第107話 逃避行
許靖の体が緊張でこわばった。そんな物は持ち合わせているはずもない。
(孫策軍では、潜入者に何か身分を明かすための物を持たせているということか)
急に言葉に詰まった許靖へ、
「どうした?常に携帯しているよう命じられているはずだ」
「……申し訳ございません、荷は全て船に積んでしまいました」
許靖が言い訳を言い終える前に、凌虎は剣の柄に手をかけた。
鞘に
「軍法では潜入員が証を提示できぬ場合、即座に斬って良いことになっている」
許靖を貫く鋭い視線は、凌虎の言が冗談ではないことを十分に分からせた。
副官や周りの兵たちの視線も許靖を針で刺すようだった。
初めに凌虎の知人であるように演技してみせたが、どうやら通じそうな雰囲気ではない。
(しかし、それで押し切るしかないか……)
許靖が半ば無謀な覚悟を決めかけているところへ、今まで無言を貫いていた許欽が口を開いた。
「なるほど、確かに荷を全て船に置いてきたのは我らの落ち度でございます。ですが、私は潜入員の証よりも孫家への恩義と忠義とを示すものを持ち合わせております」
そう言って許欽は懐から一枚の赤い布を取り出した。それを見た兵たちからどよめきが上がった。
凌虎も細い目を丸くしてそれを見た。
「それは……亡き孫堅様の頭巾か」
この赤い布は、許欽がまだ少年の頃に孫堅本人から実際にもらった物だ。孫堅が戦場で赤い頭巾をかぶっていた事はよく知られている。
特に
古い兵たちの中には孫堅から直接この赤い巾を貰い受けた者も幾人かおり、自慢の種となるものだから兵たちも一度くらいは見たことのある者が多かった。
「この頭巾は我ら親子が過去に縁あって孫堅様のために働かせていただいた際、ありがたくも手ずから賜われた物です。私は当時まだ少年でしたが、その時に孫家への忠誠を誓わせていただきました」
許欽の言葉を聞きながら、凌虎は赤い布を凝視した。
「その色合い、年季の入り方……確かに孫堅様の頭巾のようだ」
凌虎はそれ自体は認め、次に許欽と許靖とを馬上から厳しい目つきで見下ろした。
二人はそれを真っ直ぐに見返す。
恐怖と動揺とを隠すために、二人とも孫堅への忠誠を心の中で念じていた。仮りそめでも自分自身を騙せれば、相手も騙せるのではないかと思ったのだ。
そしてそれは、過去に会った孫堅が尊敬に足る人柄であったため、そう難しいことではなかった。
「……いいだろう、時間も惜しい。全軍、北へ向かって前進だ」
凌虎の一言で、隊は動き出した。
略奪しに来る時とは違い、意外なほどの規律正しい動きで列を作り始めた。無言で粛々と進んでいく。
許欽は凌虎の背中へ声をかけた。
「どうかご武運を。会稽郡での謝氏の羽振りは良うごさいますから、あんな船とは比べ物にならない財貨があるものと思われます」
凌虎はその言葉には何の反応もせずに去って行った。
許靖と許欽は最後の一兵がその場を発ってから、
桟橋の先から小舟に乗り込むと、許靖はすぐに櫓を持って漕ぎ始めた。
許欽は小舟に乗れて緊張の糸が切れたのか、膝から崩れるようにして座り込んだ。
兵たちはまだそう遠くにいるわけではない。演技力を比べるとしたら、許欽の方がまだ若い分だけ詰めが甘いようだ。
だがもし兵たちがそれを見ていたとしても、舟の揺れで倒れたようにしか見えなかっただろう。
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