第103話 告白
「戦、ですか……」
花琳のつぶやくような声を、許靖はうなずいて肯定した。
「ああ、会稽郡は戦場になることが決定した。相手は袁術軍だが、実際に攻めてくるのは
「孫策というと……だいぶ昔に我が家に来た、あの少年ですか?」
孫策は父親の孫堅、弟の孫権と共に洛陽の許靖宅を訪れたことがある。人物鑑定を受けるためだ。
その時の孫策はまだ少年で、瞳の奥の「天地」もしっかりとは確立していなかった。
「あの少年が一軍を率いるほどになっているんですね」
「時の流れを感じるな。しかも、相当な戦上手らしい。一部では『小覇王』などとも呼ばれ始めているとか。孫堅殿さえ生きていれば、孫家はかなりの勢力になっていただろうな」
当時の当主であった孫堅は、すでに亡くなって久しい。敵兵に射殺されたのだが、戦場で堂々と戦っている時ではなく、半ば暗殺のような形で横死している。
許靖は孫堅の瞳の奥の「天地」から、そのような事態を危惧していた。それに関して助言もしていたつもりだが、孫堅は武人の誇りとしてその横死すら受け入れる覚悟で戦に臨んだ。
孫堅を人として好ましく思っていた許靖としては断じて認められる事ではなかったが、そのような生き方があるのだという事も理解せねばならなかった。
孫堅の死後、その軍閥は瓦解して袁術軍に吸収された。袁術は孫堅の声望が大きかったことをよく分かっているから、息子の孫策が成長してからも孫家に力を戻させたくはなかった。
しかし、孫策はそのような不利な環境下で多くの戦果を残し、孫家を盛り返している。
「孫策は今でこそ袁術配下ということになっているが、いつか独立するのではないかと言われている」
許靖の説明を継いで、許欽が客観的な分析を加えた。
「つまり、勢力拡大を狙って積極的によそを攻める動機が強いのです。小さな勢力が大きな野心を抱けば、なりふり構っていられないところもあるでしょう」
なるほど、とこの場の全員がここまでの話に納得した。
部屋には許靖、許欽、花琳の三人の他に、陶深、小芳、芽衣もいる。六人はもう一家族のようなもので、その身の振り方も当然一緒になるだろう。
花琳がふと思い出して許欽に尋ねた。
「欽。あなた少しとはいえ、あの少年と遊んでいたわよね。どんな子か覚えていない?」
母親の質問に許欽は苦笑いした。
「本当に少しだけですし、子供の頃の話ですからね。ただ、とても良い笑顔をする男の子だったと記憶に残っています。それと、戦ごっこをして遊んだぐらいでしょうか。父上の人物鑑定の記憶の方がまだ参考になりますよ」
「いや、私の方も子供ではあまり参考にならないが……確かに戦に向かう気質は強かったな。状況を考えても、間違いなく攻めてくると思っていい」
当時の孫策の瞳の奥の「天地」は、甲冑が一領あるだけだった。父親である孫堅の甲冑だ。
おそらく父への憧れと、戦の才とを示していたのだろう。
それまで黙っていた小芳が口を開いた。
「戦がほぼ間違いないっていうことは分かりました。けど、一番気になるのはやっぱり芽衣のことです」
そう言って、隣りに座る娘の大きなお腹を見やる。
「予定日までまだ結構ありますけど、安全に移動できるかが疑問です。その危険と戦に巻き込まれる危険のどちらが大きいかで避難を決定してください」
小芳の意見に、この場の全員が同意した。
やはり今の状況で最も大切なのは、産まれてくる子と芽衣の安全だ。
「そもそもどこに避難するんです?移動の負担も場所次第ですよね?」
小芳の疑問に、許靖は一度許欽と目を合わせてから答えた。
「実は王朗の計らいもあって、
「交州……って、この世の果てという印象ですけど……」
小芳の感想はさすがに言い過ぎだが、首都たる洛陽にいた人間には似たような印象を持っている者が多いはずだ。
交州は漢帝国の最南端に位置し、異民族の地と接している。というか、住んでいる者の多くが異民族と言っていいだろう。
前漢の時代、時の武帝が
許靖は明らかに不安がっている小芳に、熱のこもった口調で話した。
「交州は確かに漢の最南端にあり、辺境という印象が強いだろう。しかし、中央から遠いが故に戦からは最も離れることができる。今まで戦を避けてあちこちと移り住んできたが、今度こそ落ち着ける可能性が高いのではないだろうか。それち交州を治める
まくし立てる許靖を、他の五人が
「芽衣の体への負担に関してだが、移動はそのほとんどが船だ。陸路は荷車に乗せよう。寝ている間に着く、というのは言い過ぎかもしれないが、過度に運動させることはないだろう」
「でも、交州までだとさすがに産まれる可能性もありますよね?」
風や天候にもよるだろうが、船でも数日で着くということはないはずだ。芽衣のお腹は大きく、予定日はまだでも見た目にはいつ産まれてもおかしくない外見をしている。
「そ、それに関してだが、共に船で避難する人員の中には産婆もいそうだという話を聞いた。船は大きく複数の楼もあるので、準備さえしておけば緊急事態でもなんとか……」
「それは……」
「それは完全な希望的観測ですよね」
花琳が小芳の言葉を奪うように口を開いた。
その鋭い語調に、許靖はピタリと言葉を止めた。
「あなたらしくもない。もう少し冷静に考えましょう。あなたにとって戦というものがどういうものかは分かります。でも……」
花琳はそこでいったん言葉を切った。
口にするべきかどうか一瞬悩んだが、それを言うことにした。
「董卓はもう死にました。あなたを傷つけた人間はもういません」
だから恐れずに、冷静に考えてほしい。そこまでは言わなかったが、花琳の思いは伝わったはずだ。
董卓が許靖の目の前で虐殺をしてみせたことは、この場の全員が知っている。それが許靖の深い傷になっていることも。
しかし心の病にも関わる繊細な事柄であるため、あまり触れられてはこなかった。許靖も具体的なことは話していない。
董卓は許靖たちが会稽郡へ避難してきた年に死んでいる。部下に暗殺されるという最悪の死に方だ。
しかも暗殺後は部下同士で内紛が起こり、誰も乱世を終息させる力を持てないままグダグダになってしまった。
許靖は花琳の言葉に何を思ったのか、床の一点を見つめ続けている。
やがて、ボソリとつぶやいた。
「……董卓は私を傷つけたのではない。戦を教えたのだ」
「それは」
「
許靖の言葉の意味を、誰も理解できなかった。何かしらの
しかし、それはなんの隠喩でもない。過去にあったことをそのまま口にしているだけだ。
「
許靖の言葉に、その場の全員が絶句した。
こんな具体的な話は、今まで花琳にもしたことがなかった。
「私はその後、十人を斬った。
許靖は自身がいまだに受け入れられていないその事実を、初めて家族に話した。
不思議と話すことが辛いとは感じなかった。ただ、自分が今生きているのかどうかも分からないような、まるで感情が麻痺してしまったかの感覚を覚えた。
家族は皆、何も言えなかった。
優しく臆病な許靖がそれだけの事を強制されていたという事実に、同情を通り越した思いを抱いていた。
「最近、毎晩同じ夢を見るんだ。戦で芽衣が兵たちに腹を切られて、中の赤子が私に投げられる。私はそれを落とさないように、慌てて抱くんだ」
許靖は自分でも気づかぬ間に片目から涙を流していた。それがゆっくりと頬を伝って顎へと流れる。
「それから私は赤子を守るため、剣を持って兵士を斬らなければならない。でも、本当は嫌なんだ。もう十人も殺した。私はもう、殺したくないんだ……」
肉を斬る剣の感触が、断末魔の叫びが、血と腸の臭いが蘇ってくる。
花琳が許靖を抱きしめた。
しかし許靖はそれ以上涙を流すことはできなかった。
もしも号泣することができたなら、あるいは心の傷も少しは癒えたのかもしれない。
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