第105話 逃避行
「ええ!?」
許靖にとって今日はやたら驚きの多い日だが、中でもこれが一番の衝撃だった。
芽衣の方へ目を向けると、うずくまって産婆が腰をさすっていた。その横で許欽がおろおろしている。
「予定日まで、まだ日があるはずだが……」
「お産婆さんのお話だと確かに早いけど、このぐらいなら子供も多分大丈夫らしいわ。でも、この状態で船に乗るのは……」
確かにこうなってからの乗船はためらわれた。
航行中に産気づいたのなら仕方ないし、そのための準備もしているが、船上での出産は避けられるなら避けるべきだ。何があるか分からないし、何かあった時の対応は当然限られるだろう。
許靖は陳覧へと向き直った。
「……仕方ない。陳覧さん、我々はこの船には乗れません。もう出航するだけのところで申し訳ありませんが、荷を下ろしていただけますでしょうか?」
言われた陳覧は許靖たちの真剣な様子にも関わらず、明後日の方を向いていた。
そしてそちらに目を向けたまま、つぶやくような返事を返した。
「……いや、船には乗るしかなさそうだぞ」
許靖と花琳はその言葉に眉根を寄せた。
しかし陳覧の向いている方へと目をやると、すぐにその理由が分かった。
花琳は一瞬の間を置いてから、受け入れたくはないその現実を口にした。
「軍隊……
三人の視線の先から、軍の兵たちが土煙を上げてこちらへと向かって来ていた。まだ遠いが、かなりの規模の軍だ。軽く数百人はいるように見えた。
陳覧は舌打ちをした。
「あぁ、ありゃ孫策の軍だ。しかも最悪なことに、略奪がひどいって噂のある
許靖は凌虎、という名は初めて聞いたが、おそらく噂になっていた略奪を常とする部隊なのだろう。
まだ遠かったので許靖の目には腕の黒い布はよく分からなかったが、船乗りで常に遠くを見る陳覧にはよく見えているようだった。
花琳もかなり目が良い。そちらに向けた目を細めて、歯ぎしりした。
「あの軍からは強い殺気を感じます。通常の軍が民間人へ向けるものではありません」
それは詰まるところ、略奪する気まんまんで喜び勇んでいるといったところだろう。
今港にいるのは自分たちでだけで、他には漁船がいくつも繋がれているだけだ。
しかし、この大船であればかなりの収穫が見込まれるだろう。船を鹵獲するだけでひと財産だ。
「孫策軍が来たぞ!すぐに出港だ!」
陳覧が大声で命じ、船員たちが慌ただしく行動を開始した。
「だが……うちの船は図体がでかいから出足が遅い。尻に食いつかれるぞ」
陳覧は歯噛みしながら船へと向かった。許靖と花琳もそれを追う。
許靖は陳覧の背中に尋ねた。
「岸を離れても襲われますか?」
「漁船がいくつもあるだろう。南の兵は船の扱いにも慣れてる。追いつくと思えばあれを使うさ」
花琳も許靖に続けて尋ねた。
「船の戦力はどのくらいでしょう?」
「多少の賊には対応できる程度になっているが、あの規模の軍など相手にできん」
「私が時間を稼ぎます」
すぐに踵を返そうとした花琳の腕を、許靖が強く掴んだ。
「無茶を言うな、やめるんだ」
花琳は一人で港に残って戦うつもりでいる。そんな無謀をさせるわけにはいかなかった。
「離してください」
「花琳一人が戦っても、その横から次々に船が出て行くだけだ。意味がない」
「ですが……」
許靖の言うことはもっともだが、かと言って何もしないではいられない。
許靖はそういった花琳の気持ちを考えて言葉を選んだ。
「今一番守らなければならないのは、芽衣とお腹の子だ。芽衣について、守ってやりなさい。芽衣も花琳がそばにいてくれるだけで心強いだろう」
「……分かりました」
花琳は一瞬だけ悩んだが、すぐに許靖の言葉に従って芽衣の方へと駈けていった。
芽衣は陣痛と大きなお腹で動くのも大変そうだった。花琳は産婆とともに芽衣の乗船を介助し始めた。
許靖はそこから少し離れたところで、陳覧に小声で話しかけた。
「陳覧さん、後で私を拾ってもらうことは可能ですか?」
陳覧はその言葉に怪訝な顔を返した。
「どういうことだ?」
「少し時間を稼ぎます」
許靖の言葉で陳覧の頭には色々な考えがよぎったが、最終的には時間がなくてあれこれ聞いてられないという結論に至った。
「……お前は大丈夫なんだな?」
「やってみなければ分かりませんが」
「あの桟橋の先の小舟を使って沖へ出ろ。うちの船だ。俺たちはもし安全なところまで出られたら、それ以上は進まずに待っている」
(この男は
陳覧は小舟を指さしながら、許靖へ期待と心配の念を抱いた。
しかし兵たちが迫る中、それを十分には口にできない。
「死ぬなよ」
感情を込めたその言葉だけを残してから、船に乗り込んで行った。
陳覧が乗り込むと、船はゆっくりと動き出した。
一応は帆船なのだが、手漕ぎの櫓もついている。それが号令とともに力強く動いていた。
桟橋に残された許靖はそちらを見ず、迫り来る軍の方を向いていた。後悔と恐怖を押さえつけるためだ。
去りゆく船を見てしまうと、臆病な自分は馬鹿なことをしたと思ってしまうかもしれない。
桟橋の上に正座して、背筋を伸ばした。心が折れそうな時には、とりあえず格好だけでも立派な自分を演じてみせる。そうすれば不思議と心もそれに付いて来るものだ。
離れた船から花琳の声が聞こえた。
さすがにその声には振り向くと、花琳が船の甲板から飛び降りようとするのを小芳や周囲の人々が止めていた。
許靖は花琳を安心させようと、笑顔で手を振った。が、視界の端に入ったそれによって、笑顔はすぐに消えてしまった。
「……欽、お前なんでここにいる?」
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