第106話 逃避行
許靖の斜め後ろに、息子が無言で
緊張と出港の慌ただしさに紛れて、全く気がつかなかった。
「なんでって、父上を一人で置いて行くわけにはいかないでしょう」
許欽は飄々と笑った。
許靖はその様子に、怒るよりも呆れてしまった。
「お前な、自分のしていることが分かってるのか?」
「それは父上にも言いたいですけどね。それに産気づいた芽衣のそばにいても邪魔なだけですから、こちらにいさせてください」
許靖にはそれが本音とは思えなかったが、出産時の男の無力さは自分も体感している。
「腰でもさすってやればいい」
「さすり方が良くないそうです」
「陣痛は尻を押してやると楽になるらしいぞ」
「力加減が悪いからやめろと言われました」
「……私の時と同じだな」
「そうですか、父上と同じとは光栄です」
許欽は面白くもない冗談を言ってから笑った。
「まぁ私が父上を一人残さなかったのは『孝』ですからいいじゃないですか。それに、私にはとっておきの秘策もあるんです」
(昔、孟武伯が孔子に孝を尋ねたところ『親は子の病を憂うものだ』と答えた。お前のやっていることは『孝』でも何でもない)
許靖の頭に浮かんだのはそんな故事だったが、今さら説教をしても始まらない。
許靖はそれをぐっと堪え、他のことを聞いた。
「秘策というのは何だ?」
許欽は頭を掻きながらう唸った。
「うーん……効果があるかどうか分からないので、無いものだと考えてやって下さい。基本、父上にお任せします」
(そんなものはとっておきの秘策とは言わないだろう)
許靖の心中ではそんな当たり前の指摘が入っていたが、それを口にするだけの余裕はすでになかった。
軍がすぐそこまで迫っている。
許靖の目にも兵たちの腕に黒い布が巻いてあるのが分かった。兵たちは皆、大船を前にして獲物を狩る狼の様相を帯びている。
前面の兵たちは桟橋で堂々と兵を待つ許靖と許欽に違和感を覚えていたが、それでも走りは止めない。
許靖は立ち上がって、両手を広げた。
そして王朗とまではいかないものの、できる限り強く喉を震わせて叫んだ。
「
その言葉を、許靖は何度も叫んだ。
喉がつかえて咳き込みそうになったが、それでも無理やり声を上げ続けた。
前列の兵たちの速度が少し落ち、後ろに向かってざわめきが広がっていくのが分かった。
そして兵たちが許靖たちの目前に来る頃には、小走り程度の速度になっていた。
(とりあえず、問答無用で殺されはしなかったな)
それが許靖にとって第一難関だった。戦闘態勢に入ってしまうと、兵たちを止めるのは難しい。
孫策からは略奪を禁止する命令が出されているという話だ。
だから孫策直属の部下であることを匂わせれば、兵たちに心理的な効果があると思ったのだ。幸いにも功を奏した。
後方から指揮官らしき男が馬に乗ったまま進み出てきた。派手な
「孫策様直属の潜入員と言ったか。しかし、俺は何も聞いてはいないぞ」
許靖は膝をついて拝礼した。
「凌虎様、お久しゅうございます。以前に孫策様とご挨拶させていただいた李海でございます。覚えておいででしょうか?」
もちろん口からでまかせなので、凌虎の記憶にあるはずもない。
ただ、挨拶程度なら受けたのかもしれないと思った。そういった曖昧な記憶は誰にでもあるものだ。
凌虎は適当な生返事を返した。
許靖は気にせず言葉を畳み掛ける。
「その時も今も、潜入の詳しいことは申し上げられませんので凌虎様がご存知ないのは当然です。ただ言える範囲で申し上げますと、私の任務は会稽郡にいた孫家の縁者を戦の前に逃すことでございます」
凌虎はそれを聞いて眉をしかめた。
顎で船の方をしゃくりながら尋ねてくる。
「その縁者とやらは、あの船に乗ってるのか?」
孫家の縁者がいる船を襲うわけにはいかない。せっかくの獲物をみすみす逃すことになってしまう。
許靖は大きくうなずいて答えた。
「ご推察の通りでございます。貧民の避難船に紛れて逃れさせることに成功いたしました」
許靖の言葉に兵たちがざわめいた。その気持ちを凌虎が代表して口にした。
「貧民だと?あの船に乗っているのは、貧民なのか」
「はい。豫州の富豪が所有している船ですが、貧民救済の志のある者でございます。避難する力もない貧民たちを集めて、安全な地域へと運んでやっているのです」
隊全体が明らかに失望しているのが感じられた。
当然だろう。略奪しようにも、奪うべき財がないのだ。
凌虎は鋭い目をさらに細めて船を睨んだ。許靖はその視線に失望だけでなく、値踏みするような色合いを感じた。
(船自体の価値を見積もっているのだ)
許靖は心中でそう断じた。
凌虎の瞳の奥の「天地」には、うず高く積まれた財宝の山と、その頂きに座す狼とが見えた。
(これは、蓄財が好きな男だ。とにかく自分の財産を増やし、溜め込もうとする。中心が狼であるところから、戦は強いのだろうが……)
許靖は警戒した。普通なら船を鹵獲しても、処分して銭に変える難しいだろう。略奪を禁止されているならなおさらだ。
ただこの男には、いかなる努力をしてでもそれを実行しようとする蓄財欲が見て取れる。
「凌虎様、実はあなた様の部隊にお願いがあるのです」
凌虎は船から目を離さずに返事をした。
「何だ」
「この海岸を北へ一刻も行くと、この地域の豪族である謝氏の屋敷があります。そこに一族の溜め込んだ財貨が隠されているらしいのですが、戦を前にそれを移動させるという話を聞きました。凌虎様にはその移動前に鹵獲し、軍資金にしていただきたいのです」
もちろん全くのでたらめだ。
ここから北へ向かっても、謝氏の屋敷どころかしばらくは民家の一つもない。
何なら袋小路になっているところもあるので、もし会稽郡の斥候にでも見つかったら包囲されて殲滅される可能性だってあるだろう。
しかし凌虎は目を光らせ、その目を船から許靖へと向け直した。
「ほう。それはどの程度の財だ?」
(食いついたか?……もうひと押しだな)
許靖は凌虎の瞳の奥の「天地」を再度見つめた。
そして財宝の山の中に、武具が多いのを見て取った。
「財貨の詳しいことまでは分かりませんが、会稽郡で随一の宝剣があるという話だけは間違いないようです」
「宝剣か……なるほど」
凌虎の口調からは、明らかに謝氏の財宝へと心が傾いたことが感じられた。
一隊を率いる将でもあるし、戦乱の影響で武具の価値も飛躍的に上がっている。間違いなくこの男の嗜好に合っているはずだ。
(上手くいったか?)
許靖は期待とともに次の展開を待ったが、凌虎が移動の号令を出す前に副官らしい男が凌虎の袖を引いた。
小声で凌虎に耳打ちをする。
「謝氏の宝はもう移動されてるかもしれません。船は目の前にあります」
許靖はその副官の瞳を見た。
その「天地」には凌虎と同じように狼がいた。
しかし財宝の上に佇む凌虎の狼とは違い、この男の狼は半裸の女性を侍らせている。
(分かりやすく女好きな「天地」だな)
許靖はそう感じ取ると、すぐに口を開いた。
「屋敷には謝氏の娘もおりますが、お聞きになったことはないでしょうか?会稽郡随一の器量良しで、美しさにおいて彼女に勝る者は天下にいないという噂でございます」
この噂は本当だった。
謝氏の屋敷などそもそも無いので、その娘に会えるはずなどもちろんないが。
「……隊長」
副官は多くを言わなかったが、凌虎にはそれで十分伝わったらしい。
仕方ないやつだ、そんな様子で副官に向かって笑ってやった。
欲望の向く先は異なるものの、二人とも狼を中心に据えた「天地」た。おそらくは気の合う隊長・副長なのだろう。
「今から海岸を北へ向かう!」
凌虎は隊全体へ向けて号令し、兵から応える声が上がった。
その声と気合とを体に浴びてから、凌虎は許靖の方を再度向いた。
「おい、潜入員の……」
「李海でございます」
「李海、お前も付いてくるのか?」
許靖は首を振りながら頭を下げた。
「申し訳ございませんが、我々は孫策様の縁者にお守りしなくてはなりません。そこの小舟で沖に出れば、拾ってもらえる手筈になっております。謝氏の屋敷は豪邸で、海岸沿いを行けば間違いなく分かりますので」
「そうか、分かった」
凌虎の返答に許靖は安堵した。これで船が守れたどころか、自分たちも無事に開放されそうだと思った。
しかし、凌虎の次の言葉で絶望の淵へと叩き落とされる。
「では最後に、潜入員の証を見せてもらおう。持っているな?」
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