第108話 逃避行
「なるほど、秘策か」
許靖は港を出てから初めて口を開いた。
いや、口はずっと開いている。全力で櫓を漕ぎ続けているのだ。大口を開けて息を切らせていた。
港はだいぶ遠くなってきて、ようやく安堵できた所だ。
許欽は緊張から解き放たれた脱力感で、まだぐったりと座り込んでいた。
しかし、許靖と同じように言葉を発する余裕ぐらいは出てきたようだ。
「……ただの赤い布、と言われればどうしようもない程度の秘策でしたけどね。ですが間違いなく本物ですし、仮にも孫家の軍なら、もしかすると、と思ったのです」
「客観的に見れば、博打にしても分の悪い勝負だが……まぁ勝てたのだから今さら言うまい」
許靖の言うとおり、許欽の目論見は完全に博打のようなものだった。しかしそれを言ってしまうと、許靖が一人で軍を止めようとしたこと自体が博打のようなものだろう。
いや、博徒打ちでもこれほどの無茶はしない。どちらかと言えば、奇術師の仕事だ。
許欽はそう思い、許靖へ向かってそれを口にしようとした。そして、そこで初めて父がずっと一人で櫓を漕いでいることに気がついた。
許靖は随分と呼吸を乱し、大汗をかいている。慣れない動作を全力でし続ければ、こうもなるだろう。
「父上、代わりましょう」
許欽は立ち上がって手を差し出した。
許靖は正直なところかなり疲れてきたので、その申し出をありがたく受けることにした。
「すまない、頼む」
そう言って櫓を差し出す。
しかし許欽の腕はその櫓をすり抜けて、許靖の胸へと伸びてきた。
「!?」
許靖は許欽に思い切り突き飛ばされ、小舟から転落した。
後ろ向きに海へ落ち、まず潮の味がして、それが鼻腔から頭に抜ける痛みへと変じた。
ほんの一瞬だけ水中から太陽の光を眺め、水上へと頭を出した。
「欽、何を……」
許靖は息子へ言いかけた言葉を止めて、絶句した。そこには信じられない、信じたくない現実が待っていた。
許欽の腹に、矢が深々と刺さっている。
なぜ、どうして。
そう思う間に、許欽の体はゆっくりと後ろへ倒れていった。
「……欽!欽!」
許靖は急いで上がろうと舟べりに手をかけた。その手のすぐそばに、固い音を立てて矢が突き立った。
許靖が港の方を見ると、そこには三人の兵が弓を構えていた。その三人の手元から次々と矢が放たれてくる。それらが船の近くに水音を立てて落ちてきた。
港からはかなりの距離が離れている。これを届かせるとは、よほどの強弓なのだろう。それを三人ともが相当な精度で射ってくる。
許靖は矢に構わず、とにかく急いで舟へと上がった。そして櫓に飛びつくと、がむしゃらに漕いだ。
とにかく港から離れるしかないし、それが優先だと思った。
倒れた許欽は苦しそうに顔を歪めている。すぐに何かしてやりたかったが、腹に矢が刺さった人間に何をすればいいのかも分からない。
それよりも、矢の届かない距離まで急いで離れるべきだと思った。そして少しでも早く陳覧の船へたどり着かなくてはならない。
(船には外科医が乗っていた……きっと何とかしてくれるはずだ!)
許靖はそう信じた。子供に命の危機がある時に親ができることなど、それくらいしか無かった。
許靖の足元にまた一つ矢が突き立った。しかし、それが恐ろしいとは全く思わない。
息子の苦しむ声と、もがけばもがくほどに鈍く感じる櫓の重さだけが許靖の背筋を凍らせるのだった。
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