第119話 士燮

 許靖の一行が港町を出たのは、入港から七日も経ってからだった。


 その間、胡能コノウの計らいで宴を開いてもらったり、港町を案内されたりして、文字通り歓待を受けた。長い船旅で疲れていたので、良い気分転換になった。


 胡能はよほど親切な性格らしく、許靖たちが宿への宿泊に飽きた頃には、自宅へ招待してくれた。子供が五人もいたので賑やかだったが、交州の生活を知る良い機会になった。


 城のある街へすぐに案内されなかったのはただ歓待するためだけではなく、受け入れの準備を整えるという目的もあったらしい。住居などを用意してくれているとのことだった。


 港町から城のある街までは普通に歩いて三日ほどだろうか。


 胡能と別れてからの道中は、交趾こうし郡の兵が護衛として付いてくれている。交易の関係上、頻繁に用いられている道だからそれほど危険もないとのことだった。


「小芳見てくれ!蓮の花がこんなにたくさん!なんて美しいんだろう!」


「本当ね、とても綺麗……でも暑い」


 子供のようにはしゃぐ陶深に、小芳は同意しながらもうんざりした声を上げた。


 目の前には一面の蓮田が広がっており、咲き競う花々は確かに絶景だった。まるで天界にでも来たようだ。


 しかし小芳の言った通り、とにかく暑い。


 この辺りは亜熱帯に属し、今はちょうど特に暑い時期とのことだった。しかも雨季に入っているとのことで、入港してからというもの何度かスコールに悩まされた。


 幸い出発してからは良い天気なのだが、それはそれで暑さが厳しい。護衛の兵たちは慣れているが、それでも一行の中でここまで元気なのは陶深だけだった。


「いやぁ、本当に旅は素晴らしいなぁ。船も良かったが、やはり地に足をつけて歩いた方が見えるものも多い。小芳もそうは思わないかい?」


「ええ、本当にそう思うわよ……暑くなければ」


 大汗をかきながらもはしゃぐ夫に、小芳は適当な返事を返した。


 そしてあごに滴る汗を拭ってから、腰に下げた水筒をぐっとあおった。


(子供って暑いとか寒いとか分からないんじゃないかと思う時があるけど、この人もそうね。ずっと子供なんだわ)


 つい先日、祖父になった夫の笑顔を見ながらそんなことを思った。


 許欽のことがあってしばらくは気がふさいでいた陶深だったが、許靖が立ち直ってからはずっとこんな調子だ。


 旅で見るもの、感じることが嬉しくてしょうがない様子で、はしゃぎ回っている。


 その明るさは許欽を失った一行にとってありがたいものだったが、このくそ暑いときに、暑苦しく騒がれたのではたまったものではなかった。


「あ、小芳。その水はちゃんと沸かしたやつだね?容器も気をつけているかい?」


「大丈夫ですよ。そんな間抜けで失敗するのは、いつもあなたの方でしょう」


 一行は世話をしてくれた胡能から、くれぐれも生水は飲まないように言われていた。出来れば容器も熱湯をかけてから使い、食べ物もよく火を通したものを食べるように注意された。


 今のところ、幸いにも体調を崩したものはいない。炎天下の中で歩き続けて消耗していること以外は、だが。


 心配なのは芽衣と赤子たちだが、芽衣は鍛えているし、赤子たちにも今のところ異常は見られなかった。


 だが同行してくれる護衛隊長は心配らしく、荷物は兵たちが全て持ってくれた。休憩も多めの頻度で挟んでくれている。


「許靖様、もう少し行ったら休みましょう。ここらは蓮の花の名所ですので、それを眺めながら食事をとれる店があります。美味しい蓮料理を出してくれますよ」


「それはありがたい。よろしくお願いします」


 船上での武術教室でずいぶん体力は戻ったつもりだったのだが、それでも正直なところ辛かった。


 店に着くと許靖は店主に銭を渡し、兵たちの分まで上等な料理を出してもらうよう頼んだ。


「いけません、許靖様にお支払いいただくわけには」


「いえ、皆さんが荷物を持ってくれるおかげで、暑さに慣れぬ私たちがまともな旅をできているのです。むしろ、これくらいしかお礼出来ないことが申し訳ない」


 隊長は恐縮したが、部下の兵たちは喜んでご相伴にあずかった。


 こういう気遣いをしてくれる人間はそう多くない。これまで護衛してきた知識人は、兵の任務だから当たり前だと思っている者が多かった。


 しかし仕事とはいえ、当人たちは実際に汗をかいているのだ。


 小さなことだが、兵たちの許靖に対する印象は確実に良くなった。


 一行は蓮の花の絶景を眺めながら、蓮を使った料理を食べた。許靖は蓮の茎まで食べたのは初めてで驚いたが、悪くない味だと思った。


 兵たちはなかなか食べられない上等な料理に舌鼓を打っていた。


「許靖様は良い方ですね。避難して来る人全員がそうだったら良いのに」


 一人の兵がそんなことを言い、隊長にたしなめられた。


「こら、つまらん事を言うな」


 軽い愚痴だったのだろうが、許靖にはその一言が気になった。


士燮シショウ様が保護していらっしゃる知識人の中には、やはり困った方もいるのでしょうか?」


「まぁ……色々な人がいますからね」


 隊長は言葉を濁したが、許靖はその様子から現地人との摩擦を想定しておいた。


 考えてもみれば、いかにもありそうな話だ。


 交州はただでさえ遠く離れた中央からの支配を受けており、文化的な違いもある。それに前漢の武帝に侵略されるまではもともと異国であり、その辺りの鬱積うっせきもあるだろう。


 中央から来た人間と現地人との摩擦、このような土地では特に注意が必要そうだった。


「そういえば士燮様のご家系は、元は豫州の出身ということでしたね。私と同じです」


 許靖は士燮の話から交趾郡の状況を知ろうとした。


 隊長はうなずいて答えた。


「もうずっと前に士燮様のご先祖が交州に移り住み、時間をかけて民の信頼を得ていった聞いています。交州は何年か前のゴタゴタでかなり荒れましたし、士燮様のようなお立場でなければ治まらないでしょう」


 隊長の言う『何年か前のゴタゴタ』というのは、当時の交州刺史しし(州の長官)が現地人から恨みを買って殺害されたという事件を指している。


 刺史は揚州出身の朱符シュフという男だったが、自らの同郷人ばかりを各地の長に置くという、絶対にやってはいけない政策を取ってしまった。


 この現地人を無視した暴政により各地で反乱、暴動が起こり、結果として朱符は殺された。


 参ったのは中央政府だ。中央から派遣された行政官が現地人を怒らせてしまったのだから、新しい者を送ってもまた反感を買う可能性が高い。


 そこに士燮が目がつけた。


 士燮の一族である士氏は今でこそ交州に土着した豪族だが、元が中央近くから出ているために政府との繋がりも強く、理解もある。


 実際に士燮自身も若い頃には洛陽に遊学し、許靖と同じように孝廉に挙げられて中央政府で尚書郎にも就いている。


 刺史殺害事件の当時は今と同じ交趾郡の太守を務めていた。


 交州の混乱を終息させるため、士燮は自分の弟たちを交州の各郡に太守として就任させることを提案した。そして士燮自身がそれをまとめるのだ。


 土着の豪族として現地人の信頼も厚く、中央との繋がりもある士燮の提案を中央政府は受けることにした。それが諸事都合の良い解決策であることは疑いようもなかったし、実際に交州の治世はそれで落ち着かせることができた。


 こうして交州の大部分を士燮が支配下に置き、現在に至る。


(なるほど、確かに交州は士氏のような立場の人間でなければ治まらないだろう)


 許靖は隊長の言うことに心中で納得していた。


(しかし、歴史的にも地理的にも間違いなく摩擦の起こりやすい土地だ。よくよく注意したほうが良さそうだな)


 許靖が隊長と話し込んでいると、外が急に暗くなってきた。じきにまたスコールが降るのかもしれない。


 せっかくなのでしばらく店で休ませてもらい、兵たちの話をよく聞いてみることにした。


 一雨くれば、その後は多少涼しくなる。そうなれば旅もしやすくなるだろうと思った。

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