第102話 告白

 それは、本来ならかわせる突きだった。


 しかし花琳はあえてかわさず、腕で受け止めた。多少の手応えがあった方が本人の自信につながるからだ。


 ただ、調子に乗せすぎるのも良くない。花琳は受け止めた拳を掴むと素早く捻り上げた。


 そのひと動作だけで相手はうめき声を上げて、身動きが取れなくなった。


「突いた後はもっと早く引きなさい。でなければ、このように反撃を受ける原因になります。伸び切った腕は基本的に隙だと思うように」


「……はい!」


 捻り上げられた腕の苦痛に耐えながら、健気な返事を返す。


 花琳が腕を離すとよろめきながら後ろに下がり、一礼した。


「よし、次!」


 花琳の声で別の男が前に出る。


 次の相手もある程度打ち込ませてやってから、適度に叩いてやった。そして必要な助言を与える。


 花琳とその門下生たちによる組手の稽古だ。


 門下生たちはかなりの人数いたが、花琳はできるだけ直接組手の相手をしてやった。


 型の稽古や筋力・柔軟性の鍛錬も大切だが、やはり実戦に勝るものはない。組手が一番それに近いのだ。


 花琳は自宅の裏の家を道場に改築していた。


 いや、正確に言うと改築したのは謝倹だ。ちょうど許靖宅の裏側が三軒続けて空き家になっていたので、おあつらえ向きとばかりに道場にすることにしたのだった。


 道場を開いてからもう三年ほどになる。


 初めは『胡蝶の会」などという訳の分からない団体が中心になっていたが、この三年で会員でない入門者もずいぶん増えた。


 花琳の教え方の評判が良かったのも確かだが、師範が女性だということも人気の理由だ。


 護身術を習おうとする女性、習わせようとする親が増えたのだ。これは乱世が混迷を極めていることも影響しているのだろう。


(……そもそも、繁盛させる気なんてなかったのだけど)


 花琳は組手を続けながらそんな事を考えていた。


 道場が栄えるかどうかなど、正直どうだっていい。だから受講料もほとんど実費だけで、かなり安くしている。


 しかしそれもまた評判の種になり、入門者は増える一方だった。


(まぁ、門下生が成長するのは嬉しいのだけど)


 それは花琳にとって喜びだった。


 芽衣を鍛えていた時から感じていたが、教え子が成長するのは自分が成長するのとはまた違った楽しさがある。花琳の師匠の毛清朴も、こんな気持ちだったのだろうか。


 成長とは、武術の技だけの話ではない。鍛錬を通して鍛えられる心の成長も喜ばしいものだった。むしろ、そちらの方が大切なことだろう。


 ゴロツキと呼ばれていた人間が、真面目に働き始める。人を傷つけるだけだった人間が、思いやりを覚える。引っ込み思案だった人間が、己を表現できるようになる。


 誰しもが、武術を通してまだ見ぬ自分に会えるのだ。


 花琳は何十人もの組手を終えて、一息ついた。門下生には各自で決められた鍛錬を行うよう命じ、自身は水分補給に下がった。


 椅子に座って体を休めていると、門下生の一人が歩み寄ってきた。花琳の道場の特徴である、女の門下生だ。


 齢は芽衣よりも一つが二つ下だろう。護身術を学ぶ目的で、一年ほど前に母親とともに入門してきた。


「あ、あの……先生、ちょっとご相談があるのですが……」


 娘は自分から声をかけてきたくせに、もじもじと言いづらそうにしている。


 その様子で、花琳はすぐに用件の半分以上が分かった。


「相談は私にじゃなくて、主人にでしょう?」


 娘は図星をつかれて頬を赤くした。


「は、はい。実は最近、父が縁談の話をいくつか用意してくれていたのですが、私と母がどうも気乗りしなくて……それでもし良かったら、許靖さんに見ていただけないかと思いまして」


 これが、道場が繁盛しているもう一つの理由だった。


 門下生は男女ともにいることもあり、ある時に許靖の勧めで門下生同士の縁談が成立したのだ。しかも立て続けに二件。


 許靖いわく、


「これ以上ないほどの相性だったから、つい世話を焼いてしまった」


ということだった。


 それ自体はいい。許靖もその二組も喜んでいた。


 しかし、すぐに自分のからはずみを後悔することになる。


「道場やってる花琳先生の旦那さんは、何でも人物鑑定の著名人らしい。特に男女の相性を見るのが得手で、数百件の縁談をまとめて『花神の御者』なんて異名を持っているらしいよ」


 数百件は嘘だし、人物鑑定でも男女の相性を見るのは特に難しい。


 そこは全くの誤解なのだが、花神の御者の噂を聞きつけて縁談のお願いに来る客がひっきりなしになった。


 当然、許靖は断った。花神の御者はもう懲りている。


 すると、断られた人間の一部が道場に入門してきた。門下生になって身内になれば、世話を焼いてもらえると思ったのだ。


 あまりに武術のやる気がない者はさすがに花琳が追い出したが、確かに門下生に対しては許靖としても断りづらかった。


 花琳としても自分が結婚でこれ以上ないほど幸せになれたので、他人の結婚を応援してあげたい気持ちになる。


 今花琳の前に立っている門下生は、別に縁談目的で入門したわけではなかった。真面目に鍛錬をこなしているので、断る理由もない。


「分かったわ。主人に言っておきます」


「ありがとうございます!」


 花琳の返事に、娘の表情は花が咲いたようになった。


(こんな素敵な顔ができるなら、きっと相手はいくらでも見つかるわね)


 花琳はそう思った。


「あ、でも……最近どうも郡役所が慌ただしいみたいで、いつになるか分からないわよ」


 ここ数日は許靖と許欽の帰りがやけに遅かった。まだ公にできないとのことで詳しくは聞いていないが、どうもゴタゴタがあるらしい。


 よほど大変なのか、許靖は寝ている間にうなされていることが多くなっていた。


 手を握って声をかけてやると少しずつ落ち着くので、花琳が起きた時にはそうしている。


「いつになっても構いません。親の用意してくれる縁談もありがたいと思うんですけど、私は花琳先生や芽衣さんみたいな幸せ仲良し夫婦になりたいんです」


「幸せ仲良し夫婦って……」


 花琳は娘の言い様に赤くなった。


 芽衣はともかく、自分はもう四十を過ぎた。夫と仲が良いことは確かだが、そんな風に表現されると恥ずかしかった。


「花琳ちゃん、耳が赤いよ。頑張り過ぎじゃない?」


 背後からかけられた声に振り向くと、芽衣が重そうなお腹を抱えてゆっくりと歩いて来ていた。


(この大きなお腹を見れば、誰だって幸せだろうとは思うでしょうね)


 分かりやすく幸せを宿したそのお腹には、二つの命が入っている可能性があるとのことだった。


 もしそうなら嬉しいし、望んでも子供が一人しか得られなかった花琳と小芳にとっては羨ましいことでもある。


 娘が芽衣に駆け寄り、大きなお腹を撫でてキャッキャと楽しそうに会話を弾ませていた。道場の女性陣は皆仲が良い。


 芽衣は最近はあまり道場に出なくなっていたが、お腹がだいぶ大きくなるまでは適度な運動と称して顔を出していた。実際には運動もせずにくっちゃべっていただけだったが。


「芽衣、出歩くのは無理のない範囲にしなさいね」


「大丈夫だよ。まだ予定日までだいぶあるし、やっぱり少し動いたほうがいいみたい」


 確かに芽衣は多少ふっくらしてきたようにも見える。


 妊婦にとって体重の増え過ぎは良くない。胎児のためにも、適度に歩くのは良いことなのだろう。


 花琳が芽衣を眺めながらこのお腹に適した運動は何かと考えていると、道場の入り口から許靖が入ってきた。


 気づいた門下生の何人かが会釈をしたが、許靖はそれに見向きもせずに、花琳の元へ一目散に駆けて来る。


「あなた、今日はずいぶんと早いのね。ちょうどこの娘が縁談の相手を探していて……」


 花琳は娘の縁談の話をするつもりだったのだが、許靖は息を切らせながらそれを遮った。


「そんな事より花琳、すぐに会稽かいけい郡を出る準備をしてくれ」


 花琳は夫の思いもよらぬ発言に驚いたが、驚いたあまりか自分も思いもよらぬ反論をしてしまった。


「……縁談は『そんな事』ではありません。人一人の幸せを決める、大切な事です」


 どう考えても『会稽郡を出る』という部分のほうが重要そうなものだが、花琳はそこには触れなかった。あまりにも突飛な話題だったので、頭がうまく反応できなかったのかもしれない。


 ただ、言われた許靖の方も花琳の思わぬ反論に、叱られた子供のような気持ちになってしまった。間のとり方の問題だろうか。


「そ、そうだな……すまない。えーっと」


 許靖は娘の瞳をじっと見た。数秒見つめた後、道場内をぐるりと歩き回って門下生の男たち一人一人の瞳を見ていく。そして一人の青年の目の前で足を止めた許靖は、その腕を掴むと娘の前まで連れてきた。


 なんの説明もなく引っ張って来られた青年は、明らかに戸惑っていた。


「な、何でしょう?」


「君たち、結婚しなさい」


「「はい!?」」


 青年と娘とが異口同音の声を上げた。


 青年の方は突然の展開に、娘の方は早すぎる展開に頭が追いつかないようだ。


「それで花琳、会稽郡に迫っている危険に関してだが……」


「「ちょ、ちょっと待ってください」」


 何の説明もなく縁談話から離れていく許靖に、青年と娘はまた全く同じ声を上げた。


 そして台詞がかぶってしまったことに気恥ずかしさを覚えたのか、二人とも黙り込んでしまった。


「なんだ、嫌なのか?」


 許靖にそう質問され、娘の頬に朱がさした。もじもじと口ごもりながら答える。


「い、嫌じゃないですけど……許靖さんは……私がこの人のこと気になってるの、ご存知だったんですか?」


 娘の発言に、青年は驚いて相手の顔を見た。


 許靖は青年に尋ねた。


「君の方はどうなんだ?」


「……俺も気になってましたけど、誰にも言ったことはないはずです」


 娘の発言を受けて、青年の顔も上気している。


 青年の言葉を聞いた娘の方はさらに赤くなってうつむいた。


「元から好き合ってるのなら、なおさら結構だ。私が見たのは二人の相性だけで、必ずしも初めから恋愛感情を伴うものではないからね。ご両親には『花神の御者のお墨付き』だと言っていいから、あとは自分たちで進めなさい」


 許靖自身は『花神の御者』などという二つ名を忌避していたが、ここぞとばかりに便利に使わせてもらった。


 実際そのお墨付きがあれば、少なくとも夫婦仲は間違いないという世評が確立しているのだ。


「花琳」


 許靖は花琳の手を取って家の方へ引いた。ここではゆっくり話ができないと思ったからだ。


 花琳もそれは同感だったようで、促されるまま許靖について行く。


 芽衣も若い男女に意味深な笑顔を残してから、早足で二人を追いかけた。


 残された二人はどうしていいか分からず、許靖たちが去った方の地面に視線を這わせた。向かい合うことも出来ないまま、ただただ沈黙している。


(相手を見つけてくれたのはありがたいけど、後は丸投げって……)


 少し不親切すぎやしないだろうか。娘がそう思っているところに、意を決した青年が口を開いた。


「あ、あの!……花神の御者って、神様の使いみたいなもんですよね?」


「え?……ええ、そうですね」


 花神は花にまつわる神様で、結婚の際に新婦が乗る花車にちなんでつけられた許靖の二つ名だ。確かに花神の御者であれば、神様の使いのようなものだろう。


 青年は大きく息を吸ってから、娘の方へ向き直った。娘も反射的に青年の方を向く。


「神様の使いに結婚しろって言われたんだから、もう結婚するしかありませんよね」


 その言葉を娘はこれ以上ないほど嬉しいものだと感じた。


 が、青年にとって不幸なことに、彼はこの先の人生で事あるごとに『あなたは求婚まで人のせいにしていた』と言われ続けるのだった。

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