳しい土地のようで、雪が積もり湖には氷も張っていました。ああいった厳しい寒さを感じさせる方は自分に厳しいため能力が高く、高潔であるため人から尊敬されるような人物であることが多いように思います。しかしその一方で人当たりが冷淡で、他人にも厳しくしてしまう傾向があります。一部の人間からは嫌われたり、煙たがられたりするかもしれません」


 許靖の淀みない人物評に、士燮は言葉を失った。


 すべて当たっている、そう感じた。


 許靖はそんな士燮の様子に構わず、もう一人の人物鑑定を口にした。


「胸を掴んでいた方の瞳はしっかりと見ていなかったのですが……確か篝火かがりびが見えたように思います。おそらく周囲を照らし、明るくしてくれるような方ではないでしょうか。それに大きな火が見られる場合は勇猛なことが多いので、兵としても有能な方かと思います。ただし、篝火にしては火が強すぎるようでした。時に強い感情が制御できず、他人にも自分にも火傷を負わせてしまうかもしれません」


 こちらも当たっている。


 士燮はしばらく何も言えなかった。


(これは……座興が座興ではなくなったな)


 そう思いながら唸った。


 唸りながら、内心ではこの人物が手元へ来たことに諸手を上げて喜んでいた。


(しかし、焦るのは禁物だ。それに許靖殿自身がどういった人物か、私自身が見極めなければならん。そうでなければ本来の意味での手駒にはならない)


 士燮は為政者らしく、そう判断した。そして為政者としての思考はいったん置いておくことにした。


「なるほど……袁徽エンキ殿は氷で、趙奉チョウホウは火ですか。それは相性も悪いでしょうね」


「袁徽?ああ、あの方が袁徽殿だったのですか」


 許靖は胸のつかえが取れたような思いがした。


 あの顔にどうも見覚えがあると思ったのだが、名前が知れてその理由が分かった。


「袁徽殿をご存知ですか。高名な儒学者ではありますが」


「面識はありませんでしたが、従兄弟の袁渙エンカンは友人なのです。どこかで見た顔だと思っていましたが、意識してみると確かに袁渙によく似ています」


 袁渙は洛陽時代の許靖の友人だ。この頃の袁渙は劉備から茂才もさい(孝廉と並ぶ官吏の推薦制度)に挙げられている。


 許靖は袁渙から従兄弟に袁徽という儒学者がいるという話は聞いていたが、交州にいることまでは知らなかった。


(南の果てまで避難してきて友人の従兄弟に会うのだから、世間は思ったよりも狭いものだ)


 許靖はしみじみとそんなことを思った。


「しかし、袁徽殿は趙奉という方とあまり仲が良くないのですね」


 士燮はため息をついて首肯した。


「仲が良くないというか、もう犬猿の仲ですね。趙奉はうちの歩兵隊長の一人です。兵としては優秀で同僚からの人気も高いのですが、どうも袁徽殿とは馬が合わないようでして……」


 士燮は良い機会なので二人のことだけでなく、士燮が知識人を保護している経緯も許靖に話すことにした。


 許靖もこれからその一人になるのだから、士燮が何を望んでいるか知っておいてもらった方がいい。


「私が太守として中央の知識人を保護するのは、交州を交州として維持するのに現地人の教化以外に選択肢がないからです」


 士燮は己の治める土地について、そう断言した。


 教化、つまり交州に儒教の考え方を根付かせるために知識人を保護しているのだという。


 儒教は人間の上下関係を是とすることから支配者にとって諸事都合が良い。しかし最も重要な点はそこではなく、交州にとってそうせざるを得ない現実があるのだった。


 交州は辺境とはいえ、漢帝国の一部だ。その漢帝国が儒教の考え方を道徳や政策の基礎にしている以上、交州としてもそれに合わせざるを得なくなる。


 しかし儒教倫理を基にした行政を実行しても、その価値観が現地人と合わなければいつまでも摩擦が無くならない。


 もし交州が漢帝国から独立でも宣言するとしたら、その必要性はまだ薄れるだろう。しかし独立宣言など、周辺地域からしたら武力侵略を行う格好の口実にしかならない。


 士燮の意志に関係なく、この地を治める者としてそんな選択肢など取れるわけがなかった。


 交州が漢の一部としてやっていく以上、儒教での教化が否が応にも必須になるのだ。


 そういった課題があるところに、戦乱の影響で多くの知識人が避難して来た。中には袁徽のような著名な儒学者もいて、士燮としてはこれを使わない手はなかった。


 士燮は袁徽を始め、素養のある知識人たちに現地人への講義を依頼した。これが各地で定期的に行われ、儒教は交州で急速に広がりつつある。


 また、儒教を教えるということは、文字を教えるということでもある。


 全員が全員に文字まで教える必要はないだろうが、一部の有望な者が学ぶだけでも識字率の上昇にはつながるだろう。そうすれば文化水準も上がり、民の生活も豊かになるはずだった。


「しかし、そもそも教化自体に反発する者もいます。当然でしょう。言ってみれば価値観の押し付けですからね」


「趙奉殿も儒教を学びたくない一人、というわけですか」


 許靖の言葉に士燮は首を振った。


「いえ、趙奉は忠誠心の高い兵です。私の命令には忠実で、私が学べと言ったものを学ぶ気はある。しかし袁徽殿が儒教のみを正しいものとして、現地の価値観を頭ごなしに否定するものですから反発しているようです」


 許靖は袁徽の瞳の奥の「天地」を思い出し、ありそうなことだと納得した。


 袁徽はおそらく自分にも他人にも厳しい男だ。自らの日常生活で儒教精神を厳しく実践しており、他の者にもそれを求めてしまう。


 結果として、現地の価値観の否定に繋がってしまうのだろう。


 士燮はそんな袁徽が残念でならないようだった。


「袁徽殿は儒学者として超一流なだけに惜しい。落ち着いたら許靖殿にも講義をお願いしたいのですが、教えられる側の気持ちにはくれぐれもご注意いただきたい」


「心しましょう」


 士燮の忠告に、許靖は深くうなずいた。


 現地人の気持ちには講義の時だけでなく、交州で生活する上でも常に気を付けたほうが良さそうだ。


「ただ許靖殿はここ数日だけで、役人や兵たちの心を随分掴んでいると聞きました。心配は要らないでしょうが」


 士燮はそう言って笑った。


 心を掴むほどの何かをした記憶のない許靖は首を傾げた。


(……もしかして蓮料理のことだろうか?だとしたら人の心は思いの外、安く掴めるのかもしれないな)


 まさかそれだけではないだろうが、許靖は人の評価とは案外そんなものかもしれないと考えたりもした。

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