第111話 連環

 それは赤子の元気な産声だった。


 しかも少し間を置いてから、二つの産声が重なって聞こえてきた。どうやら双子だったらしい。


(蛙の合唱のようだ……)


 許靖は悪気なくそう思った。


 そしてそう思いながら、どう選択するかを決めていた。


「……欽に真実を伝えよう。子供たちと、きちんとお別れをさせてやりたい」


 花琳は涙を拭いながらうなずいた。小芳と陶深も、二人がそうすると言うなら異存はない。


 医師は家族たちの意向が確認できたので、一つ助言を加えた。


「であれば、出来るだけ早い告知をおすすめします。いつ意識を失ってもおかしくありません」


 腸管穿孔を生じると、いわゆるショック状態を引き起こすことがある。そうなれば、別れを言おうにも意識がなくなってしまう可能性があった。


 許靖は立ち上がった。


 尻もちをついてしまった先ほどとは違い、足がちゃん床を掴んでいる。やるべき仕事があることで、足腰に芯が通ったようだ。


 四人は許欽と芽衣のいる部屋へと歩いていった。


 扉の前から中へ声をかけると、産婆から女だけ入り、男は少し待つように返事があった。出産後の後始末を手伝うのだろう。


 しばらくしてから許靖と陶深が呼ばれて入ると、赤子たちはすでに産湯につけられた後で白い布にくるまれていた。今はもう泣き止んでいる。


 花琳と小芳がそれぞれ一人ずつを抱いていた。


 産婆が柔らかい笑顔を許靖たちへ向けた。


「女の子と男の子ですよ。ちょっと小さいけど、元気なお姉ちゃんと弟よ」


「そうか、姉弟か。おめでとう、芽衣、欽」


 許靖は無理をして笑った。


 今から逝く息子のことを思うと、赤子の可愛さすら許靖を悲しませた。


「これは……どっち似なのかな?まだよく分からないな」


 小芳が自分の抱いた方を見ながら首を傾げた。


「まだシワシワのお猿さんですからね。でもお姉ちゃんの目元はお父さん似かな?お嬢様そっくりですもん」


 そう言って赤子の顔を花琳の顔と並べた。


 確かに似ている。許欽は母親譲りの目をしているから、きっと小芳の言う通りなのだろう。


 花琳は自分の抱えた弟を、反対に小芳の顔と並べてみた。


「じゃあ弟の方はお母さん似ね。小芳の小さい頃を思い出すわ」


「ええ?私、こんなお猿さんみたいでした?」


 部屋の皆が笑った。許欽も苦しそうだったが、笑っていた。


 しばらくはそんな幸せな会話が交わされた。許靖は、本来ならこんな時間がいつまでも続くはずだったのだと、そう思った。


(自分が言わなければ、今この時がいつまでも続きはしないだろうか)


 そんな馬鹿なことも思ってみたが、悲しいだけの妄想で自分の責任を放棄するわけにもいかない。


 許靖は決心して、伝えることにした。


「なぁ、欽。あのな……」


「私は死ぬのですね、父上」


 許欽の言葉は、許靖の言葉を遮るように発せられた。


 いや、意識して遮ったのだろう。父に辛いことを言わせないための気遣いだった。


 許靖はすぐに答えられなかった。だから許欽が言葉を続けた。


「恐らくそうだろうとは思っていました。芽衣にも話しています。覚悟をしておいてほしい、と」


 許靖は努力して、何とか声を絞り出した。


「……手の施しようがないらしい。すまん、私のせいだ。私が」


「何を言うのです。父上がいなければ、船にいる全員が皆殺しでもおかしくありませんでした。父上が私の妻と子どもたちを救ってくれたのです」


(違う、そもそも私が交州への避難など望まなければ……)


 許靖は否定の言葉を思い浮かべたが、口には出さなかった。息子にまたいらぬ気を遣わせてしまうだけだと思った。


 芽衣の方を見ると、黙って天井を見つめながら涙を流していた。


 その手は許欽の手を強く握っている。許靖たちが部屋に入ってからずっとそうだった。きっと、出産時からずっとそうしているのだろう。


 許欽は花琳と小芳の方へ首を向けた。


「子供たちを抱かせてもらえますか?起き上がれないので、胸に乗せてください」


 二人は言われた通りにしてやった。


 許欽は子供たちへ腕を回し、優しく撫でてやった。


「可愛いなぁ、これが私の子か……何もしてやれない父を許しておくれ」


 謝る許欽の手に、花琳は自分の手を重ねた。


「親が子供に一番してあげないといけないことは、愛おしんであげることよ。あなたは今、そうやってたくさん愛おしんであげてるじゃない」


 母の言葉に許欽は微笑んだ。


 確かに自分は両親から十二分に愛おしんでもらった。確かに幼い頃の自分にとって、それは一番幸せなことだった。


「そうですね。時間が短い分、心から愛おしんであげないと……」


 許欽はそう言ってまた子供たちを撫でてやった。体は相当辛いはずだが、とても幸せそうな表情を浮かべていた。


 芽衣はその横顔を、じっと見ている。許欽が両手を子どもたちに回してしまったので、空いた手で許欽の髪に触れていた。少しでも生きている夫を感じていたいのだろう。


 許欽はしばらくの間、人生で一番の幸せを味わっていた。ずっとそうしていたいと思ったが、そういうわけにもいかない。


 少し真面目な顔つきになってから言った。


「死ぬ前に言葉を遺したい思いますが、よろしいでしょうか」


 許靖たちは表情を固くしてうなずいた。


 幸い許欽の意識はまだしっかりしている。医師からいつ意識がなくなってもおかしくないと言われているのだから、話せる内に話してもらった方がいい。


「まず陶深さん。芽衣を嫁にもらっておきながら早くに逝くことになります。申し訳ありません」


 陶深は首を横に振った。


「何を言ってるんだ。芽衣は君といられる時間が一番幸せだったんだよ。娘を幸せにしてくれて、ありがとう」


 小芳も陶深の言葉にうなずいた。


 許欽はその言葉をとても嬉しいものだと感じた。


「私の方も、芽衣といる時間が一番幸せでした。こちらこそありがとうございます。それと、一つお願いがあるのですが」


「何でも言ってくれ」


「芽衣の名前を彫った何かをいただけませんでしょうか。父上と母上がお互いの名を彫った指輪をしているのが、実はずっと羨ましかったのです」


 陶深はうなずいた。


「分かった。ちょうど対の指輪があるから、君と芽衣の名前を彫っておこう」


「ありがとうございます」


 許欽は満足そうだった。死んだ後も芽衣と一緒にいられるような気がして、嬉しかった。


「次に小芳さん」


「はい」


「芽衣は初めての子育てで、いきなり二人を世話しなくてはなりません。私が手伝えればよかったのですが、そうもいかなくなりました。大変かと思いますが、母上と一緒に芽衣を助けてやってください」


「もちろんよ。わがままなお嬢様とわがままな娘を世話してきたんだから。双子の世話ぐらいどうってことないわ」


 小芳は笑い、許欽も笑った。


「それともう一つ」


「何?」


「芽衣がお酒をほどほどにするよう、注意してやってください。もちろん小芳さん自身も」


「……分かったわ。ほどほどに、ね」


 小芳は酒を断つ、とはこの期に及んでも言わなかった。しかし、これで身を崩すほどには飲まないだろう。


「それから母上」


 花琳は無言でうなずいた。


「母上の子供なのに、弱い息子で申し訳ありません。母上の言っていた鍛錬をさぼらなければ、こんな事にならなかったのかもしれませんが……」


 花琳は許欽の頭を撫でてやった。


「あなたには武術とは別の強さがあります。それは、闘いが強いことよりもずっと大切なことよ」


 息子は今も本当は苦しいはずなのに、母へ微笑んでくれている。最後の記憶を、出来るだけ幸せなものにしてくれようとしているのだ。


 これを強いと言わずして、何を強いというのだろうか。


「先ほども同じ事を言いましたが、芽衣と子供たちをお願いします。やはり私も色々してあげたかったのですが……」


「そうだわ」


 花琳はそこで一つ思いついて、提案してみることにした。


「欽、あなたが二人に名前を付けてあげたらどうかしら。人生で一番初めにしてあげられる贈り物よ。もちろん、芽衣が良ければだけど」


 芽衣は花琳の言葉に無言でうなずいた。


 許欽にとってもそれは嬉しい提案だった。


「そうですね……実は、ずっと考えていた名前があります。女の子なら春鈴シュンレイ、男の子ならユウ。そう名付けようと思っていました」


 花琳は二人の赤子の背に手を置いた。


「お姉ちゃんが春鈴、弟が游ね。いい名前だわ」


 春鈴と許游。父親から最初で最後の贈り物をもらった姉弟は、お返しに父の胸を撫でるように腕を動かした。


 許欽はその幸せを噛み締めつつ、花琳の方へと顔を向けた。


「母上。私は母上の息子で幸せでした。母上は父上さえいればどこにいても、何をしていても幸せでいられると思います。どうかお二人、末永くお元気で」


 花琳は涙を流した。


 その幸せの場に、息子はもういなくなるのだ。それを幸せと呼べるものだろうか。


 しかし、死にゆく息子へ責めるようなことは言えない。花琳は黙って何度もうなずいた。


「芽衣」


 呼ばれた芽衣は、瞳だけで返事をした。しかし、許欽はきちんと声が聞きたかった。


「芽衣、返事をしてくれないか。私は大好きな芽衣の声を、もうあまり聞けないんだ」


「……ごめんなさい」


 芽衣は謝った。許欽の死が受け入れられず、拗ねた子供のように黙り込んでいた。


「まず何よりも、子供たちを頼む。私は結局子育ての苦労を知らないまま逝くが、大変なことなのだろうと思う。無理をせず、頼れるものには頼ってほしい」


「うん、分かった」


 芽衣は素直にうなずいた。


「それと、良い相手がいたら再婚しなさい」


「それは」


「これには返事をしなくていい」


 芽衣の返事を予想していた許欽は、すぐにそれを遮った。


「芽衣、私が一番望むのは子供たちと芽衣の幸せだ。私が死んだ後に操を立てることになど、何の意味も感じない。そもそも貞操観念というものに疑問がある。保健衛生上は一定の価値があると思うが、それを倫理観、道徳観に組み込むことには……」


「欽兄ちゃん」


 許欽は芽衣に止められてハッとした。


「私ね、欽兄ちゃんの頭いいところは好きだけど……たまに面倒くさい」


「……すまない。まぁとにかく、芽衣と子供たちが幸せになれるなら、私にとってもそれが一番嬉しいことだということは覚えていて欲しい」


 芽衣は許欽に言われた通り、返事はしなかった。その方が許欽が安心すると思ったのだ。しかし、自分が再婚する未来など想像もできなかった。


「あと、私は芽衣のした無茶もずいぶん知っているけども、もう子供のことを考えて出来るだけ無茶はしないように。芽衣自身が元気でなければ、子供たちも守れないんだからね」


「……それは分かるけど、無茶して死んじゃうのはどこの誰よ」


 芽衣は恨みがましく許欽の髪の毛を引っ張った。


 許欽は顔をしかめて笑った。


 体が辛いのに、頑張って笑ってくれたのだろう。だから芽衣も頑張って笑い返した。


「最後に父上」


「ああ」


 許靖は許欽の枕元へ来た。


「どうか、私の大切な人たちをお願いします」


 許欽の大切な人は皆、許靖にとっても大切だ。


 だからそのために働くのは当たり前のことだったが、守ってやれなかった息子を前にして、もはや何の自信も湧かなかった。


 だから許靖は言葉で答えず、ただ無言でうなずいた。


「春鈴と游の瞳には何が見えますでしょうか」


 問われた許靖はあらためて二人の赤子を見た。


 普通、赤子はまだ瞳の奥の「天地」がしっかりと確立していない。だから曖昧なものしか見えないことが多かった。


 しかし、この二人の姉弟は赤子にしては珍しく、はっきりとしたものが見えた。


「海だ。海が見える」


「……海、ですか。確かおばあ様も」


「ああ。お前の祖母、この子達の曾祖母も、瞳に海をたたえていた」


 許靖の母の瞳の奥の「天地」は、凪いだ海だった。静かで穏やかな、美しい海だった。


 そのせいか、それとも海上で産まれたせいか、それは許靖にも分からなかったが、春鈴と許游の瞳には海が見て取れた。


 許欽は子供たちを撫でながら、しばらく海、海と呟いていた。


「海……そうだ。父上、私が死んだら海へ流してください」


「海へ?」


 この時代、死んだ後は埋葬するのが普通ではあるが、船乗りなど一部では海へ流すこともあった。


「お前が望むのならそうするが、森でなくていいのか?」


 許靖はそのつもりだった。許欽の瞳の奥の「天地」には森が広がっている。森に埋葬される方が嬉しいのではないかと思った。


「ああ、森か……それもいいですね。でも、私はこの子達のそばにいられる方が嬉しいのです。海に送られれば、ずっとこの子達の瞳にいられる気がする」


「……分かった。では体は海へ流し、遺髪を森へと埋葬しよう。良い森を見つけるまで、私たちが大切に持っておく」


「ありがとうございます。そのようにお願いします」


 一般的な葬送ではないものの、許靖は息子の望むようにしてやろうと思った。死を前にした最期の望みなのだ。可能な限り叶えてやりたかった。


 許欽はずいぶん喋ったので疲れたようで、大きく息を吐いた。


 胸が大きく上下し、赤子たちがそれに反応して手足を動かした。


 許欽はその感触を楽しみながら、つぶやくように尋ねた。


「父上、私は孝行息子だったでしょうか?」


 許靖は頭の中で、息子の問いを全力で否定した。


 父より早く亡くなって、孝などというものが成り立つはずがない。少なくとも許靖はそう考えていた。


 息子が自分を守って死ぬ。その事が身を裂かれるよりも辛かった。父をここまで苦しめて、孝などとどうして言えようか。


 しかし、今息子にそれを言っても意味がない。死を目前にした息子を責めても、何の意味もないのだ。


「あぁ……お前は、この世の誰よりも、孝行者の息子だ」


 許靖は否定する脳を全力で否定して、何とか言葉を絞り出した。


 しかし、許欽の瞳の奥の「天地」は森を見渡す管理者だ。色々なことに気が付いてしまい、気遣ってその場を保とうとする。


 息子は父の気持ちに気付いていただろう。


 許欽は声を出さずに、口だけを動かした。


 許靖にはそれが『ごめんなさい』と言っているように見えた。

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