交州

第118話 士燮

 交州の港町は活気に溢れていた。


 いくつもの船がいかりを落とし、盛んに荷の積み下ろしをしている。戦乱の影響で多くの地域が経済的な打撃を受けている中、ここだけは別世界のように物が溢れていた。


 並んだ船の中でも陳覧の船はかなり規模の大きな方だったが、同程度の船もいくつか見受けられる。


 許靖と陳覧は、船の入港前に甲板の上から港町を眺めていた。


「すごいだろう。交趾こうし郡の太守、士燮シショウは南海貿易でかなりの利を上げている。俺たちもそのおこぼれをあずかってるわけだ」


「どのような物が扱われているんです?」


「色々だよ。真珠、大貝、瑠璃、翡翠、さいの角、象牙、バナナ、椰子やし、龍眼……」


「どれも北へ運べばかなり値が上がりそうですね。おこぼれと言うには、やや過大な利益が上がっているはずでしょう」


 商品を指折り数える陳覧に、元行政官の許靖は鋭い意見を返した。


 物が盛んに動いている所では、そこに幸せも同居していることが多い。人が働いて生きていく以上、経済活動は民の幸せを大きく左右する。


 それが全てではないものの、そういった現実が分かる許靖としては交趾こうし郡の民が羨ましく思えた。


「王順さんの言う通り、お前は商人をやればよかったと思うよ」


 陳覧がそう返している所へ、一艘の小舟が近づいてきた。


 小舟にはかいを操る船頭の他に、恰幅のいい男が舳先に立っている。


 その男は船上に陳覧を認めると、明るい大声を上げた。


「陳覧様、ようこそお越しくださいました!予定よりずいぶんお早いお着きですね!まずは航海の無事をお祝いいたします!」


 陳覧はかたわらの許靖へ説明してやった。


「あの男はこの港の役人で、胡能コノウという。入港やら商売やらの手続きをしてくれる。気のいいやつだよ」


 それから胡能に向かって大声を上げ返した。


「今回はこれ以上ないないほどの順調な航海だったよ!早く着きすぎて迷惑かもしれんが、また色々と世話を頼む!」


 陳覧の言う通り、風と天候に恵まれた順調な航海だった。三日ほど時化た日もあったが、その日は全てうまい具合に港に停泊していたり、すぐそばに避難できる入江があったりした。


 比較対象のない許靖としてはどの程度楽だったのかよく分からなかったが、通常の航海よりも数日は早かったらしい。


 そもそも外洋航海が安全とは言い切れない時代に無事に到着できたのだから、それだけでも運は良かったのだろう。


 胡能がはしごを伝って甲板へと上がってきた。船上で手続きをしてからの入港となる。


「改めまして、航海の成功おめでとうございます。交趾郡の民は皆、心待ちにしておりました」


「期待されているところにすまんが、今回の荷は人が中心で物が少ない。あまり利にはならんぞ」


「いえいえ、人が来られれば中華の進んだ知識や文化が入ってきます。人もまた財産です。歓迎いたしますよ」


 胡能は厚い頬をほころばせて、人の好さそうな笑顔を作った。


 交趾こうし郡は現在のベトナムの首都、ハノイ周辺にあたる。


 この当時は漢帝国の一部だったが、中央からかなりの距離があるため文化的には大きな隔たりがあった。漢帝国に組み込まれてからかなりの年月が立つとはいえ、中央の人間からすると異民族の土地という認識が一般的だ。


「人も財産といえば、今回はかなりの上玉を連れてきたぞ。月旦評げったんひょうの許靖だ。聞いたことはあるか?」


 許靖は紹介されて頭を下げた。


 胡能は目を丸くして許靖を見た。


「月旦評の許靖様……?聞いたことあるも何も、つい昨日太守の士燮シショウ様より命令が届いております。『到着したら礼を尽くして歓待の上、護衛の兵をつけて城までお連れするように』と。まさかこんなお早くお着きになるとは」


 許靖は会稽郡で交州への避難を決めてから、すぐに士燮への文を出していた。


 保護を依頼する内容で、士燮と同等の立場である太守の王朗からもその旨の書状を付けてもらっている。


 許靖と士燮とは面識はなかったが、許靖は元中央官庁の行政官だ。地方の行政長官である太守に助けを求めること自体は、決しておかしいことではない。


「文を出してからあまり間を置かずに出発しました。突然の来訪になって申し訳ありません」


 航海が順調だったことも一因だろう。むしろ郡での処理に時間がかかっていれば、命令よりも早く到着する可能性だってあったはずだ。


(しかし、礼を尽くして歓待とは……そこまで歓迎されるとは思わなかったな)


 士燮が避難してきた知識人を保護しているという話は聞いていた。


 許靖はこれでも世間で名士と呼ばれている人間ではある。いくらかの世話はしてもらえることだろうと期待していたのだが、期待以上の反応だった。


 色々と不安はあったものの、とりあえず家族が無事生活できそうなことに許靖は安堵した。

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