第110話 連環

 許靖は扉の前で、頭を抱えてうずくまっていた。甲板の上に造られたろうと呼ばれる建造物の一室の前だ。


 息子を失うのではないかという恐怖に押し潰されそうになりながら、ひたすらに息子の治癒を祈った。


 何に祈った、というわけではない。今まで宗教などまともに信じてはこなかった。ただ、今ならどんな馬鹿げた神であろうとすがってしまうだろう。


 許靖の前を陶深がうろうろと歩き回っていた。動かない許靖とは対照的に、じっとしていられないらしい。


 部屋の中では許欽の治療と芽衣の出産とが同時に行われている。他の部屋が空いていないわけではなかったが、許欽の怪我を聞いた芽衣が強硬に同室を主張した。


 許欽の腹に刺さった矢を見た外科医は、


「普通ならば別室にしますが……もうその方がいいかもしれません」


 そう言って同室での治療を始めた。許靖にはその言い方が気になってしようがなかった。


 本当なら息子と一緒にいてやりたかったが、出産が同室で行われているため陶深と共に男は部屋の外で待つことになった。花琳と小芳はついてくれている。


(処置にかかる時間が長い気がする。永遠に手術をしているのではないだろうか)


 許靖がそう思ったのは、もう十回目だった。


 待っていられないから、状況を扉越しに尋ねることも考えた。


 しかし医師の邪魔になってはいけない。それに答えを聞くのも怖いから、やはり室内へ声を掛けるのは止めた方がよいか。


 そう思ったのも十回目だったが、繰り返される思考は十回でようやく終わってくれた。


 部屋の扉が開き、医師が出て来たのだ。その後から花琳と小芳も続いて現れた。


 許靖は跳ねるように立ち上がった。すぐに医師へと詰め寄る。


「先生、欽は?」


 医師はすぐに答えず、部屋から少し離れたところまで歩いた。


 そして部屋の中までは声が聞こえないであろうところまで来て、ようやく口を開いた。


「処置としては、腹に刺さった矢を抜いて縫合したところです。それ自体は特に問題なく終わっています。もともと矢傷ですので、傷口も広くはありません」


 許靖はその言葉に安堵した。


 しかし、医師の説明は終わりではなかった。


「ですが……矢が腸まで届いています。腸に穴が開いているのは間違いないでしょう」


 許靖には医師の言うことが十分を理解できなかった。腸に穴が開いているとどうなるのだろうか。穴が開いていること自体よりも、それが知りたいのだ。


「腸の中身は、腸の中にある間は基本的には毒ではありません。ですがこれが腸の外、腹腔に出てくると毒になります。特に彼の場合はすでにそれが広がって、腹部全体に炎症が生じています。これは予後の悪い症例の特徴です」


 現代医学で言えば、外傷による腸管穿孔で急性汎発性腹膜炎を発症している、という事になるだろう。通常であれば開腹手術にて穿孔部の閉鎖もしくは腸管切除の上、適切な抗生剤の投与が必要になる。


 しかしこの時代は開腹手術もできないし、抗生剤も発見されていない。唯一、華佗かだという医師が麻沸散まふつさんと呼ばれる麻酔薬を使い開腹手術を行ったという記録もあるが、一般的なものではない。事実、華佗が亡くなった後にはこの技術は途絶えてしまっている。


「先生……つまりは、どういうことでしょうか?欽はどうなるのでしょうか?」


 許靖はすがるような目で医師を見た。


 許靖たち一般人からすれば予後が悪いと言われても、その予後という言葉すら馴染みがない。薄々は気付いていても、はっきり言ってもらうまでは息子の回復を信じたかった。


 しかし、医師は医師の責任として家族に診断を伝えなくてはならない。


「残念ながら、息子さんの命はおそらく助かりません。これ以上は出来ることもありません」


 許靖は呆然とし、花琳はその場に泣き崩れた。


 小芳も涙を流して陶深の胸に顔を埋めた。その肩に手を添えながら、陶深の顔も涙とともに歪んだ。


 許靖は自分の足が床から離れているような浮遊感を覚えた。それは足から全身へと広がっていき、まるで体中の神経が消えてしまったようだった。


 視界がぐらりと揺れ、どちらが上でどちらが下かも分からない。


(これは夢ではないだろうか)


 許靖はそう期待した。期待しながら、気付けば尻もちをついていた。


 尻の痛みと目の前で発せられる花琳の嗚咽とで、夢でないことを理解してしまった。しかし、それでも夢だと思いたかった。


 許靖は放心し、花琳たちは泣き続けた。


 医師はしばらく黙って四人が落ち着くのを待った。


 もちろんそう簡単に落ち着けるはずなどない。それは分かっているが、医師なりに家族の気持ちを考えて少しでも待つことにしていた。


 やがて頃合いを見て、医師は口を開いた。


「息子さんにどうお伝えするかは、ご家族にお任せします。ご検討ください」


 それはつまり、告知をどうするかという選択だ。


 許欽にもうすぐ死ぬという真実を伝えて死に備えさせるのか、それとも生きられると嘘を伝えて心安らかに逝かせるのか、その選択をしろということだった。


 許靖以外の三人が、涙で腫れた目を許靖へ向けた。三人とも許靖がそれを決めるのにふさわしいと思ったのだ。


 許靖は人の人格を垣間見ることができる。許欽にとって、一番良いようにしてくれると思った。


 許靖は三人の視線を浴びて、身をすくめた。


 選択するのが恐ろしいと思った。許欽の残り少ない時間が、自分の一存で決まってしまうのだ。


 許靖は目を閉じて必死に考えた。許欽にとって、何が一番良い選択か。


 しかし脳が沼にはまったかのように思考が重く、考えがまとまらない。


 そこに、四人が感じている悲しみや恐怖とは真逆の声が届いて来た。


「……産まれた?」


 小芳がぽつりとつぶやいた。

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